大工原正泰脚本、小沼勝監督による1980年作品『山の手夫人 性愛の日々』を久しぶりに再見しました。


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何度見ても小沼勝監督の端正な画作りにため息をつかざるをえないのですが、このブログではやはり脚本構造に目を向けた感想を書きたいですね。

私は、何よりもこの映画の「神話的構造」が好きでたまらんのです。

以下は、2003年に出版された『クリエイティヴ脚本術』に書いてあることを援用しているのですが・・・



神話というのは、何らかの逆境があって、その逆境を克服すべくヒーロー=ヒロインが活躍して逆境の原因たる悪役を退治し、逆境を順境にしてハッピーエンドを迎える物語のことですが、この『山の手夫人 性愛の日々』では、そこのねじれ具合がものすごく面白い。

物語は、
日本舞踊春日流の理事長の妻・亜津子が主人公で、夫の理事長は前妻を病で亡くし、亜津子が後妻にして弟子。理事長には前妻の間に一人息子がおり、この息子は「母さんが死んだとき妾のところに入り浸っていた」のが理由で父親をひどく恨んでいる。しかも亜津子と生さぬ仲なのをいいことに激しく迫り、亜津子も彼のことが憎からぬ感じで、二人は文字通り性愛の日々を重ねることになる。理事長は、盲目ゆえかそんな二人の仲を鋭く察知しており、稽古の途中で亜津子にビー玉を投げつけて杖で折檻するなど、目にあまる行為をする。

と、ここまで書くと、夫の理事長が悪役で、息子や主人公・亜津子が不幸な目に遭っているのが逆境のように見えますよね。実際、物語の4分の3ぐらいはそんな感じで進むのです。

が、最後の4分の1ですべてがひっくり返ります。

物語の続きを記すと、

息子は、生さぬ仲とはいえ母親と性愛の日々を重ねるのは異常だと悟り、単身オーストラリアへ飛ぶことに決める。が、それを知った亜津子がその体で惑わせ行かせまいとする。理事長は「絶対に入ってはならぬ」と厳しく言い渡していた納戸に亜津子を招じ入れ、息子の母親のアルバムを見せる。
何と! 母親のすべての顔が切り取られているではないか!! おそらく息子自身が母親の顔をわからなくなっているのは必定。彼は切り取られた空白に亜津子の顔を代入して彼女を愛してきたとわかる。つまり、亜津子はただの代用品だった。
理事長は、「あいつがこの家を出て独り暮らしを始めたとき、やっと大人になれると思った。すると、おまえがあいつと関係をもってしまった。おまえがあいつと関係をもっている以上、あいつは一生大人になれない。あいつのために身を引いてくれ」と懇願する。

うーん、悪役だとばかり思っていた理事長が、実は息子のことをどこまでも思いやる愛情深い父親だったことがわかる。それだけでなく、この映画における「逆境」は、息子がいつまでも亡き母への思慕を断ちきれないことだと判明し、その逆境の原因が何と主人公・亜津子その人だということになるわけですね。

この映画の本当の悪役は主人公だった。

この映画の真のヒーローは、息子でしょう。自分の殻に閉じこもっていたけれど、自分で一人暮らしを始め、そして今度は自分から外国へ行くと言い出した。父親がヒーローのように見えますが、彼はただの庇護者です。息子を支援する役どころ。わかりやすい例を挙げれば、ヨーダやオビワン・ケノービでしょうか。

それはともかく、高圧的な夫に苦しめられているとばかり思っていた主人公が、実は悪の元凶だったという終盤の見事な反転ぶりが素晴らしい。

神話だからといって主人公=ヒーローとはかぎりません。この映画のように主人公がアンチヒーローの場合もある。

だけれど、最後の納戸のシーンで、それまでの「この映画の構造はこうだ」という観客の思い込みをすべて打っちゃってしまう技がすごいと思うわけです。

ロマンポルノにはこういう素晴らしい映画がたくさんあるので、食わず嫌いをやめていろんな人に見てもらいたいものです。

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