ツイッターで、「いままでほとんど投票に行ったことがない」という小林よしのりに対して「投票しないのなら政治を語る資格などない」と言ってる人がいました。フォロワーさんのなかにも、「投票したからこれで政治を語る資格を得た」みたいなことを言ってた人がいました。
本当に「投票しないと政治を語る資格はない」んでしょうか?
例えば、ある映画を見ていないのにあーだこーだと難癖をつけるのはダメでしょう。批判したいのなら見なきゃダメ。ある店の料理を云々したいのであれば、その店の料理を食べてから。これは当然の真理でしょう。
で、これらを敷衍して「投票しない(政治に参加しない)人は政治を語る資格はない」ということになる、と人々は思っているわけですね。
これははたして真理なのでしょうか?
映画や料理は商品ですが、では、政治における商品とは何でしょうか。「商品」と言って悪ければ「政治活動によって生じた産物」としましょう。選挙は立法府の代表を選ぶのだから、選ばれた人たちによって作られる「法律」が政治的産物でしょう。
投票しなければ、悪法が作られ、施行されても文句を言う資格がないと。
なるほど、確かにそう思えてしまいますが、私は違うと思います。
だって、法律を作るのは「当選した議員」だけですよ。落選した候補者に投票した人には政治を語る資格はないことになってしまいます。
いやいや、そういうことじゃなくて、投票というのは大事な政治活動なわけで国民の大切な権利、それを放棄したのであれば政治を語る資格はない。という人もいそうですが、これも私には疑問です。
じゃあ、大病を患い、頼れる人もいない独居老人は投票に行けなかったばかりに何も言えないんですか? 行けなかったと行かなかったは違う? それをどうやって区別するんでしょう。
革命を起こそうという人は、きちんと投票してから武装蜂起しなくちゃいけないんですか? そんなバカな。もしそれが正当な言説であれば、これまで世界中で起こった政治闘争はすべて不当になってしまいます。
言論の自由や結社・集会の自由というのは、誰にでも等しく認められているものであって、それは憲法に明記されているじゃないですか。「投票した者にだけ自由を与える」なんて少しも書かれていない。投票を呼び掛けた人の大半はアンチ安倍で護憲論者が大勢でしたが、こんな基本的な憲法の精神も理解できていないことに驚きます。特にこないだの衆議院選挙は憲法をめぐる選挙でもあったはずなのに。
投票しなかったら罰金とか言い出す人もいて、みんなどうしちゃったの、と。そんなの「投票ファッショ」以外の何物でもないのでは?
投票による政治参加をしなかった者は、政治について語る資格がない。どれだけひどい生活を強いられても、それは自己責任である。
暴飲暴食によって透析が必要になった人間は、自業自得だから健康保険を受けられないようにせよ。病状が悪化して死んでも自己責任である。
後者はもちろん、あの長谷川豊の言葉ですが、この二つがどう違うのか私にはまったくわからない。
本当に「投票しないと政治を語る資格はない」んでしょうか?
例えば、ある映画を見ていないのにあーだこーだと難癖をつけるのはダメでしょう。批判したいのなら見なきゃダメ。ある店の料理を云々したいのであれば、その店の料理を食べてから。これは当然の真理でしょう。
で、これらを敷衍して「投票しない(政治に参加しない)人は政治を語る資格はない」ということになる、と人々は思っているわけですね。
これははたして真理なのでしょうか?
映画や料理は商品ですが、では、政治における商品とは何でしょうか。「商品」と言って悪ければ「政治活動によって生じた産物」としましょう。選挙は立法府の代表を選ぶのだから、選ばれた人たちによって作られる「法律」が政治的産物でしょう。
投票しなければ、悪法が作られ、施行されても文句を言う資格がないと。
なるほど、確かにそう思えてしまいますが、私は違うと思います。
だって、法律を作るのは「当選した議員」だけですよ。落選した候補者に投票した人には政治を語る資格はないことになってしまいます。
いやいや、そういうことじゃなくて、投票というのは大事な政治活動なわけで国民の大切な権利、それを放棄したのであれば政治を語る資格はない。という人もいそうですが、これも私には疑問です。
じゃあ、大病を患い、頼れる人もいない独居老人は投票に行けなかったばかりに何も言えないんですか? 行けなかったと行かなかったは違う? それをどうやって区別するんでしょう。
革命を起こそうという人は、きちんと投票してから武装蜂起しなくちゃいけないんですか? そんなバカな。もしそれが正当な言説であれば、これまで世界中で起こった政治闘争はすべて不当になってしまいます。
言論の自由や結社・集会の自由というのは、誰にでも等しく認められているものであって、それは憲法に明記されているじゃないですか。「投票した者にだけ自由を与える」なんて少しも書かれていない。投票を呼び掛けた人の大半はアンチ安倍で護憲論者が大勢でしたが、こんな基本的な憲法の精神も理解できていないことに驚きます。特にこないだの衆議院選挙は憲法をめぐる選挙でもあったはずなのに。
投票しなかったら罰金とか言い出す人もいて、みんなどうしちゃったの、と。そんなの「投票ファッショ」以外の何物でもないのでは?
