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自分でも「天才」と称し、そういう振る舞いが「彼らしい」と称賛されることが少しも不思議ではなかったアラーキーこと荒木経惟が16年もの間モデルをしていた女性KaoRiさんから告発されて話題になっています。

ネット上では「アラーキーの写真はもう見ない」とか「アラーキーなんて死刑になるべきだ」などのバッシングも起こっているようです。彼は、ひどい嘘で騙して裸にしたり、脅迫したり、納得できない書面に強制的にサインさせたり、やりたい放題だったので断罪されてしかるべきでしょう。

でも、私自身はあまりそういうことに関心がありません。もっと構造的な問題のほうに興味があります。

と思っていたら、「これはアラーキー個人の問題ではなく、広く芸術一般の問題として捉えるべき」「『撮る/撮られる』『見る/見られる』という権力構造の問題だ」という冷静な卓見もあって、私はこちらに与したい。そして、参照すべきは1960年のイギリス映画『血を吸うカメラ』です。さまざまな工夫が施された映画ですが、一番のポイントは「盲人の目」でしょう。


『血を吸うカメラ』
PeepingTom

物語は、女性にナイフを突きつけ恐怖に歪む表情を撮影する男が、最終的に自分自身にナイフを突きつけ恐怖に歪む自分自身を撮影しながら自死するというもの。(ちなみに、この主人公は撮影所に勤務する映画監督志望の青年ですが、副業としてアラーキーのようなヌード写真も撮っています)

撮る人間が撮られる人間を殺すという、まさに「撮る/撮られる」という権力構造・支配構造ですね。

なぜ主人公がこのような凶行をするようになったかというと、幼い頃に精神科医だった父親が恐怖について研究するために、息子や妻など家族みんなの部屋に盗聴器を仕掛けて完全なる支配者として君臨していた。主人公は眠っているときに大きなトカゲをベッドに投げられ泣き叫ぶところを8ミリカメラで撮られたりするなど、かなりひどい心の傷を負いました。

彼は被支配者として未曽有の恐怖を感じさせられたために、長じてからは自分が支配者になることで傷を癒そうとしたのでしょう。

ところで、私は映画を撮ったことはありませんが、撮られたことはあります。

友人が監督する自主製作映画で俳優として出演しました。そのとき、監督があまり演技指導をしない主義で、「こうしたらどうか」と言うと、いつも「それでいい」という返事しか返ってこなかった。私はそのことがとても不満でしたが、津川雅彦さんも何かの番組で言っていました。「役者は演出されたいんだ」と。もっとああしろこうしろと言われることが快感であると。

だから撮る者は支配者なのだから当然快感を感じますよね。でも、撮られる者も快感を感じているはずなんですよ。KaoRiさんだって撮られることそのものには少なからず快感を感じていたはず。でなければ16年も被写体でいられたはずがありません。実際、告発文にも「撮られること自体が不快だった」とは一言も書かれていません。

『血を吸うカメラ』の主人公は最後、「恐怖は喜びなんだ」と叫んで自分の首を刺したあと、幼い頃の自分の声を思い出します。「おやすみパパ、手を握って」。

あれだけ恐怖を感じさせられた相手に手を握られると安心して眠りに落ちる。支配者と被支配者の間には何か甘美なものがあるのではないか。監督に何度もダメ出しを食らうとうれしくなる津川さんのような役者も同じ甘美さに酔っているのだと思います。だからといってもちろん、別にいいじゃないかと言いたいわけではありません。冒頭に記したとおり、アラーキーは断罪されてしかるべきです。

しかしながら、アラーキーとKaoRiさんが『血を吸うカメラ』の父子のように「共依存」の関係にあったことは間違いありません。まさにこの共依存こそ「写真」や「映画」に潜む構造的な問題じゃないでしょうか。

一方的に撮られ、撮る者だけが快感を感じるのなら作品を残すことなど不可能です。しかし撮られることそのものに快感を感じれば数多の作品が作られる。おそらく非凡な写真家・映画監督というのはモデル・俳優にそのような「撮られることの快感」を感じさせることに長けているのでしょう。

