伊藤洋司という映画批評家による『映画時評集成2004-2016』という本を読みました。
蓮實重彦に多大な影響を受けた人らしい批評ばかりですが、蓮實のようにこちらを刺激してくれる言葉はあまりありませんでした。でも言いたいのはこの本の感想ではなく、この著者もまた「作家」と「批評家」を対立概念として捉えているんだな、ということ。
創作=批評
よく、このブログで映画の感想を書いていると、脚本家志望者が批評をするのはいかがなものか、みたいなことを言ってくる人がいます。
なぜ???
多くの人が「創作」と「批評」を対立概念として捉えてるんですよね。でもそれは違うと思う。両者は「いい作品が増え、悪い作品を駆逐する」というゴールが同じという意味において、共闘関係にあると昔から私は思っています。ただやっていることが実際に作るか、作られたものを批評するかの違いだけ。
以前、こんな日記を書きました。→「作家と批評家の違いについて」
違いについて書いただけです。どちらがすぐれているとか劣っているとか、そんなことは書いてませんし、思ってもいません。共闘関係なのだから。目指しているゴールは同じなのだから。
だから、脚本家が批評してもいいと思うし、監督が批評してもいいと思う。
そもそもの前提として「創作=批評」ですよね?
脚本家の荒井晴彦さんがよく言っているのが「創作というのは批評なんだ」ということ。ハワード・ホークスが『真昼の決闘』への批評として『リオ・ブラボー』を作ったのは有名な話。
同じ脚本家の高橋洋さんも名著『映画の魔』で似たようなことを言っていました。
「真の映画製作は、なぜこうではいけなかったのか、という既存の映画製作システムを疑うところから始まる」
みたいな意味のことが書かれてました。疑うというのは批評的な目をもつということでしょう。
批評家は作家になれなかった人たち?
荒井さんはもう30年ぐらい前から「映画芸術」の編集長として批評活動をしています。盟友の澤井信一郎監督から「あれは敵を作ってるからやめたほうがいい」と忠告されたこともあるとか。そりゃま、舌鋒鋭く批判するからされたほうからすれば「敵」に見えるのかもしれないけど、根っこにあるのは映画への愛情だろうからそれは誤解だと思う。
というか、批評と創作は対立するものだと捉えているからそういう誤解が生ずるんじゃないですか? もっと言えば、批評する者を一段低い者として捉えている。「批評家は実作者になれなかった二流の人間の集まりだ」とは山城新伍の下品きわまりない言葉ですが、同じように考えている作家はたくさんいるのでしょう。
これには批評家のほうにも問題があって、どうも彼ら自身が「自分たちは作家よりも下等」と思っている節がある。
『映画時評集成2004-2016』の伊藤洋司さんも、巻末の青山真治監督との対談で、自分が好きな映画を青山さんも挙げているのがとてもうれしいと言って持ち上げている。作家と同じ価値観を共有できているのがあたかもひとつのステータスでもあるかのように。
作家の仕事が立派なのと同じく批評も立派な仕事だ! と気炎を上げた田山力哉さんのような批評家がいなくなって久しい。
逆に青山さんや黒沢清監督は自分たちより批評家が一段低いとは思っていないはずですよ。思っていたら蓮實重彦から多大な影響を受けたなんて口が裂けても言えないでしょう。
批評は批評家だけのものなの?
そういえば、『映画時評集成2004-2016』の映画本に関する文章の中で気になることが書いてありました。
刺激的な映画本がなく、批評家の言説が機能していないという文脈で、ブログやツイッターの素人批評家のレビューがその代りをしている、それでいいのか、みたいな意味のこと。
うーん、何かエリート意識丸出しというか、素人批評家の文章にもいいものはたくさんあると思うし、別にそれを読んで映画館に足を運んだり、なるほどと思ったっていいじゃないですか。
どうもこの伊藤洋司という人は、「批評はプロの批評家の砦」みたいに思っていて、その砦は自分たち批評家が守らなくては、と思っているらしい。
いやいや、そうではなくて、「映画」という砦を守るために作家と批評家とブロガーやツイッタラーが共闘していくというのがあるべき姿じゃないんですかね?
映画の中で「創作」と「批評」を分けるからおかしなことになる。分けるから「青山真治という映画監督が過去10年で最もすぐれた批評家ではないか。でもそれでいいのか」という言葉が出てくる。何ゆえにそれでいけないのか少しも理解できない。
両者を分けなかったヌーベルバーグの連中は作家になったし、作家になったあとも批評活動してましたよね。大島渚だって助監督時代からものすごい批評を書いていた。あれが健全な姿だと思うのです。
作家と批評家のどちらがすぐれているわけでも劣っているわけでもない。お互いがお互いにいい刺激を与えればそれでいいと思う。
たぶん、伊藤洋司という人の「最近の映画批評家の仕事に芳しいものがない」という危惧(これが的を射ているのかどうか、ろくに映画本を読まない私にはわからないけれど)は単に考え方の問題ではないんですかね? 日本の批評家ってみんなヌーベルバーグが大好きなのに、彼らのように「遊撃」することがないですよね。そこが根本的な問題ではないかと思った次第です。
蓮實重彦に多大な影響を受けた人らしい批評ばかりですが、蓮實のようにこちらを刺激してくれる言葉はあまりありませんでした。でも言いたいのはこの本の感想ではなく、この著者もまた「作家」と「批評家」を対立概念として捉えているんだな、ということ。
創作=批評
よく、このブログで映画の感想を書いていると、脚本家志望者が批評をするのはいかがなものか、みたいなことを言ってくる人がいます。
なぜ???
