昨日放送されたETV特集『私たちは買われた ~少女たちの企画展~』を見て、いろいろ考えさせられました。

この展示会を企画した人は、「私たち大人や社会が悪いんだと思う」とおっしゃっていました。

それは少しも間違っていないのですが、「社会が悪い」という言い方はあまりに漠然としすぎて具体性がなく、問題が明確にならない気がします。

私は次の2点を提言したい。

①売買春はあくまでも買う行為のほうが先で売るのは後であることをもっと世の中に喧伝して理解してもらう。
②レイプや痴漢の「性犯罪」というカテゴライズを見直す。



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少女たちのほとんどが親から性的虐待を受けていてそれがトラウマになって自傷行為を繰り返して家出して、そこで「金あげるから」と一人の男の奴隷になる、というのが入口のようでした。少なくとも、この展示会に参画した少女たちはそういう「弱者」のようです。

ネット上では「買われた」んじゃなくて「売った」んだろ、という書き込みもあるなどと紹介されていました。

①について
確かに売ってはいるんですけど、こういう問題を考えるとき、いままでよくわからなかったんですよね。

売る人間がいるから買う人間が現れるのか。
買う人間がいるから売ろうとするのか。

いったいどちらが先なのかと。卵が先か鶏が先か。

でも今回よく考えてみてはっきりしました。「買う人間がいるから売る人間が現れる」のだと。

普通の経済活動を省みればわかります。
ある新商品が登場して、買う人間が殺到する。そこだけ見たら売るほうが先のようですけど、どんな会社だって、いまどういう商品を発売したら売れるか、というリサーチをするわけで、リサーチ結果によりこういうニーズがあることがわかった、だから売ろう、となるわけです。

供給するから需要が発生するわけではない。需要があるから供給する人間が現れる。考えてみれば当たり前のことでした。

先に紹介した少女だって、男のほうから「金を出す」、つまり「おまえを買う」と言ってきたんですから。
売買春の悪の根源は「買う男」のほうだと断定します。

②について
これは前から思っていることですが、レイプや痴漢などは「性犯罪」にカテゴライズされますが、これは間違いというか、このカテゴライズをやめるべきだと思っています。

確かに性犯罪ではありますが、それ以上に「弱い者いじめ」ですよね。

面白半分で体を売る子は論外としても、番組で紹介されていた展示会を企画した女の子たちは、みな金がない、行き場がない、すがる人がいない、という弱みにつけこまれています。彼女たちを批判する人たちはそういうことすら「自己責任」だと言うのでしょうか。

昨日、アナウンサー長谷川豊の「透析患者は自業自得だから殺してしまえ」という発言を批判する日記を書きましたが、この「自己責任=自業自得」という言葉って「おまえが悪い」など他者を非難するときにしか使われないですよね。「それは私の責任です」と自分が責任をかぶるときには使われません。それは自己責任で、というのは、「あなたを助ける人はいないからそのつもりで」というものすごく非情な言葉。「それは私の自己責任です」というふうにしか使っちゃいけないと思う。

閑話休題。
レイプは男が女を腕力でねじ伏せてその体をほしいままにする所業ですし、痴漢は、電車内などで恥ずかしくて声を上げられない女性心理の弱みにつけこむ犯罪です。だから「なぜ大声を出さなかった」と被害者を非難するなんてもってのほか。セカンドレイプというやつですね。

だから、レイプや痴漢などのいわゆる「性犯罪」は、すべて「弱い者いじめの犯罪」とか「卑怯者の犯罪」とかにカテゴライズし直すべきじゃないかと思うんです。

スケベな男がみんなレイプするわけじゃないし。というか、男なんてみんなスケベだし。でも「性犯罪」という言葉だと「その人がスケベだからやった」みたいになってしまって、弱い者いじめという「卑怯さ」が前面に出てこないと思うんです。

さて、ネット上では彼女たちを非難する人たちが多く、炎上とはいかないまでもちょっとした祭りになってるらしいですが、彼女たちを言葉だけで非難する人たちも、体を直接凌辱した人間と同じように傷つけているということにもっと気づいてもらいたいものです。

番組でも「言葉の傷」というコーナーがありました。
いまでも彼女たちの心の傷になっている言葉を紹介して今日の日記を終えましょう。


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