世の中には「許せない映画」というものが存在します。
私にとって最も好きな映画といっても過言ではない『ダーティハリー』の続編とされる『ダーティハリー2』がその代表格です。

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世界一かっこいい男クリント・イーストウッドが再び大活躍するこの映画。何が許せないといって「主人公の強烈なキャラクターを薄めてしまった」ということに尽きます。


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この映画では、最初、脚や顔以外の部位はわからない白バイ警官が汚職政治家などを血祭りに上げていきます。我らが主人公ハリー・キャラハンはその謎の白バイ警官を追うわけですが、ハリーは「自分の影」を追っているわけです。


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結局、白バイ警官の正体は、優秀な若い警官たちの集団であることが判明し、その首領格の男が、「あんたも仲間に入れよ」とハリーを誘います。ハリーは断りますが、彼自身、第1作では「悪い奴を射殺して何が悪い」と開き直っていたじゃないですか。私たちはそこに喝采を送ったんじゃないですか。

第1作は大ヒットしましたが、非難の声も多数寄せられたそうです。「悪い奴を殺して何が悪い」なんて主人公は嫌だ、と。それはわからなくもない。

しかし、だからといって、その言い訳のように、ハリーの分身のような人を悪役として出して成敗する、という筋立てがいやなんです。


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問題は「ハリーの分身」にあるのではありません。彼らを「悪」に設定していることです。

彼らはみな同じ制服を身に纏い、サングラスをかけて「顔のない不気味な存在」として物語内を闊歩します。それを顔をさらした主人公がやっつける。勧善懲悪の形を取りながら、主人公と悪役の違いは「顔をさらしているか」「独りか集団か」ということだけです。職務に関する考え方についてはまったく同じ。

つまり、ハリーは自分と同じ価値観をもつ者たちと闘っている。どちらか一方を「悪」と決めつけずに葛藤を高めていったら、ハリー・キャラハンという稀代のキャラクターがより深まることになって、第1作を超える傑作になったかもしれないのに、と残念でならないのです。(当然、その場合ハリーの分身は一人でないといけません。ちゃんと顔もさらした普通の男として)

白バイ警官たちも悪なら、ハリー・キャラハンだって歪んだ正義感をもった悪として考察できたはず。そこを怠った、というか、ハリーに分身を処罰させることで、相対的にハリーを善人にした、ハリーの歪んだ正義感を薄めてしまったことがこの映画の最大の罪ではないか、私はそう思うのです。


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『ダーティハリー』考察(「わからない」というセリフこそ肝)
『ダーティハリー4』考察(ハリー・キャラハンとは何者か)

許されない映画シリーズ
②『L.A.コンフィデンシャル』
③『グレイテスト・ショーマン』
④『ゴースト・ドッグ』
⑤『バッド・ジーニアス 危険な天才たち』
⑥『ダイ・ハード』
⑦『タイタニック』
⑧『恋は光』

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2010-04-21


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