昨日昼前に新元号が「令和」と発表されました。

何でも、新元号関連のツイートが450万もあったらしく、そのせいなのか休憩時間に覗こうとしてもアクセスできませんでした。

さて、今回の改元で、またぞろ「新元号なんか興味ない」などという人をたくさん見かけましたが、私に言わせれば「カッコつけているだけ」。斜に構えている自分に酔っているだけだと思う。普通の日本人なら興味あるでしょう。

というか、「元号不要論」がまた幅を利かせてきました。それも役所である外務省が、これからは元号を使わず西暦で行くとか。まぁ外務省は外国が相手だからそれは致し方ない。しかしながら、外国と一口に言っても西暦を使っているところばかりじゃない。イスラム歴の国と文書を交わすときにはどうするんだろう(これまでどうしてきたんだろう)と素朴な疑問が湧きます。

元号がないほうが計算をしやすいという利点があるのはわかりますし、コンピュータで何でも処理するようになった現在、改元の度にシステムを変えたりするのはいろいろと面倒だし金もかかる。

だから元号不要論があるのは理解できます。理解できますが、私は元号はあったほうがいいと思います。

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(平成の画像を使ったのは、単に菅が嫌いだから)

改元という「フィクション」
西暦にしろ和暦にしろ、時間的な区切りというのは「フィクション」にすぎません。

動物を見ればわかります。彼らは日付とか曜日に関係なく生きています。大晦日から元日になる瞬間に何らかの感慨を抱くなどということがありません。世紀末に不安になったり、新世紀を迎えて祝ったり、そんなことをするのは人間だけです。人間にはフィクションが必要なのです。

古来、元号というフィクションに一番求められたのは、「気分を変える」というものでしょう。飢饉や災害でしょっちゅう改元されていました。暗い時代といまとの間に「結界」を張ったわけですね。

いまは一世一元になりましたが、明治、大正、昭和、平成、ときて、令和。まだ「れいわ」という音の響きと「令和」の字面に馴染めませんが、そのうちに馴れるでしょう。平成だって最初は「ダッセー! 昭和のほうがかっこいい」と思ってましたから。

俗に「景気は気から」と言われますが、改元をきっかけに好景気になるかもしれません。人間は気分で生きているのだから充分ありえることです。


フィクションから意味が生じる
1990年だから平成2年ですか、キネ旬で「80年代ベストテン」という特集がありました。その選者の一人である大久保賢一氏が、日本映画界の80年代に関してこんなコメントを寄せていました。

「1980年から1989年までの10年間という区切りには何の意味もない。あえて意味を見出だすなら、それは『ツィゴイネルワイゼン』から『どついたるねん』に至る荒戸源次郎の10年ということになる」

意味がないと言いながら自分で意味を言っちゃってますね。

そうなんですよ。確かに1980年代という区切りには何の意味もありません。フィクションにすぎないのだから。しかし、いったん区切ってしまえば何らかの意味を読み取ってしまうのが人間という生き物の性です。

意味があるから区切るのではありません。
区切るから意味が生じるのです。

意味が生じるということは、その区切られた時代に思い出が生まれるということ。

「80年代」「90年代」「2000年代」「2010年代」「2020年代」という区切りと、「昭和」「平成」「令和」という区切り。

西暦と和暦の両方使えば、思い出が増えますよ、きっと。

人生そのものは変わらないのだから思い出が増えるはずがない? 

何をバカな。と、私は思います。思い出というのは人間の気分で作られるものなんだから、区切られた時間が多いほど思い出は増えるはずです。

仮に思い出が増えなくとも、少なくとも振り返る機会は増えますよね。それは楽しい時間が増えるということ。

元号が絶対必要だというわけではありません。そのほうが楽しいじゃないかと申し上げている次第。