Benedict_Cumberbatch

ベネディクト・カンバーバッチが「これから仕事をする現場で、男女が同額のギャラを受け取っていない場合はその仕事を断る」と発言したらしいですが(→こちらの記事)やはりこの男は底が浅いと思いました。というか、まるで自分は純粋なフェミニストみたいに言ってますが、もしかすると無意識の女性差別主義者かもしれないな、と。


なぜ「同額」なのか
記事には「給料や機会の平等こそフェミニズムの根幹」とありますが、半分は間違いです。
確かに「機会」は平等でなくてはいけません。でも「給料」はその人がやった仕事に対する対価なのだから「結果」じゃないですか。機会という「入口」と結果という「出口」を一緒にするのは明らかな間違いです。
能力や成果に応じてギャラは変動するのが普通。入口は誰にも平等に開かれていないといけないけれど、出口が平等っておかしいでしょ。能力が高くて成果も高かった人が、低かった人と同じであってはいけない。特に映画界なんて実力が何よりものを言うんだし。

格差はあるのが当たり前です。格差があるのが問題なのではなく、格差が固定化することが問題のはず。貧乏人の子どもは絶対金持ちになれないとか。しかし、「男女同額」というのは「固定化」に一役買うことになりませんかね?

確かに、これまで男優のほうが女優よりギャラが高額だった傾向が高いのは否めません。能力云々に関係なく「男だから」というだけで女性より給料が高い。これは映画界にかぎった話じゃないと思うし、それを是正するのはとても大事なことです。

しかしそれならば「能力の高い女性は能力の低い男性より高いギャラをもらってしかるべき」とならねば論理的におかしい。なのになぜ「同額」なんでしょう?

カンバーバッチの底が浅いというか、かなり問題だと思うのは、「女性が男性より能力が高い可能性」を最初から排除していることです。それは「無意識の女性差別」と見て間違いない。


テニスにおける男女格差
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テニスでは、ちょっと前まで男女の優勝賞金に差がありましたが、いまは四大大会はすべて男女同額らしく、それより下の大会でもすべてそうなのかは知りませんが、40年前とかは男子のほうが数倍も多かったらしい。

だからといって、まったく同じにする必要なんてないと思います。
優勝賞金って何よりもチケット収入が主な財源なんだから、男子の試合に観客が多ければ男子に多く払い、女子の試合に観客が多ければ女子に多く払えばいいだけの話では? 前年度の男子と女子の観客動員の比率をその年の賞金額の比率と同じにする、とか。

実際には、男子の試合の集客率のほうが3倍ほど高いようです(私は女子のテニスのほうが面白いんですけど、そう思って見ているのは少数派とか)。ただ、大会によってばらつきがあるはずなので、男子が女子より3倍の観客を集めたのなら賞金も3倍にすべきだし、2倍なら2倍、1.5倍なら1.5倍。当然、女子が男子より2倍観客を集めたのなら女子が2倍もらうべきです。「男女平等」ってそういうことじゃないの?

だからやっぱり問題は「固定化」なんですよ。すべてを流動的にすればいい。

それから、フェミニストとか男女平等論者がずれてるなぁと思うのは、「男女が平等であればそれでいい」と思っていることなんですよね。

テニスにおける格差は男女だけではありません。
シングルスとダブルスの格差は男女の格差以上です。そりゃそうだと思います。私もシングルスは好んで見るけれどもダブルスなんてほとんど見たことないですから。観客が呼べないのであれば賞金は少なくて当たり前でしょう。しかし、男女平等論者は「男女の格差は許せない」と息巻くのに、シングルスとダブルスの格差には何も言わない。「結果」の平等を問うのであれば、どちらにも反対の声を上げないといけないはずなのに。


「政治的正しさ」は両刃の剣
いまの世の中、「政治的正しさ」こそが正義と思っている人が多いようですが、それは「手段」にすぎないと思う。男だからという理由だけで高額のギャラをもらうのはおかしい。そこに「男女平等」という政治的正しさをもちだして是正していくのは大事なことです。でも、それが「目的」になってしまったら「男女同額」という歪んだ平等主義に行き着くしかない。女性が男性より能力が高い場合でも、男性と同額のギャラしか受け取れなくなってしまいます。

政治的正しさというのは、だから両刃の剣なんです。そんな危険なものはあまり振り回さないほうがいい。

繰り返しますが、「男女同額」という発想の根底にあるのは「女性が男性を上回る可能性などない」という女性蔑視の思想です。