先日放送されたNHKスペシャル『終わらない人・宮崎駿』を再放送で見ていたく感銘を受けました。


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ドワンゴの会長が人工知能が描いたアニメーションをプレゼンするシーンがありました。

障碍者の友人がいる宮崎駿はあれを「生命に対する侮辱としか思えない」と一刀両断しましたが、その是非はどうでもいいことです。「ゾンビゲームに使えるんじゃないか」とドワンゴ会長は言ってるわけだし、それならそれでいいんじゃないの、と。でも這いずり回ることしかできない友人がいたら同じ感想をもつかもしれません。

それよりも、同席していた鈴木敏夫プロデューサーの「あなた方はどこへたどり着きたいんですか」という質問に対し、ドワンゴのスタッフたちが放った次の一言を問題視したい。

「人間が描くのと同じように描く機械を作りたい」

要はロボットがほしいんですよね。

宮崎駿だってCGを使って毛虫の短編アニメを作ろうとしてるんだし同じじゃないか、という声が聞こえてきそうですが、違います。

宮崎駿は「人間には描けないものをコンピュータなら描けるんじゃないか」という可能性を試してるんですよ。「人間が描くのと同じように描く」のとは雲泥の差です。

例えば、スペイン・バルセロナのサグラダファミリア。
あれって、ちょっと前までは完成までまだ150年か200年くらいかかるといわれてましたが、3Dプリンタ技術のおかげであと15年ぐらいで完成するとか。すごい!

それって、いまこの世に生きてる人が絶対見れないと思われていたサグラダファミリアの完成形を見れるということであって、人間には不可能と思われることを機械が実現してくれたこと自体は素晴らしいことなわけです。

だから、「人間が描けないものを機械に描いてもらう」のは少しも悪いことではありません。

でも、「人間と同じように描く機械」となると話は別です。



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ちょっと前に、内田樹先生の『マルクスの心を聴く旅』という本を読みました。資本主義とは何かを解き明かしそれを超克しようとしたマルクスの思想をみんな読もうよ、という趣旨の本『若者よ、マルクスを読もう』の第3弾というか番外編なんですけど、ここで内田先生はいつもと同じことですが、こんなような意味のことを語っていました。

「資本主義というのは人間の身体性を忘れるのが基本なんですね。資本主義の勃興期には1日に16時間も18時間も働かされた。でもそれでは死んでしまう。人間という生身の体には『食べる』『休む』というのが必要。限界があるんです。でも資本家は限界がないほうが儲かる。労働運動とはそういう生身の限界をめぐる闘争だったと思うんです」

宮崎駿は番組の中で何度も言っていました。

「ぼちぼち行こうよ」

かなりの高齢者になってしまったから若いころのようにはできない。「老い」という限界。その先にある「死」。

人間はいつか必ず死ぬ。でも機械は死なない。もし壊れて使い物にならなくなってもいくらでも代わりがいる。ドワンゴがほしいのはそういう無限機関のようなシステムなのでしょう。

私がこの番組で大問題だと思ったのは、人工知能じゃなくて人間を食い物にする資本主義というシステムのほうです。

宮崎駿が鈴木Pに長編の企画書を見せたら、「でも宮さんが絵コンテ描いたところで死んじゃったら…映画は大ヒットしますよ」。この一言はいくら冗談とはいえ非常に不快きわまりなかったですが、ここにも資本主義の悪魔が潜んでいる気がします。人の死さえも食い物にして金銭を奪い取るシステム。

しかし本当に死んでしまったら…

宮崎駿の代わりはいません。

番組の最後で、CGスタッフが作った映像がすごすぎて逆に闘志が湧いた宮崎駿が映し出されます。

「機械なんかに負けてられないよ」

人間には描けないものを代わりに機械に描いてもらおうとしていた宮崎駿が、ついに「機械には絶対描けないもの」を描こうと奮闘する、というところで番組は終わります。

感動しました。