私の知っている高名な脚本家は元アル中患者で、精神科で処方された白い粉薬を見せてくれたことがあります。
「これが効いてるときに酒を飲むとめちゃくちゃ苦しくなるんだ」と。
それを聞いて「ん? それって何かおかしくない?」と思いました。

だって、薬を飲めば苦しむのが嫌だから酒を飲まずに済むだろうけれど、逆に言えば薬を飲まなければ浴びるように酒を飲んでいい気分になれるんですよね。もともと依存症患者って弱い意志の持ち主なのだから、医者がそういう患者の意志まかせにするのってどうなんだろうと。誘惑に負けて薬を飲まない選択をしたが最後、また依存症に逆戻りじゃないですか。


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哲学者・國分功一郎さんが小林秀雄賞を受賞した『中動態の世界 意志と責任の考古学』。

文法の歴史を哲学的に解いていくこの本は、大部分を能動態でも受動態でもない「中動態」という聞きなれない動詞の態についての考察に割かれていますが、最終的に依存症を考える契機になることが目指されています。


「意志」への疑義
プロローグ「ある対話」では以下のような会話が収められています。(かなり編集してます)

「依存症というのは、意志や本人のやる気ではどうにもならない病気なんだってことが日本では理解されていない。もう絶対にやらないと決意するとダメなんだ」
「それは理解に苦しみます。酒をやめる、薬物をやめるというのは、やはり自分がやめるということなのだから、やめる意志が大切になってくるんじゃないですか」
「しっかりした意志をもって、努力して、絶対にやらないぞ、と思っていると逆にやめられないんだよ」

やめる強い意志をもったほうがダメとはいったいどういう理路によって?


中動態とは何か
現在、日本語でも欧米のさまざまな言語でも、動詞は「能動態」と「受動態」しかないと思われています。しかし、かつては能動態でも受動態でもない「中動態」というものがかつてインド=ヨーロッパ諸言語でも日本語でも存在したと。しかも、原初の言語には中動態しかなかった、というんですね。

では、その中動態とはいったいどのような態か。
「能動態では、動詞は主語から出発して主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する中動態では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」

例えば、「生まれる」「眠る」「寝ている」「想像する」「成長する」などの動詞の主語は、その過程の行為者であって同時にその中心であるから中動態で表される。
逆に「曲げる」「与える」などの動詞の場合は、主体から発して主体の外で完遂する過程を示しているから能動態なんだそうです。
そして、現在は「能動態⇔受動態」という対立がほとんどの言語にありますが、その前は「能動態⇔中動態」(外態⇔内態)の対立しかなかったと。つまり、かつて受動態というものはなかった、というから驚愕です。


かつて「主体」はなかった!?
普通、我々は、何かをしようという意志をまずもち、その意志を遂行する、と思ってますよね。目の前の醤油を取ろうと思い、そして実際に取ると。
でも、脳科学の観点からは、事態は実は真逆らしいのです。まず醤油を取り、そのあとで「醤油を取ろう」という意志が生まれるのだと。嘘のようなホントの話。


中動態の世界に「意志」はない
さて、古代ギリシアでは「能動態⇔中動態」の対立しかなったので「意志」を表す言葉がなかったとか。
なぜなら、能動態も中動態も、つまり動詞というものはもともとは「出来事」を描写する言語でしかなかったから。
それがギリシア以後の社会の発展、つまり国家や社会という枠組みが強化されていくと、秩序を維持していくために数々の法が作られる。法とは悪行の責任を問うものであり、責任を問うためにはその行為の主は誰かが問題とならざるをえない。そうして受動態が生まれ、中動態は衰退の一途をたどった。中動態が衰退すると、それまでの「能動態⇔中動態」という対立の図式が崩れ、「能動態⇔受動態」という新しい対立の図式が生まれた。

そこに初めて「意志」という概念が誕生したと著者は言います。


「責任」と「意志」
著者は寝坊した学生を使ってこんな例え話をします。

「ゲームが好きで、やめられずにだらだら続けて夜更かしをする。それだけなら内なる自分の誘惑に負けた受動的な行為かもしれない。しかし、その学生が翌日講義の最中に居眠りをして怒られるとすると、途端に前夜のゲームは能動的な行為とみなされてしまう。明日は朝から講義があるから早く寝ようとゲームをやめることもできたはずなのに続けた。だから能動的にゲームを続けたのだ。おまえにはその責任があると」

つまり、意志をもった行為だったから責任を負わされるのではなく、責任を負わせてもよいと判断された瞬間に突如「意志」という概念が出現する。




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だから、例えばTOKIOの山口達也は退院したその日に焼酎を一本空けてしまい、強制猥褻行為に及んで芸能界から追放されかかっていますが、多くの人が口をそろえて言うのは、

「酒が悪いのではなく飲んではいけないのに飲んだ山口が悪い。意志の弱さを反省しろ」

というまったき正論ですが、しかし、これはまさに山口達也が責任を負うべき行為に及んだと判断されたから能動的に酒を飲んだという「意志」が出現したのですね。もし大酒を飲んでも女子高生を家に呼んで無理やりキスするなんてことをしなければ責任を問われないし、それなら当然のこと弱い意志が問題になることもなかった。

実際、「リーダーの城島茂のほうが酒好きで山口より城島のほうがアル中の疑いが濃厚」という記事も見ましたが、「まったく他人に迷惑をかけない飲み方をしているならいくら飲んだってかまわない」とも書いてありました。

事件を起こしたから弱い意志が問題になり、事件を起こしてないから問題にならないのは当たり前だろう。

という声が聞こえてきそうですが、私はそうは思いません。

だって、城島はいまのところ問題を起こしてないだけで、これから起こす可能性があるんですよ。いま戒めなければ山口と同じ轍を踏む可能性は充分にあります。
そもそも山口達也は職場でも酒の匂いをプンプンさせていてみんなが薄々感づいていたらしいじゃないですか。なのに誰も咎めないからあんな破廉恥なことをしでかしてしまった。でも事件を起こすまで、つまり責任を問われる事態になるまで誰も彼の意志の弱さを問題にしなかった。

責任を負わせてもよいと判断された瞬間に突如「意志」という概念が出現する。これがいま現実に起こっています。中動態を知らない私たちにも、中動態の世界に生きていた古代人の精神の名残りがあるのでしょう。

しかし、ここで疑問が湧きおこります。

じゃあ、意志ってほんとは存在しないの? ただの幻想なの?

著者はそれも違うと言うから話はややこしい。

続きの記事
②薬を飲むのは自発的な行為か
③断酒会の意味