ヒッチコック/トリュフォーの『映画術』で、当時世界中に林立し始めた映画の専門学校や大学の映画学科についてトリュフォーがヒッチに質問を投げかけます。「映画作りというものは教えられるものでしょうか」。ヒッチの答えは簡潔明瞭。

「サイレント映画の作法を教えないかぎり、どんな教育も無意味だ」



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脚本:野木亜紀子
監督:佐藤信介
出演:大泉洋、有村架純、長澤まさみ
2015年 日本映画『アイアムアヒーロー』

この映画が何よりすごいのは、セリフの意味が一言も理解できなくても物語を把握でき、楽しめてしまうことですね。(ラストシーンの会話の意味がわからないと感動も薄れるかもですが)

つまり、この映画は徹頭徹尾サイレント映画の作法で作られているわけです。映像だけで語る。行動が、仕草が、表情が、血が、汗が、小道具が、すべてを説明してくれます。

この、英雄と書いてヒデオという名の気弱な男が本当の英雄(ヒーロー)になるまでを描いた映画を、私は「決定的瞬間」をどうやって見せてくれるんだろうと期待して見ていました。

①ヒデオが「君は俺が守る」をいつ誰に向けて言うのか
②いつ誰に向けて猟銃を撃つのか

①については、最初のほうだったので少々驚きました。

ゾンビ、というか、劇中の言葉を使えばZQN(ゾキュン)の出現で大混乱になった街中で偶然知り合った女子高生・有村架純と富士山に逃げることになります。(ゾキュンは空気の薄いところでは生きられないから、とか)

その有村架純に下心を抱くヒデオは、いとも簡単に「君は俺が守る」と自分の売れなかったマンガの決め台詞を言うんですが、最初は「え、ここで言っちゃっていいの?」と思いました。
が、よく考えればそれでいいんですよね。まだまだあの場面でのヒデオはヒーローになる覚悟も何もないただの負け犬ですから。マンガ原稿の「君は俺が守る」は、ますます「あー俺はダメだ」と自己嫌悪に陥らせるための伏線だったんですね。うまい。

ならば、ヒデオがヒーローになる覚悟を決める場面はどこかといえば、富士山中のショッピングモールで知り合ったヤブというあだ名の長澤まさみに「助けて!」と電話で言われて「いまから助けに行く!」と答え、それまで逃げてばかりいたヒデオがついに戦いの場に身を投じるわけですが、「え、君は俺が守るは言わないの?」と思いました。

が、それでいいのでした。これはサイレント映画の作法で作られているのだから、セリフの意味がわからないと面白味が伝わらないのではダメなんです。だからただ「助けに行く」でいい。



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さて、決定的瞬間の二つ目「いつ誰に向けて猟銃を撃つのか」ですが、これもかなり工夫が凝らされていました。というか、いつヒデオが引き金を引くのか、という作劇術的サスペンスのほうが、彼らは生き延びられるのか、という物語的サスペンスよりも強かったですからね。

まず、ヒデオは趣味で猟銃をもっている。それをもって奥さんに家を追い出されるんですが、その奥さんがまずゾキュンになります。まさかここでは撃つまいと思ってました。それじゃもうずっと撃ちまくるしかないですもんね。

街中で知り合った有村架純と一緒にタクシーに乗ると、偶然一緒に乗った政治家・風間トオルがゾキュンに変貌。運ちゃんも噛まれてゾキュンに。ここで撃つのか? でもまだ序盤だぞ。と思ったら、ここでも撃たない。よかった。

すると、有村架純がゾキュンになっちゃうんですよね。まさか、と思いましたが、首に噛まれた痕がある。この傷痕の設定が絶妙でして、赤ん坊に噛まれたらしいんですね。母乳を介して感染するとしたらその赤ん坊もゾキュン。だとしたら自分もゾキュンだと。しかし、間接感染だから彼女だけ完全にゾキュンにならない。ゾキュンだけどゾキュンじゃないという微妙な存在になります。他のゾキュンからヒデオを守ってくれたり。

だからヒデオはここでも撃ちません。ならば、いつ撃つのか。

ヒデオは、有村架純を連れて富士山を登っていくのですが、別に置き去りにしたくないという理由だけではなかったでしょう。この子が俺を守ってくれる、という計算もあったはず。

そして、くだんのショッピングモール。そこではたくさんの人間がゾキュンと戦っていました。

しかも、そこではゾキュンだけでなく「俺が法律だ」と豪語する吉沢悠というボスに殺される可能性もある。この人間同士の殺し合いは面白かったですね。身内にも敵がいる。そして吉沢の手下たちは有村架純を犯そうとする。

ここか! ここでとうとう撃つのか!?

と期待したんですが、ここでも撃たない。そればかりか猟銃を奪われる。どこまでも情けない。

ところがこの展開のおかげで、いつ撃つかというサスペンスががぜん面白くなるんですよね。というか、どうやって猟銃を取り返すか、というサスペンスに置き換わる。

主人公ヒデオが「いつか誰かを撃つ」のは明確です。そうでなければ少しも面白くない。この映画では簡単に撃たせない。引っ張りに引っ張る。その作劇術的サスペンスが、ヒデオのダメ男っぷりをさらに大きくする。つまり、ついに発砲する瞬間へのハードルをどんどん上げている。志の高い作劇です。発砲するときのヒデオのヒーローっぷりが上がりますから。

さて、他の勝手な連中にこき使われ、みんな戦って死んでいくのに自分だけ何もできず、独りロッカーに隠れるという情けない主人公ヒデオが、長澤まさみからかかってきた電話でヒーローとして覚醒するんですが、その直前の、ロッカーから出たらすぐゾキュンに噛まれるという妄想につぐ妄想が面白い。

しかし、長澤まさみの言葉によって主人公が覚醒するというのはどうなんでしょう? サイレント映画云々は別にしても、「映画」として、主人公の行動の契機がセリフというのにはちょっとガッカリしたのも事実です。

でも、ゾキュンになって長澤まさみをレイプしようとした吉沢悠に向けてついに最初の発砲! 「は~い」という掛け声が最高で、ついにこの瞬間が来たかという感動がありました。
その発砲によって覚醒したヒデオは撃ちまくるんですが、覚醒してしまったヒーローというのは無敵ですね。「地上7メートルのセーフティフィールド」でさえ一瞬で地獄にしてしまった元走り高跳び選手のラスボス・ゾキュンでさえ、何度もやられそうになりながら最後の一発で射殺ですからね。


しかし、長澤まさみといえば…


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ヤブというあだ名は、看護婦なのにゾキュンも人間もみんな置き去りにしたから藪医者のヤブなんですが、『アイアムアヒーロー』というタイトルはヤブのテーマでもあると思ってました。彼女もまたヒデオと同様ヒーローとして覚醒するんだろうと。でも、何かただの添え物になってしまった感が強いですね。ヤブはヒデオの覚醒を促しただけで他には何もしていない。もったいない。まぁ有村架純を決して置き去りにせず、おんぶしてヒデオのところまで行こうとはしますが、もひとつキャラクターが活かしきれてない憾みが残ります。

有村架純の半ゾキュンという設定も、もう少しドラマに絡めてほしかったし。

とはいえ、そういう不満も含めてあばたもえくぼ。

ヒーロー覚醒の瞬間を描いたこの映画が大好きです!





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