撮影という行為において映画はすべてドキュメンタリーであり、編集という行為において映画はすべてフィクションである。とは、私が映画作りに関わって得た経験的知見ですが、この『FAKE』はそういう「映画の本質」を映画自身がさらけ出した作品だと思いました。

2年半前にゴーストライター騒動で世間を賑わせた佐村河内守氏を、『A』シリーズの森達也監督が取材した、本人によると「15年ぶりの新作映画」です。


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ドキュメンタリーという触れ込みですが、私はここからしてすでに怪しいと思います。森達也監督がドキュメンタリストだから、あるいは監督がインタビューして被写体がそれに答えるというスタイルがドキュメンタリーっぽいからそう見えるしそう宣伝しても別にそれが「嘘」だとは言えません。しかし、私はこの映画はフィクションだと思います。森監督と佐村河内氏がどこまで共謀したのかはわかりません。大きく3つの可能性があります。

①最初からフィクションを作ろうとした。
②最初は普通にドキュメンタリーを作るつもりで撮影を進めたけれど途中からフィクションにしたほうが面白いと判断し、移行した。
③徹頭徹尾ドキュメンタリーを作ろうとしたが、編集を終えてみるとフィクションに見える作品になっていた。

①と②は確信犯ですが、③なら偶然。まぁ確信犯だから悪いとか言うつもりは毛頭ありませんし偶然だからいいというのもどうかと。

この映画の核心は、画像にもあるように「衝撃のラスト12分間」にあると思います。
まずは順を追って考えてみましょう。

私は最初、「嘘をついているのは誰なのか」という映画だと思って見ていました。

佐村河内氏を追及した神山という週刊文春の記者に取材を申し込んでも拒絶され、新垣氏に申し込んでも拒絶され、さらに新垣氏はゴーストライター騒動がきっかけでかなり得をしている。雑誌の表紙を飾ったり、テレビに出て人気を博したり。そのときはやはり嘘をついているのは100%新垣氏のほうだ、佐村河内氏は潔白なのだ、と思いました。

しかし…

外国のメディアが来て「共作だったという証拠を見せてください」と言われて、見せるのは新垣氏への指示書だけ。文字で書かれたものだけじゃ信用できない。音源を聞かせてほしい。それはない。ほんとに演奏できるのか。なぜ作曲家の家にひとつも楽器がないのか。前の家が狭かったから捨てた。

作曲家にとって商売道具の楽器を家が狭いからって捨てますかね? どうしてもそれは信用できない。それにこの場面の佐村河内氏はかなり動揺しています。
そのシーンのあとシンセサイザーを買ってあのクライマックスに雪崩れこむんですが、もっと前に買うことは考えなかったんでしょうか。現在の家に引っ越したのがいつか知りませんが。

あのシーンでは佐村河内氏は100%嘘をついている、と私は思いました。

つまり、どちらが本当のことを言っているのか少しもわからない。

で、問題の「衝撃のラスト12分間」になるわけですが…

この12分間で佐村河内氏は「作曲」をするんですね。彼のゴーストライターだったと称する新垣隆氏が「彼は作曲はできない」「楽器の演奏すらできない」と言っていた、あの佐村河内氏がシンセサイザーを演奏し、オーラスでは見事な交響楽が完成します。

というのは、あくまでもそれまでの「文脈」を考えてそのシーンを見て観客の胸中に起こることです。

文脈とはその作品を鑑賞する者の頭の中にだけ存在するものです。小説なら文章と文章、またはエピソードとエピソードを作者が効果的に「編集」することで文脈が生まれる。映画も同じ。

かつて映像編集を少しだけやったことがありますが、特に会話する人物のカットバックをやっているときに「映画の魔術」を感じざるをえなかったんですね。
カット尻をどこにするか、次のカット頭をどこにするかで、そのセリフを受けた人物に宿る感情が違って見えるんです。ほんの数コマとかでも。編集が文脈=意味を生んでいる。逆にいえば、観客にこういう感情を抱いてほしいという作者側の思惑があってそれを実現するための編集がなされているわけです。

だから映像作品は嘘をつきます。情報操作をやることなど造作もないことなのです。

『FAKE』の衝撃のラスト12分間を、それまでの文脈を踏まえて見れば「佐村河内氏が作曲をしている」という「意味」を感じ取ることはできます。

が、画面のなかで実際に「佐村河内守が作曲をしている」ということが起こっていたでしょうか。

確かにシンセサイザーを弾くかのような指づかいがありました。が、音はいくらでもあとで入れられるし、あの程度の指づかいなら少し練習すればできそうです。(私はひとつも楽器を弾けないので推測ですが)

本当にあの曲は佐村河内氏が演奏していたものなんでしょうか? 作曲していたんでしょうか?

最後に森監督が佐村河内氏に尋ねます。「いまでもこの騒動が新垣氏の嘘から生まれたものだと言えますか?」でしたっけ? 何だか映画そのものの力が圧倒的なので大事なところを忘れてしまいました。まぁでもそんなような意味の言葉だったはずです。イエスかノーしかありえない質問に対し、佐村河内氏が答える前にエンドマーク。彼がどう答えたかは観客一人一人がそれまでの「文脈」から考えてください、というメッセージ。これはもう確信犯ですね。

ならば先述の①から③のうち、③の可能性は消えました。森監督は確信犯でフィクションをやろうとした、というのが私の解釈です。

いやいや、佐村河内氏がほんとに作曲やってた可能性もあるんじゃないの、つまりこの映画はやっぱり佐村河内氏の潔白を証明するドキュメンタリーなのでは? という声が聞こえてきそうですが、この映画を考えるうえでそれはもう私にはどうでもいいことです。

なぜなら、この『FAKE』という映画自身が「映画は嘘をつく」と言っているからです。佐村河内が黒か白か、じゃなくて、映画というもの、映像を使ったメディアは簡単に情報操作できるんですよ、ということを映画自身がさらけ出してしまっている。映像だけでなく、先に小説の例を出しましたが、文字だけの記事でも情報操作はできるし、その意図がなくても結果的にできてしまう。

映画をはじめ何らかの意味を伝えるメディアは、編集という行為においてすべて原理的にフィクションなのだ、全部ウソなのだ。だから佐村河内氏を悪人に仕立て上げた報道も実はすべてが仕組まれていたのだ。

それこそがこの映画のテーマ、森監督の言いたいことだと感じたんですが、それも私個人が感じた「文脈=意味」にすぎません。

他の人がこの映画を見てどう感じたのか興味があります。いまからいろいろ検索して読んでみようと思います。

FAKE
佐村河内守
2017-07-01



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