大相撲でおとといの千秋楽結びの一番で、勝てば文句なしの白鵬が立ち合いの変化という奇手で勝って最多36回目の優勝を果たしました。

私はかねてから白鵬という男の顔が気に入らないので「また白鵬かよ」とげんなりしたんですが、実際の相撲を見てなくて、あとで立ち合いの変化で勝ったと聞いて、ただのげんなりが怒りへと一変しました。

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「横綱らしくない」
「勝ちさえすれば何でもええんか!」

という野次のなか、白鵬は「こんな相撲を見せて申し訳ない。だけど、しばらく優勝してなかったのでどうしても勝ちたかった」と言ったとされます。(もうこの言い訳がすべてだと思うんですがね)

何しろ毎場所のように連続優勝してた男が4場所ぶりというのですから、喉から手が出るほどほしかった賜杯。それはわかります。

だけど、私は横綱という最高位に位置する力士が取る相撲じゃないと思いました。どうしても「横綱」というと私の場合、幼い頃の北の湖の印象がいまだに強烈で、彼は格下の相手をがっちり受け止めてからジリッ、ジリッと寄せていくというまさに「横綱相撲」が常でした。だから今回の白鵬の相撲は横綱としての誇りはないのか! と強く言いたい。

「相撲はスポーツじゃないんだから」という人がいます。私も相撲はスポーツじゃなくて神事だと思いますが、その神事とは何ぞや、と問われたら何も言えなくなるくらい知識に乏しいので、相撲はスポーツじゃないというところから論陣を張ることはできません。

だからあえて相撲はスポーツ(の一種)だという観点から反論しますが、スポーツである以上は勝つか負けるかでしょう。そして勝てば懐にカネが入り、負ければ入らない。どういう手段を用いようが食っていくためには勝たなければいけない。

そりゃプロスポーツならそうでしょう。しかし、白鵬は横綱ですよ。月給だけで確か100万以上もらってるんでしょ? 懸賞金なんかはもらったところで後輩たちにおごってなくなるって話ですけど、優勝すれば賞金がもらえる。その賞金がほしかったの? プロ(金を稼ぐためにやってる)なんだから、という論理では、あの一番で負けても充分食っていけるじゃないか、という話になってしまいます。

百歩譲ってあの一番で優勝しなかったらおまんまの食い上げになるとしても、スポーツ人である前に一人の人間だろう、と。そして同時に横綱。千秋楽結びの一番といえば横綱同士の対戦。それを立ち合いの変化で勝つという「せこさ」には「恥を知れ!」という言葉しか浮かびません。

ただ、この問題が興味深いのは、世間では白鵬への同情論というか、勝ってなんぼの世界なんだから何がいけないの? と白鵬のやり口に理解を示す人が若干ですが多数派を形成しているという事実です。それを聞いて、あぁ、そういう世の中になってしまったのか、と嘆かわしくなりました。

そのニュースを聞いたとき、すぐ頭に浮かんだのはこの人です。


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経歴詐称問題で雲隠れしたままのショーンK。

経歴って「結果」ですよね。その人の経歴は現在進行形で生きているその人にとって「過程」ではなく、あくまでも現時点での結果です。

私の高校時代の先生で、東大法学部に合格し誰もが羨む官僚エリートコースの道に入りながら、入学後に違和感を覚えて教育学部に転学し、母校の教師になった人がいました。
その人の経歴を記せば、「東大法学部入学、教育学部に転学、○○高校の国語教師として赴任」とかになるんでしょうが、いま説明した「過程」(違和感を覚えた、など)を省いてその経歴(結果)だけを見れば、何だか官僚エリートコースから外れた落ちこぼれみたいに見えてしまいます。

逆もまたしかり。

だからこそ、ショーンKのように学歴詐称する人間は後を絶たない。でもそれは詐称する人間だけが悪いのではなく、学歴・職歴といった「結果」だけで人間を判断する人たちが多数派を形成しているからです。

白鵬の問題では、勝利・優勝という結果しか見ていない人たちがたくさんいるということです。立ち合いの変化というせこい過程はまるで「なかったこと」のようです。

それではいけない。

先日亡くなった最も有名なサッカー選手の一人、ヨハン・クライフはかつてこう言いました。

「醜く勝つくらいなら、美しく負けろ」



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