だから、写真芸術というものがあるかぎり、この「撮る/撮られる」の構造から抜け出ることは不可能です。

と思ったいたら、ある方が「『撮る/撮られる』という関係性から抜け出る手段として『自撮り』がある」と発言されていて、これも卓見だとは思ったものの、『血を吸うカメラ』のことを考えるとちょいと疑問です。あの映画には「撮る/撮られる」という権力構造とは別の仕掛けもあるからです。


自分自身に見られる恐怖
PeepingTom

この画像で最も大事なのはカメラでも三脚に仕込まれたナイフでもありません。カメラの横に大きな円いものがありますね。これは実はなのです。被害者は恐怖で歪む自分自身の顔を見ながら、逆にいえば恐怖する自分に見つめられながら死ぬわけです。

殺人鬼や彼が回すカメラに見つめられる、そういう「撮る/撮られる」「見る/見られる」の関係だけでないところが肝要です。撮られている・見られている自分が「(自分自身を)見る/(自分自身に)見られる」という二重構造になっているわけです。

自撮りでは、自分で自分を見ながら撮るわけですよね。誰か別の人間には見られていなくとも、自分にだけは見られているわけです。これはもうアラーキーのセクハラ・パワハラから完全に離れて「写真」というものの本質の話です。

別の人間に撮られようと、自分で自分を撮ろうと、「自分はいま撮られている」という感覚からは絶対に逃れられないのではないでしょうか。


盲人に見られるということ
『血を吸うカメラ』にはもうひとつ仕掛けがありまして、それはヒロインの母親が「盲人」であることです。

盲人ならではの勘の鋭さで主人公が何かよからぬことをしていると見ぬくんですが、見ぬかれた主人公は何やら不気味で盲人の目を見られない。その目は何も見えていないのに、見えない目に恐怖する。

これはもしかしたら、主人公が父親に盗聴されていたことから来るものなのかもしれません。父親の目がなくても生活の一部始終を監視されていたのだから。フーコーの言うパノプティコンのようなものでしょうか。それを盲人の目に感じているのか。

いずれにしても、見えない目にも人は「見られている」という恐怖を感じる生き物だということが肝要です。

この盲人の目というのは、写真芸術で言えば「鑑賞者」ですよね。撮影現場にその「目」はないけれど、いずれ被写体を見るであろう「目」。パノプティコンのようにモデルを支配するはずです。もしかしたら自撮りであれば撮る者がいないぶんよけいにその「見えない目」を意識してしまうかもしれない。いや、意識しなければならない。なぜか。


「血を吸わないカメラ」は存在するか
展覧会などでお披露目される写真にしろ、SNSに載せるための写真にしろ、誰かに見てもらう以上は「撮る/撮られる」の両方を自分がやる、つまり写真芸術にまとわりつく支配構造から自由になったとしても、鑑賞者の「目」が最終的な権力として立ちはだかります。

撮る者の支配からは脱することは可能でしょう。でも、それが広く見てもらう芸術写真・商業写真である以上、見る者の支配からは逃れられない。見てもらわないかぎりは作品として成立しないのだから。それが芸術写真であれエロ写真であれ、誰かに見てもらうために写真を撮るとき、すべてのカメラは血を吸うカメラになるのだと思います。

「血を吸わないカメラ」というものがもしあるとすれば、撮った写真を自分だけで楽しむ、あるいは家族だけで楽しむ記念写真を撮るときだけではないでしょうか。

ただその場合でも、その写真を共有した人物がネットに上げてしまえば永久に鑑賞者の目に晒されます。つまり、撮る時点では血を吸わないカメラで撮った写真でも、事後的に血を吸うカメラで撮った写真に変容するということです。リベンジポルノなんてその最たる例でしょう。

だから、現代において「すべてのカメラは血を吸うカメラである」と言っていいと思います。

カメラマンはモデルの血を吸っている。
モデルはカメラマンに血を吸われている。

両者がこの事実をきちんと自覚していれば被害は最小限に食い止めることができるような気もしますが、構造的な問題である以上、我々人間にそのような芸当がはたして可能なのでしょうか。


血を吸うカメラ [DVD]
カール・ベーム
KADOKAWA / 角川書店
2019-06-07



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