2018年12月17日

久保明教という学者による講談社選書メチエ『機械カニバリズム 人間なきあとの人類学へ』を読みました。





この本はAI=人工知能によって人間がどうなるかを探究したものです。

AIというと、自律システムとして自動運転など人間の代わりを務めてもらおうという考え方と、しょせん他律システムにすぎないのだから道具として使いこなせばいいという考え方ふたつに分けられる、でもその二つを対立概念として捉えるのは間違いで、第三の道を考えねばならないと著者は言います。


銃人間
しょせん拳銃は道具にすぎないから人間の意思で使うべきときとそうでないときを峻別すればいい、という考え方が短絡的なことはすぐわかります。拳銃がもつ殺傷能力に魅せられて引き金を引いてしまうことがあるから。その場合、拳銃が自律システムとして人間を操っていると考えることが可能ですが、そうはいっても拳銃を手にした人間が必ずしも引き金を引くとは限らないし、引き金を引かずとも拳銃が懐に入っているだけで気持ちが大きくなって普段とは違う行動をしたりする。拳銃というテクノロジーが人間に影響を与えるというわけです。


既読スルー
別の例では、LINEの既読スルーが取り上げられます。
もともとLINEの既読通知機能というのは開発当初はなかったそうです。サービス開始が東日本大震災の3か月後から始まったため、返信できない被災者たちが「読んだことだけでもわかれば安心できる」ということで付け足された機能なんだとか。初めて知りました。

最初はそういう理由で作られた機能ですが、そのような機能は次第に忘れられていき、既読になったのに返信がない、そのために人間関係のトラブルの原因になる「既読スルー」という概念が生まれました。何とか既読スルーにならないようにお互い返信を繰り返したり、最悪の場合はそれが原因で殺人事件まで起きる。

この本では、そのようなテクノロジーが人間に影響を与え、それによってさらにテクノロジーも影響をこうむり、更新されたテクノロジーがまた人間に影響を与え……という、人間よりAIを上位に置くのでもその逆でもなく、人間とAIが一体になったとき(それがサブタイトルにある「人間なきあと」です)我々はどうなるのかを考察しています。


0.5人称の語り
もともと人間の発語は一人称の語りですが、ネット上、特にツイッターでは「0.5人称」になっている、と著者は言います。

つぶやくといっても現実につぶやくときは完全に独り言の場合もあるけれど、ネット上でそれはありえない。誰かが受信してくれるのを期待してつぶやかれる。どこかの誰かがいいねやリツイートという反応を示したとき、つまりそのつぶやきをきちんと受け止めた人間がいたと認識されたとき、初めてそのつぶやきは一人称となる。それまでは0.5人称なんだと。これは卓見ですね。


でも、私が理解できたのはこれだけ。
この本はとても難しくてよく理解できないのです。もっとわかりやすく書いてほしいとも思うけれど、将棋に詳しくない人はもっとわからないかもしれない。「将棋については何々というサイトで駒の動かし方など見てください」と平然と書いていますが、それは本の書き手として書いてはダメなことでは? 他の人の説明を読まないと理解できない本なんて。

どうもこの著者は頭はとてもいいんだろうけど親切じゃないですね。それに「銃人間」のように「AI人間」が世界に跋扈し人間なきあとの人類学を探究するとは前述のとおりですが、最終的に何を言いたかったのかはよくわからない。

ま、私の頭が悪いだけかもしれませんが。www





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