まったくもって理解に苦しむというか腹が立つというか。

山田宏一氏の『ハワード・ホークス映画読本』。

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開巻早々こうあります。

「ハワード・ホークスとは一目瞭然の映画だ。(中略)「映画」への確信にみちたホークス的な明快さ、明晰さに対しては、いかなる批評的言説も無効のように思える。そこに映画がある、それが映画なのだ、と言うしかない。そして、それだけで充分なのだ」

これって何を言ってるのかよくわかりませんよね?

いや、こう言いたい気持ちはよくわかるんですよ。私だって『リオ・ブラボー』や『赤い河』や『僕は戦争花嫁』を見たときの感動ってこういうことだったんだな、と改めて思いましたし。

でもね、それは映画ファンが口にすることであって、一冊2500円もする本で書くことではないはず。

「いかなる批評的言説も無効のように思える」って、批評家がそんなこと言っちゃってどうするの? 

蓮實重彦との対談にしたって、

「『カサブランカ』と『脱出』を比較して、『カサブランカ』には意味や思想があるけど、『脱出』のほうは意味や思想をきれいに消してしまっている」 

と蓮實が語っていますが、これにも異論はありません。(私は『カサブランカ』も大好きですが)

いま書いてる脚本だって『カサブランカ』より『脱出』みたいな活劇を目指してますから。でも監督である友人はどうも『カサブランカ』のような映画を撮りたいらしい。そこはせめぎあいというか、お互いの色を出し合ってどう妥協点を見出すかが問題。(そうです。映画というのは「妥協の産物」なのです。監督一人で映画を作ってるんじゃないよ)

閑話休題。

問題は、意味や思想がこめられた映画よりもそういうものをきれいに消し去った映画のほうが「なぜすぐれているのか」そこを語ってもらわないと読んでるこっちは時間と金の浪費だし、そこを語ってこその「批評」じゃないの? ちゃんと批評できないから「いかなる批評的言説も無効のように思える」って言い訳してるだけに読めてしまいます。

それから、『ゴダールの探偵』で、9がひっくり返って6になるというギャグについて、

「あんなつまらないギャグをゴダールがやるわけがない、ならば、出典があるはずだ、ヒッチコックはやるまい、フォードにもなかろう、ならホークスだというのがゴダールを見る人の見方だと思う」

という蓮實の発言に対して山田さんはほぼ全面肯定していますが、これもどうなんでしょうか。

ギャグとしてつまらないのなら誰へのオマージュであろうとその時点でダメだと思うんですがね。シネフィルに向けて作られた映画も、シネフィルに向けて発言する批評家も、私はまったく好きになれません。

先日亡くなった松本俊夫監督の名著『映像の発見』と『表現の世界』を読み直したくなってきました。




 
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