光文社古典新訳文庫からプラトンの著作が刊行され始めてからもうだいぶ経つというのに、いままで一冊も読んでなかった。不勉強を恥じます。
さて、まず最初に読んだのは『メノン 徳(アレテー)について』という、プラトン初期の著作です。
「徳(アレテー)は教えることができるか」と問う若造メノンに対して、「無知の知」の看板を掲げるソクラテスが「そもそも徳(アレテー)とは何か」と問い返すところからこの問答は始まります。
というか、メノンとソクラテスが最終的にどういうところへ着地するかは、プラトンの本文と、翻訳者・渡辺邦夫さんの懇切丁寧な解説、つまり280ページ余の本書を通読すればそれなりにわかります。
というか、ここで語られていることを私が解説したり、感想を述べたりできるものではありません。あまりに深すぎるから。それ以前に難しいし。
ただ、どうしても言っておきたいのは、「探求のパラドクス」に関してソクラテスが返す言葉についてなんですね。
メノンは、そもそも最初から知らないものを探求などできはしない、とパラドクスを投げかけるんですが、それに対するソクラテスの返答が「想起説」なるもの。
これは、私たち人間は生まれる前からこの世のあらゆる知識をもって生まれてくる。しかし、生まれた瞬間に忘れてしまう。だから学ぶということは、生まれる前の記憶を想起することなのだ、というものなんです。
これ、何かに似てるなぁ、と思っていたら、アレでした。
仏像の彫り師が、木の塊から仏像を彫るとき、「仏像はこの木の塊の中に既に存在している。私の仕事はその周りの余分なものを払いのけるだけだ」と。
つまり、木を彫って仏像を作り上げるのではなく、仏像という作品は既に存在していて、その存在を「発見」してやるだけだ、ということですね。創造とはそういうものなのだ、というとても奥深く、ありがたいお話。
ソクラテスの「想起説」というのも同じだと思うんです。探求すべき知識はすでに全部もっている。内なる知識を発見するだけだ、と。
古代の哲学者と、いつの時代か知りませんが仏像の彫り師がまったく同じことを言っていることに大いに感動した次第です。
おそらく、これは人生におけるあらゆることに通じるオールマイティな考え方なのかもしれません。
プラトンの他の著作も読んでさらに勉強を深めたいと思います。
さて、まず最初に読んだのは『メノン 徳(アレテー)について』という、プラトン初期の著作です。
「徳(アレテー)は教えることができるか」と問う若造メノンに対して、「無知の知」の看板を掲げるソクラテスが「そもそも徳(アレテー)とは何か」と問い返すところからこの問答は始まります。
というか、メノンとソクラテスが最終的にどういうところへ着地するかは、プラトンの本文と、翻訳者・渡辺邦夫さんの懇切丁寧な解説、つまり280ページ余の本書を通読すればそれなりにわかります。
というか、ここで語られていることを私が解説したり、感想を述べたりできるものではありません。あまりに深すぎるから。それ以前に難しいし。
ただ、どうしても言っておきたいのは、「探求のパラドクス」に関してソクラテスが返す言葉についてなんですね。
メノンは、そもそも最初から知らないものを探求などできはしない、とパラドクスを投げかけるんですが、それに対するソクラテスの返答が「想起説」なるもの。
これは、私たち人間は生まれる前からこの世のあらゆる知識をもって生まれてくる。しかし、生まれた瞬間に忘れてしまう。だから学ぶということは、生まれる前の記憶を想起することなのだ、というものなんです。
これ、何かに似てるなぁ、と思っていたら、アレでした。
仏像の彫り師が、木の塊から仏像を彫るとき、「仏像はこの木の塊の中に既に存在している。私の仕事はその周りの余分なものを払いのけるだけだ」と。
つまり、木を彫って仏像を作り上げるのではなく、仏像という作品は既に存在していて、その存在を「発見」してやるだけだ、ということですね。創造とはそういうものなのだ、というとても奥深く、ありがたいお話。
ソクラテスの「想起説」というのも同じだと思うんです。探求すべき知識はすでに全部もっている。内なる知識を発見するだけだ、と。
古代の哲学者と、いつの時代か知りませんが仏像の彫り師がまったく同じことを言っていることに大いに感動した次第です。
おそらく、これは人生におけるあらゆることに通じるオールマイティな考え方なのかもしれません。
プラトンの他の著作も読んでさらに勉強を深めたいと思います。
コメント
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。