一部で熱狂的に迎えられているジョン・マッデン監督、ジェスカ・チャステイン主演による『女神の見えざる手』を見てきました。


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うーん、、、なんというか、銃規制法案に反対する者を完全に「悪」として捉えているのが白けますね。まぁジェシカ・チャステインも相当汚い手を使っているわけだから「どっちもどっち」かもしれませんが、銃規制に賛成の人間を主人公に据えて、彼女が最終的に勝つわけだから、作者たちの政治的立場がどちらに軸足を置いているかは簡単に察しがつきます。

政治的に中立な人間なんかいないわけだから、政治信条そのものにいいも悪いもありません。が、それを映画とかフィクションに仕立てる場合には、主人公が信じていることにも弱点があり、敵対者たちの言い分にもそれなりの理がある、というふうにしないと、最近アメリカ映画に多い、アメコミ原作のヒーローものとどう違うというのでしょう。

乱射事件の被害に遭い生き延びた女性が再び銃を突きつけられるも合法的に拳銃を所持していた民間人に助けられる場面をもっと掘り下げたら面白くなったと思うんですが、主人公が勝つか負けるかというところにばかり気を取られて、挙句の果てに敵失で勝利というのは「金返せ!」と言いたくなります。

この映画は正確にはフランスとアメリカの合作ですが、フランス側はあのリュック・ベッソンが設立した「ヨーロッパ・コープ」が関わっており、その精神においてはアメリカ映画のようなものです。それも悪い意味で。



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先日、デビッド・フィンチャーがこんな発言をしました。

「いまのアメリカ映画界では『キャラクター・ドラマ』というものができない。だから活動の場を連続テレビドラマに移そうと思う」

フィンチャーといえば、『明日に向って撃て!』を200回見たことが有名ですが、『明日に向って撃て!』のようなキャラクター・ドラマは最近のアメリカ映画ではほとんど見られなくなりました。

ちょっと前に『明日に向って撃て!』と同じポール・ニューマン主演、シドニー・ポラック監督による名作『スクープ/悪意の不在』を再見したんですが、『女神の見えざる手』と同じ社会派ドラマなのに、何と手触りの違うことか。


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上の画像の、奥にメインキャラクターがいるとすると、手前の通り過ぎる人はただのエキストラで「シャッター」と呼ばれます。

最近のアメリカ映画で主人公の事務所とかが舞台になるとこのシャッターがものすごく多いと思いませんか?

『スクープ』でも、大新聞社のオフィスのシーンが何度もありますが、シャッターなんかほとんどなかったですよ。

シャッターが多いと確かに人が多いなかでスリリングな場面が演じられているという「臨場感」を出すにはもってこいの手法なんでしょうが、あまり落ち着いて見られないんですね。クライマックスみたいな場面ばかりのアメコミ映画とほとんど同じです。デビッド・フィンチャーが嫌気がさしたのもわかります。

『女神の見えざる手』では公聴会のシーンが非常に重要なカギを握っていますが、全体を捉えるマスターショットもあり、それぞれを正面から捉えたバストショットもあり、ある人物の見た目を望遠で捉えた主観ショットもあり、切り返しがあり、移動撮影があり、バラエティに富んでいますが、例えば同じ公聴会の場面のある『ゴッドファーザーPARTⅡ』のように落ち着いて見ていられるかというと、ぜんぜんそんなことはありません。『ゴッドファーザーPARTⅡ』の公聴会は、ある一方からのアングルしかなかったですよね。


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昔は、テレビカメラを一方にしか置けなかったからでしょうか。最近の公聴会の様子を見ると、結構アングルがいろいろあります。

そういう事情を反映しているのならある程度しょうがありませんが、しかし、いずれにしても、最近のアメリカ映画は、シャッターが多く、かつ編集が目まぐるしい。落ち着いて見られない。

落ち着いて見られないからキャラクターのドラマとして不出来なのか、キャラクターが描けていないから目まぐるしい映像テクニックでごまかそうとしているだけなのか。

どっちにしろ、またまた「現代アメリカ映画の奥深い闇」を見てしまった思いです。