話題の映画『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』を見てきました。


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マクドナルドの「創業者」を描いた映画ということしか予備知識のない状態で見にいったんですが、本当の創業者はこの人じゃないんですね。マクドナルドという名前の兄弟が始めた効率最優先のハンバーガーショップに魅入られたクロックという名の男が、創業者として世界に君臨するまでの物語と知ってちょっとだけ驚きました。だって主人公がただの山師だから。

マクドナルド兄弟とフランチャイズを展開する契約を結び、それを礎に店の土地を買うという買収策で兄弟からすべてを奪い取ってしまう物語。

だからこれはアメリカンドリームを体現した夢物語では絶対にないし(そういうふうに宣伝されているみたいですが、どこが?)かといってレイ・クロックという稀代の山師を批判的に(喜劇的に)描いた映画でもありません。

つまり、作者たちの軸足がクロック側にあるのかマクドナルド兄弟側にあるのかが判然としないのです。

会社を大きくするためにあの手この手を使うクロックに共感するか、店はひとつだけでいいから品質にこだわりたいマクドナルド兄弟に共感するか。

私は少しもクロックなんて男には共感できないし、かといって味方したいマクドナルド兄弟にも親身にはなれませんでした。

イデオロギー的には兄弟に加担したいんですが、どうしてもあの兄弟に乗れないんです。感情が乗っていかない。

その理由は、クロックもマクドナルド兄弟も、どちらも「乗っ取る悪人」「乗っ取られた善人」という役割しか担っていないからではないでしょうか。

クロックはもともと怪しげなセールスマンをしていて、兄弟と契約した直後、いろんな銀行に融資の依頼に行きますが、「君はあのときの変なセールスマンじゃないか」と追い返されます。家に帰って「今度こそ一攫千金だ」と妻に告げても、妻は「またどうせ失敗するんでしょ」みたいな冷たい反応。(ローラ・ダーン、歳食いましたねぇ)

で、クロックが徐々に悪辣さを発揮して乗っ取り作戦が前に進むと、妻は「この人はこんな人じゃなかった」みたいな悲しい顔を見せます。

クロックにしてみれば、いままで散々煮え湯を飲まされてきた。ここで一攫千金に成功しないと俺は一生負け犬のままだ! という思いはあったはずです。それが彼の「言い分」でしょう。私は彼のやり口にはまったく賛同しませんが、その言い分には乗ることができます。でもその言い分を映画は決して掘り下げようとしない。だからローラ・ダーンの悲しみに共感することもできません。

逆にマクドナルド兄弟ですが、その考え方には共鳴できるものの、いとも簡単にクロックに騙されていく愚かな面にはまったく乗れません。クロックが契約書に明記できないがこれは紳士協定だ、と握手を迫る場面がありましたが、あそこで簡単に握手してしまうというか、疑っていながら握手してしまう兄弟二人の人のよさをこれまた作者たちはそれ以上掘り下げようとしません。

乗っ取り屋が海千山千の悪人、乗っ取られた人が純朴な善人という、それだけの対立では「ドラマ」になりません。
悪人にも「言い分」があるし、騙された善人にも何らかの「問題」があった。そこを描いてくれないと見ているこちらは少しも乗れないのです。

まだアマチュアだったころの新藤兼人さんの脚本を溝口健二が一刀両断した有名な言葉が思い出されます。

「これはシナリオではありません。ストーリーです」


シナリオの構成
新藤 兼人
雷鳥社
2007-12-01



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