投票による政治参加をしなかった者は、政治について語る資格がない。どれだけひどい生活を強いられても、それは自己責任である。
暴飲暴食によって透析が必要になった人間は、自業自得だから健康保険を受けられないようにせよ。病状が悪化して死んでも自己責任である。
後者はもちろん、あの長谷川豊の言葉ですが、この二つがどう違うのか私にはまったくわからない。
コメント
コメント一覧 (4)
そもそも武力革命など起こされる政権は投票以前に民主主義がまともに機能していない国が大多数なのだから、何れもこの話題の反論とするには余りにも苦しい。
言論の自由や結社・集会の自由は当然その通り、でもそれは企業に於けるプレゼンテーションの様なもので、それを通すか否かの会議に当たるものが選挙なのではないですかね。
投票に行かずとも、主義を主張なさる権利は当然誰もが持っているものではありますが、民主主義に於いて国民が主権を有するという事は則ち国民に政治の責任が有るということでもあります。
よって投票に行くことは、権利の行使以上に責任を果たす意味合いが強いと私個人は愚考するものであります。
まず第一前提として政治を語る資格云々抜きにしてそもそも選挙にいかないと公的場で自分の政治的意思表示は結局できないですよね。
だからまず政治に意思を反映したいのであれば極力選挙には行くべきではないでしょうか?
あと選挙にいかないのといけないのとではだいぶ意味合いが異なりますよ。選挙にいかないというのはそれもそれで一つの意思表示です。
政治に興味がないあるいは投票したい政治家がいないというね。
でそれはそれで意思表示の一つだけれど選挙にいかない人の意見より行った人の意見のほうが優先されるというのはそれも民主主義です。
だって選挙に行った人の意思が反映されなかったら選挙の意味がないでしょう?
ブレッソンさんの言うとおり国が言論の自由を認めてるんですから選挙にいかない人にだって政治に文句を言う資格はあります。
でもそういう人の意見って無力ですよ。
少なくとも現行の政治制度のままではね。
で無力な人が文句ばかり言ってたらなんで君は権利を行使して堂々と政治参加しないんだ?と批判されるのは仕方が無いと思います。
現行の政治制度に不満があるならそれを変える努力をする手もありますが大半の人はそんな面倒なことしてまで政治に参加したいという意欲もないんですよね。面倒事はお上に任せたい、でも文句は言いたいという一種のわがままなんですよ。
というか愚痴ること自体が不満のはけ口?
日常生活のね。
だから僕は常々この国の人間の中身は江戸時代のままだと言ってるんです。
民主主義向きじゃない人が多いんです。
それでは、投票に行かなかった人には政治を語る資格がない、という最初の問題に戻ってしまいますが・・・?
投票した人間が偉いというのなら政治家の不祥事や国家ぐるみのスキャンダルはすべて最終的には選んだ国民のせいということにもできますよね。だって日本は国民主権ですから、政治の責任はすべて主権者たる国民にあります。
この理屈で行くと加計問題も原発事故もすべて有権者の責任です。
多分日本人の多くは国民主権の意味というか本質を理解しきれていないでしょうね。
いわゆる自己責任論者の方々でさえ政治の問題になった途端お偉いさんにすべてをなすりつけるんですから。
まあ私は日本人に民主主義はそもそも向いていないんだと思います。西洋と違って大衆のパワーが権力者を排除したという歴史が全くありませんからね。
暴君を追い出して共和制を敷いたローマや陶片追放を行っていたギリシャとは違います。
選挙に行く=有権者が国の責任の一端を負う。
それが嫌なら選挙にいかないというのも一つの手です。
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。