クリント・イーストウッドの最新作『ハドソン川の奇跡』をようやっと見てきました。

いい映画だと思いましたが、いろんな意味で「妙ちきりん」な映画だとも感じました。え、面白くなかったのかって? いえいえ、面白かったんです。


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2009年の1月15日、鳥の群れが両エンジンを破壊した飛行機をハドソン川に着水させて乗客・乗員全員の命を助けた機長が、英雄と崇められながらも容疑者として事故調査委員会から問い詰められる。

という物語なんですが、着水は知っていても容疑者として追及されたことを知ってたっけ? と記憶があやふやなんですが、知ってる人は知ってるんでしょう。しかし、着水事件のことは全世界の人が知っているはず。

だからなんでしょうか、普通に、エンジン損傷→二つの空港への着陸も不可能→着水→英雄として祭り上げられる→一転して容疑者に、という流れで見せないんですね。そのへんの流れは誰でも知っているからということなんでしょうか。

しかしアメリカ映画は全世界を市場にしているのだし、アメリカ人が知っていることは世界中の人が知っているはずという思いこみは、やはりイーストウッドも大プロデューサーのフランク・マーシャルも結局は米帝の人間なのだな、と思ったりもします。

純粋に映画の問題として考えてみると、この物語は「本当にハドソン川への着水は妥当だったのか」ということに焦点が絞られます。とすれば、実際の事故の場面と、事故調査委員会で事故の場面の音声を聞く場面と、同じ場面を2回描かないといけないわけです。

トッド・コマーニキという脚本家とフランク・マーシャルとイーストウッドは、事故調の場面では音声だけでなく映像も見せる手法を選んだのですね。さすがに画がもたないと踏んだのでしょう。音声をみんなで聴いてるだけのあのシーンも見てみたかったけど。でもやはり全世界を市場とするハリウッド映画でそれは許されないんでしょうか。

しかしそれなら、死ぬかもしれない事故→一か八かの着水→英雄→容疑者という流れのほうが数多くの観客を獲得できると思うのですよ。それがセオリーでしょう。

じゃあおまえはこの映画がセオリー通りじゃないから駄作だというのか!! 
いえいえ、私は傑作だと思っています。

でも、二つの事故シーンはできるだけ離したくなるのが普通だと思うんですよ。この映画では、実際の事故シーンを中盤で主人公が容疑者として喚問されてると知ったうえで見るから、クライマックスで同じ場面を見せられてもだいたいのことは憶えてるんですよね。だからあまりハラハラしない。



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同じ事故の場面を2回見せないといけないわけですが、ロジャー・コーマンなら「フィルムを使いまわせるぜ。製作費を抑えられる!」と喜ぶところでしょう。ですが、低予算映画の現場で学んだイーストウッドでもさすがにそれは考えなかったようで、実際の事故の場面で声だけ(オフ)だったところを事故調のシーンではオンにしたり、あるいはその逆にしたり、まったく同じでどちらもオンで描いたり、いろいろ工夫しており、なかなかの見せ場となっています。

でもね、最初に事故の場面を見せて、英雄から急転直下で容疑者になったほうが、観客はもしかしたら着水は妥当ではなかったんじゃ…? という疑惑が生まれてサスペンスが深まると思うんです。それがセオリーだと。何度も言いますが、だからつまらないんじゃないんですよ。


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よく考えてみると、妻役のローラ・リニーとの場面がほとんど電話というのも何だか変です。
確かこの二人が直接相対するのは一度だけで、あとは電話で喋るだけ。夫婦の物語じゃないけど、夫婦の絆というのはサブストーリーとして大事なわけで、それを電話ばかりで描くというのはどういうわけか。

そこから次々に変なことに気づきました。
副機長のアーロン・エッカートはただ「機長、あなたは正しかった」と言うだけの役柄です。トム・ハンクスの家族は出てくるけど、アーロン・エッカートの家族は出てきません。「もしかして機長は間違いを犯したんじゃない?」と妻に言われて激昂するシーンがあってもおかしくないし、それがセオリーでしょう。

事故調のメンバーもただトム・ハンクスを責めるだけの役柄です。英雄に対する嫉妬なのか何か知りませんが、彼らも人間なのだから少しは逡巡したりもするはずなのに、徹底して責めるだけ。彼らにも家族がいるわけで、「機長は正しいんじゃない?」と妻に言われて激昂するシーンがあってもおかしくないし、それがセオリーでしょう。

と、ここまで考えて、はたと思い当たりました。

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私はちょいと前までトム・ハンクスという役者が大嫌いだったんですが、ここ数年は少しも鼻につかなくなったというか、逆に好きになってきたんです。何というかどっしりした風格があり、そしてとてもチャーミングで。上の画像は来日キャンペーンのときのものですが、こういう気さくさが根底にあるからいい役者なんだろうな、と。

で、イーストウッドはトム・ハンクスに賭けたんだと思います。この男をずっと画面で追い続ければ行けると。一点突破で描こう。それしかない。

私がずっとセオリーと言ってきたのは、別の言葉でいえば「マニュアル」です。
事故調が重視するのはマニュアルですが、映画が訴えるのは「人的要因」です。

マニュアルを無視して英雄になった男を描くにはセオリーを棄てた映画作りが必要だとイーストウッド他この映画の作者たちは考えたのでしょう。そのために変な構成になった映画を一人の偉大な役者に救ってもらう必要があった。

だから、妻とも電話だけ。他の人物の家族は一切出さない。自然と上映時間は短くなる。最近のイーストウッド作品は平気で130分を超えてましたが、この映画はたったの96分。その謎が解けた気がします。

素晴らしい映画でした。そして非常に斬新でした。
全世界が市場のハリウッド映画でこんな変てこりんな映画を作ってみせるクリント・イーストウッドという男には、やはり心から敬服します。


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