WOWOWがオーソン・ウェルズ特集を組んでくれたので久しぶりに『市民ケーン』を見ることができました。(何でも来月はフィルムノワール特集とのことでWOWOWさんにはいつものことながらお世話になりっぱなしです)

さて、この『市民ケーン』ですが、主人公ケーンがいまわの際につぶやく「薔薇のつぼみ」なる言葉の意味をめぐる物語なんですけど、私の解釈はご多分に漏れず、というか、かなりありきたりなものです。




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主人公は幼い頃に年5万ドルのお金と引き換えに大金持ちの養子に出されます。その場面から察するに、両親は金目当てなのではなく、父親が主人公に暴力ばかり振るうため、それを見かねて母親が里子に出そうとしていることがわかります。

父親の暴力に耐えた末に、守ってくれるはずの母親から結果的に捨てられることになる主人公。本当は捨てられたんじゃなくて守ってくれたんですが、そのために主人公はそれ以降、母親の無償の愛を知らずに成長します。

先日感想を書いた『ルーム』では、母親から無条件の愛を受けた息子が、無意識的にでしょうが母親に愛を返す結末が感動的でした。

「無償の愛」「無条件の愛」と書きましたけど、これは「二重形容」ですね。「愛」という言葉にすでに「無償の」「無条件の」という形容が含まれているのですから。

主人公ケーンは、何も見返りを期待しない本当の「愛」をほとんど知らずに育った、だから、反乱を起こすジョゼフ・コットンに言われますね。「君は、『愛してやる、だから愛し返せ』と言ってるだけだ。そんなのは自己愛にすぎない」と。

愛人のスーザンをいくら愛しても愛し返してもらえない。だからよけい見返りを期待した愛し方をしてしまい、彼女どころか富と名声以外のものはすべて失ってしまう。

ケーンは我が身を振り返って、自分がこんな不幸な人間になったのは母親に捨てられたあのときが原因なんだろう、と思ったのでしょう。だからあのとき手にしていた橇に書かれた「薔薇のつぼみ」という言葉をつぶやいて死ぬ。

というのが私の解釈です。何度見てもこの解釈をしてしまうから、私にとって『市民ケーン』とは、「そのような映画」なのです。

ところが、その解釈は間違っているという人が現れました。

『トラウマ映画館』や『狼たちは天使の匂い』などその著書を何冊も愛読させてもらっている町山智浩さんです。

町山さんは、「薔薇のつぼみとは愛人の性器のことだ」と言います。へぇー、と驚きました。何でも13世紀に書かれた擬人化小説のはしりである『薔薇物語』という本には薔薇のつぼみ、それもまだまだ固いつぼみのことを女性器のこととして書かれているらしいんですね。(ケーンが出会ったときのスーザンは処女だった、ということでしょうか)

「多くの人が橇に書かれてる言葉だから『母ちゃん恋しい』という映画だと思ってますが、それは違います。本当はスーザンのアソコのことなんです」とのこと。

それはそれでひとつの解釈でしょう。いや、ひとつの解釈どころか、おそらくオーソン・ウェルズとハーマン・マンキーウィッツが意図したのはまさしくそれに違いないという気さえします。少なくともそう解釈したほうが数倍面白い。

しかし、ここで大きな問題が二つあります。

一つ目は、映画にかぎらず「作品」と呼ばれるものの解釈はその作品の中だけでなされるべきだ、というものです。

私は不勉強のため『薔薇物語』なんて小説は題名すら知らなかったので当然読んでいません。読んでるかどうかはともかく、他の作品を参照しないと成り立たない解釈というのは、一種の衒学趣味だと思うんです。
確かに作者たちが、「母親への思いと見せかけて、実は…」という意図したことは充分考えられます。当時はまだまだ検閲が厳しかったですから女性器を意味するなんてはっきりと言えなかったでしょうしね。

しかしです、ここからが二つ目ですが、「作者の意図通りに見なきゃいけない」などというルールは存在しません。仮にウェルズが「薔薇のつぼみとはスーザンのアソコのことだよ」と語ったとしても、です。

ちょっと前に三谷幸喜氏の『王様のレストラン』の感想を綴りましたが、それについて珍妙なコメントがつきました。私の解釈が作者である三谷幸喜の意図とずれてるから見る目がないんですって。何で作者の意図通りに見なきゃいけないのかさっぱり理解できません。

作者の意図=正解と思ってるのでしょうか。じゃあ作品を見ずに作者のコメントだけ読めばいいということになってしまいます。

作品を鑑賞するというのは正解を知るためじゃないでしょう。人生に正解がないのと同じで、作品にだって正解などありません。ただ自分はこう見た、自分ならこう生きる、というその人なりの思いしかない。

作者の意図=正解と思っている人たちは、正解を知ることで思考停止してしまってるんじゃないでしょうか。

おそらく、町山さんだって自分の解釈を聴衆に強いるつもりで言ったんじゃないと思います。「これもひとつの解釈ですよ」といった感じだったんじゃないかと想像しますが、問題は、町山さんの言ってることだけが唯一正しくて、あとは間違っていると言う人たちですね。(いまはいないかもしれないけど、そのうちそういう人たちが絶対出てきます)

確かに、町山さんの解釈を聞いて私も蒙を啓かれましたが、それでもいま実際に『市民ケーン』を虚心坦懐に見直したところ、やっぱり以前と同じ、「薔薇のつぼみとは母との別れ、母への思いを意味する」という解釈に帰着せざるをえませんでした。

解釈は観客の数だけ存在するのだから、私の解釈も、町山さんの解釈も、そのどちらでもないぜんぜん別の解釈も、すべて否定できるものではありません。

とりあえず、『薔薇物語』を読んでみようと思います。

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