2017年10月13日

約20年前に大阪のシネマテークで見たとき、「ものすごいものを見た」としばし呆然としてしまって身動きできなかったことをまるで昨日のことのように憶えています。

白坂依志夫&増村保造脚本、増村保造監督による『曽根崎心中』(1978)


曽根崎心中1

物語のあらゆる要素が悲劇を高めるためにのみ作用していて、もう見ていて固唾を呑むことしかできないのですが、冷静になって考えてみると、この文語調のセリフばかりのやや仰々しい脚本を凡百の監督が撮ったら駄作にしかならないのでは? と思いました。

何しろ、主役の梶芽衣子が大仰すぎるほどの大芝居だし、悪役の橋本功もあまりにあくどすぎる役で、普通にやったら噴飯ものでしょう。井川比佐志演じる宇崎竜童の主人にして伯父なども、やりすぎずやらなさすぎずの匙加減が難しかったかと。

何より宇崎竜童ですよね、一番の問題というか核心は。

彼は俳優じゃないから細かい芝居ができない。なのに、この心中劇の中心に据えるという大胆不敵さ。主役に素人というのは珍しくないけれど、周りが芸達者ばかりのなか、中心にド素人を据えてもイケると踏んだその判断がすごい。もうひとつの中心である梶芽衣子にはものすごい細やかな芝居を要求しているにも関わらず。

そのへんの計算というか、おそらく現場では何度もやり直しがあったと推察されますが、やはり、監督の仕事というのは「演技指導」だな、と改めて思った次第。

どう撮るかはカメラマンに任せても大丈夫。
どう繋ぐかは編集マンに任せても大丈夫。

でも、演技指導を他の人に任せたら・・・もう監督ではなくなってしまう。

「演出」とは「演技を引き出す」と書きます。中国語でも「演技を導く」で「導演」ですものね。

この当たり前の事実を忘れた監督の何と多いことか。
私が昔の映画を好むのはこういうところに理由がある気がします。


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曽根崎心中
梶芽衣子
2013-11-26




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