ケビン・スペイシーが昔、14歳の少年に性的関係を強要したことがあるという咎で批判を浴びています。

ハーベイ・ワインスタインの永久追放で続々とセクハラしていた人たちの悪行が暴露されていますが、そのこと自体はいいことだと思います。自分が思春期の頃に大人の男から(女でも)性的関係を強要されていたら、と考えると、その少年のいまだ癒えぬ心の傷がおぼろげながら想像できて胸が苦しくなります。

しかもスペイシーが釈明会見にかこつけて、

「これまで男とも女とも付き合ったことがあるが、これからはゲイとして生きていく」

とカミングアウトしちゃいました。


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この発言についてザカリー・クイントが「最悪のタイミングでのカミングアウトだ」と非難しました。

そりゃそうですね。話をそらそうという意図がはっきり見えますから。

ただ、クイントは続けてこういったそうです。

「何か賞をもらったり、栄誉を受けたときにカミングアウトすべきだ。そうすれば世界中のLGBTに勇気を与えることができる」

うーん、スペイシーのカミングアウトがふさわしくないタイミングだったことはわかるんですが、「カミングアウトにふさわしいタイミング」というものがあるということにちょっと驚きを隠せませんでした。

ちょっと前の『5時に夢中!』で、どういう趣旨の特集か忘れましたが、ゲイバーで働く男性にインタビューしたところ、こんな印象的な答えが返ってきました。

「僕はカミングアウトなんかしてませんしこれからもしないです。何かいまカミングアウトするのが正義みたいな風潮があるじゃないですか。あれには納得できないんです。少なくとも僕は、カミングアウトしたときに両親が感じるショックを考えるととてもできません。墓の中までもっていきます」

私は「カミングアウトすべきでない」と言いたいのではありません。ただ、カミングアウトした人に「よくぞ言った」と拍手し、カミングアウトしない人を「潔くない」みたいに言う風潮に疑問を感じているだけです。そういうことを言う人こそがLGBTを差別してるんじゃないんですかね?

カミングアウトというものを広く「宣言」と捉えてみると、例えば蓮實重彦が何度も著書で書いているのが映画監督の引退ですね。

「昔のハリウッド黄金期に活躍した監督たちは、ある程度の年齢に達したら引退するのが普通でした」

ジョン・フォードやハワード・ホークスが引退宣言をしたかどうかは知りませんが、最近は宮崎駿監督が何度も引退を宣言し、また先日も撤回したのは記憶に新しいところ。


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撤回自体は悪いことだとは少しも思いません。人間は生きている以上、変化するものですし、「君子、豹変す」という言葉もあるし、「引退と言ってたじゃないか」と非難するほうがおかしい。

そんなことより、「引退宣言」というものが必要なのかどうか、ということです。

高畑勲監督は、同志・宮崎監督の数年前の引退宣言のとき「何で映画監督が引退宣言なんかするんだよ」と、あるドキュメンタリー番組で言っていました。

引退と言えば……


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スポーツ選手は必ず引退宣言しますよね。あれは必要だと思うんですよ。浅田真央のように個人競技の場合だって契約しているスポンサーに対して「もう終わり」という意思表示は必要でしょうし、団体競技の場合は、何より来季も契約したいと考えているクラブや球団に対して選手側から契約の意思なしという表明が必要です。

そして、浅田真央みたいな人気の高い有名選手の場合は、ファンに対して「もう終わり」と意思表明することも必要ですよね。じゃないと、あの人は最近何もやってないみたいだがどうしたんだろう、とやきもきさせることになります。

となると、宮崎駿が引退宣言をするというのも、「人気が高いから」ということは言えるのかもしれません。宮崎アニメを心待ちにしているファンに対し「もう終わり」という意思表示。


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引退宣言に共通するのは、「もう終わり」つまり、「これからの私はいままでの私とは違います」ということなんですね。過去の自分と未来の自分との間に結界を張るような感じでしょうか。同時に、自分と自分を応援してくれていたファンとの間にも結界を張っている。(参照記事「空間の結界、時間の結界」

とすれば、LGBTの人がカミングアウトするというのもまた結界なのでしょう。しかし何のための結界なのかが私にはわからない。

スポーツ選手のように誰かと多額の契約があるわけでもなければ、有名映画監督のように世界的人気が高いわけでもない人間がわざわざ「宣言」をする理由あるいは目的。

前述の「カミングアウトしたら両親が悲しむ」という男性は「自分と両親の間に結界を張ってはいけない」と無意識に思っているのでしょう。

ケビン・スペイシーのカミングアウトが最悪なのは、「過去の過ちを犯した自分」と「これからゲイとして健気に生きていく自分」との間に結界を張ろうとしたからだと考えられます。

では、ザカリー・クイントのように意識的に結界を張るタイプの人はいったい何が目的で、というか、自分と誰の間に結界を張っているのか。

普通に考れば「LGBTに理解のない人間との間に」なんでしょうね。

ただ、どうなんでしょう。何度も言いますが、私は別に結界を張ってはいけないと言いたいわけではありません。

「栄誉を受けたときにカミングアウトすれば~」という発言。そういう効果のあるカミングアウトはいいが、何も効果がないのなら意味がない、と。うーん、何かそういう「営利目的で結界を張る」というのは違う気がする。

「自分の性的嗜好のことは墓の中にもっていく」と恥ずかしげにつぶやいた男性のほうが、LGBTとそうでない人々の間に結界を張らない、つまり「差別のない社会」を真に希求していると感じるのは私だけでしょうか。



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