多くの人が「創作」と「批評」を対立概念として捉えてるんですよね。でもそれは違うと思う。両者は「いい作品が増え、悪い作品を駆逐する」というゴールが同じという意味において、共闘関係にあると昔から私は思っています。ただやっていることが実際に作るか、作られたものを批評するかの違いだけ。
以前、こんな日記を書きました。→「作家と批評家の違いについて」
違いについて書いただけです。どちらがすぐれているとか劣っているとか、そんなことは書いてませんし、思ってもいません。共闘関係なのだから。目指しているゴールは同じなのだから。
だから、脚本家が批評してもいいと思うし、監督が批評してもいいと思う。
そもそもの前提として「創作=批評」ですよね?
脚本家の荒井晴彦さんがよく言っているのが「創作というのは批評なんだ」ということ。ハワード・ホークスが『真昼の決闘』への批評として『リオ・ブラボー』を作ったのは有名な話。
同じ脚本家の高橋洋さんも名著『映画の魔』で似たようなことを言っていました。
「真の映画製作は、なぜこうではいけなかったのか、という既存の映画製作システムを疑うところから始まる」
みたいな意味のことが書かれてました。疑うというのは批評的な目をもつということでしょう。
批評家は作家になれなかった人たち?
荒井さんはもう30年ぐらい前から「映画芸術」の編集長として批評活動をしています。盟友の澤井信一郎監督から「あれは敵を作ってるからやめたほうがいい」と忠告されたこともあるとか。そりゃま、舌鋒鋭く批判するからされたほうからすれば「敵」に見えるのかもしれないけど、根っこにあるのは映画への愛情だろうからそれは誤解だと思う。
というか、批評と創作は対立するものだと捉えているからそういう誤解が生ずるんじゃないですか? もっと言えば、批評する者を一段低い者として捉えている。「批評家は実作者になれなかった二流の人間の集まりだ」とは山城新伍の下品きわまりない言葉ですが、同じように考えている作家はたくさんいるのでしょう。
これには批評家のほうにも問題があって、どうも彼ら自身が「自分たちは作家よりも下等」と思っている節がある。
『映画時評集成2004-2016』の伊藤洋司さんも、巻末の青山真治監督との対談で、自分が好きな映画を青山さんも挙げているのがとてもうれしいと言って持ち上げている。作家と同じ価値観を共有できているのがあたかもひとつのステータスでもあるかのように。
作家の仕事が立派なのと同じく批評も立派な仕事だ! と気炎を上げた田山力哉さんのような批評家がいなくなって久しい。
逆に青山さんや黒沢清監督は自分たちより批評家が一段低いとは思っていないはずですよ。思っていたら蓮實重彦から多大な影響を受けたなんて口が裂けても言えないでしょう。
批評は批評家だけのものなの?
そういえば、『映画時評集成2004-2016』の映画本に関する文章の中で気になることが書いてありました。
刺激的な映画本がなく、批評家の言説が機能していないという文脈で、ブログやツイッターの素人批評家のレビューがその代りをしている、それでいいのか、みたいな意味のこと。
うーん、何かエリート意識丸出しというか、素人批評家の文章にもいいものはたくさんあると思うし、別にそれを読んで映画館に足を運んだり、なるほどと思ったっていいじゃないですか。
どうもこの伊藤洋司という人は、「批評はプロの批評家の砦」みたいに思っていて、その砦は自分たち批評家が守らなくては、と思っているらしい。
いやいや、そうではなくて、「映画」という砦を守るために作家と批評家とブロガーやツイッタラーが共闘していくというのがあるべき姿じゃないんですかね?
映画の中で「創作」と「批評」を分けるからおかしなことになる。分けるから「青山真治という映画監督が過去10年で最もすぐれた批評家ではないか。でもそれでいいのか」という言葉が出てくる。何ゆえにそれでいけないのか少しも理解できない。
両者を分けなかったヌーベルバーグの連中は作家になったし、作家になったあとも批評活動してましたよね。大島渚だって助監督時代からものすごい批評を書いていた。あれが健全な姿だと思うのです。
作家と批評家のどちらがすぐれているわけでも劣っているわけでもない。お互いがお互いにいい刺激を与えればそれでいいと思う。
たぶん、伊藤洋司という人の「最近の映画批評家の仕事に芳しいものがない」という危惧(これが的を射ているのかどうか、ろくに映画本を読まない私にはわからないけれど)は単に考え方の問題ではないんですかね? 日本の批評家ってみんなヌーベルバーグが大好きなのに、彼らのように「遊撃」することがないですよね。そこが根本的な問題ではないかと思った次第です。
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