日本映画専門チャンネルでやっていた『鬼の棲む館』。これがべらぼうに面白かった。神話と宗教が絡み、男二人の「英雄の旅=ヒーローズ・ジャーニー」が時代背景とともに見事に描かれています。


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1969年大映作品『鬼の棲む館』
原作:谷崎純一郎『無明と愛染』(「あいぞめ」ではなく「あいぜん」です)
脚本:新藤兼人
監督:三隅研次
出演:勝新太郎(無明の太郎) 
   高峰秀子(楓)  
   新珠三千代(愛染)  
   佐藤慶(高野の上人)




時代背景
まず、高峰秀子演じる楓が「頼もう」と荒れ果てたお堂を訪ねる場面から始まります。そこに住んでいるのは無明の太郎と言われる盗賊とその愛人の愛染。楓は太郎の妻なんですが、愛染に寝取られたと。それで太郎と奪い返しに来た。

そんな楓の気持ちなどお構いなしに、太郎は京へまたぞろ金目のものを盗みに行くと言って出かけます(このとき薪代わりに仏像を叩き斬るのが後半に向けての伏線ですね)。京はひどい戦乱にまみれていて、応仁の乱の時代なのかな、と思いましたが違いました。

太郎がいない間に佐藤慶演じる高野の上人が一夜の宿を求めて訪ねてきます。このとき「京方と吉野方が……」と語っていて、なるほど、南北朝時代なのかと。

鎌倉末期の直後で南北朝時代が舞台というのがこの映画のミソですね。鎌倉末期から持明院統と大覚寺統の間で「両統迭立」の状態にあり、その末期に後醍醐天皇が現れて南北朝時代に突入。皇統が分裂していた時代でした。

この時代背景は後半の展開にかなり大きな意味をもってきます。


英雄の旅=ヒーローズ・ジャーニー
楓は上人に語ります。
かつて荘園名主だった太郎は戦火で荘園が潰れたために京へ出てきて愛染と出逢い、その愛染によって暗黒面に落とされた。楓はそんな太郎を奪い返しに来たのだと。しかし、実際は愛染に復讐したい気持ちのほうが強いようです。。

そこを上人は鋭く突きます。愛染を「鬼」と罵る楓の心にもまた鬼が棲んでいると。鬼は多かれ少なかれ誰の心にも棲むものだ、というのが真言宗の考え方かどうかは知りませんが、少なくともこの上人の思想ではあるらしい。

では、なぜこの上人はそのような思想をもつに至ったか。やはり上人自身がかつては暗黒面に堕ちたアンチヒーローだったことが大きいのでしょう。
いまは出家して英雄の旅=ヒーローズ・ジャーニーを歩んでいる。かつての自分のような太郎に出会い改心させようとする。が、上人もまた太郎と同じくかつて愛染の誘惑に負けた弱い人間だったことが判明します。上人はかつて貴族で、愛染にそそのかされて人を殺めたことが語られます。太郎と上人は同じ穴のムジナというわけです。そして、再び愛染が色仕掛けで上人に迫る。

で、こんなことになってしまいます。

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己に負け、仏の道を誤った上人は舌を噛み切って自殺します。英雄の旅を完遂できなかった上人の胸中を察するととても悲しい。


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しかし、「仏も私のカラダに負けた!」と高らかに笑う新珠三千代を見た勝新は発作的に彼女をぶった斬ります。そして、上人の遺志を継いで、妻の楓とともに出家をする。

このへんの展開はとってつけたような感じが否めませんが、上人が堕落する直前、太郎が上人の念仏によって黄金色の仏像の強い光に負けたという事実が、彼の目に「仏性」を見えさせたのでしょう。鎌倉仏教が花開いた直後でまだ末法思想の名残もあっただろう時代。しかも、いつ終わるかわからない戦乱の世だった、という時代背景も関係しているかもしれません。


南北朝時代の意味
時代背景の意味がこれでもうわかりましたよね。
かつて太郎は楓と幸せな生活を送っていたけれど、愛染と出逢うことで暗黒面に堕ちた。
その愛染によって暗黒面に堕ちていた上人はそれゆえに仏に道に入って暗黒面から脱却した。
その上人が再び愛染によって暗黒面に堕ちたがゆえに、太郎は暗黒面から脱却した。

上人と太郎はどちらもヒーローズ・ジャーニーを歩んでいますが、どちらかがヒーローのとき、もう片方はアンチヒーロー。

両雄、並び立たず。両統迭立から南北朝へと皇統が分裂していた時代というのがうまく活かされています。

京が戦火の焼かれている時代というだけなら応仁の乱でもいいような気がしますが、やはり皇統分裂のこの時代のほうが「二人のヒーローの分裂」というテーマがより明確になるという計算なのでしょう。


クライマックスで大事なこと
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クライマックスで大事なことは、愛染を斬った太郎がその死骸に抱きつき、号泣することでしょう。
ちょっと前まで愛し合っていた仲だから、ということではないと思います。発作的に斬った、ということへの悔いでしょう。

太郎は上人が死んだ時点で仏の心が芽生えていた。ならば、彼が愛染を暗黒面から救い出し、新しい英雄の旅に歩ませなければならなかったはず。それを気持ちはわかるが発作的に斬ってしまった。救い出すことができなかった、ということへの悔恨と謝意の表れと解釈するのが私流の見方。

彼女は最初から最後まで、ヒーローとアンチヒーローを循環的に行き来するキャラクターではなく、ユング心理学でいうところの「身体のアーキタイプ」なのでしょうか。ヒーローを暗黒面へ転落させる役どころ。決して変化しない。

だから「鬼」なのでしょう。しかし「鬼は誰の心にも棲んでいる」のです。上人も己の鬼に負けた。太郎も負けかかっていた。太郎を救いに来たはずの楓も鬼退治という妄執に囚われた鬼に成り下がっていた。

だから、愛染は決して身体のアーキタイプではなく、アンチヒーローだと思います。それはヒーローに変容する可能性を秘めた存在ということです。そう考えないと「誰の心にも鬼が棲んでいる」と言った上人が浮かばれません。魔性にだって仏性はひそんでいるのです。それが釈迦の教えだったはず。

だから、太郎のアンチヒーローからヒーローへの変容は、きっかけは上人の死ですが、それだけではまだ完全ではなく、愛染を斬ってしまったことで完全なる変容となったのだと思います。

仏教、それも大乗仏教の国だからこそこういう映画が作れた。キリスト教などの一神教を信仰する人にこういう物語は作れない。私は日本人としてこの映画を誇りに思います。

ただ、惜しむらくは、高峰秀子の役どころがやや狂言回し的なところで終わってしまったところでしょうか。冒頭など、あの勝新をも圧倒する横綱相撲ぶりに瞠目していたんですが、だんだん影が薄くなってしまって……。
太郎の変容はしっかり描かれますが、楓の心に棲む鬼がどうなったか、その顛末が描かれないのはとても惜しいと思います。