1971年製作『ダーティハリー』は泣く子も黙る名作として知られていますが、私もご多分に漏れず大好きでして。


『ダーティハリー』(1971、アメリカ)
原案:ハリー・ジュリアン・フィンク&R・M・フィンク
脚本:ハリー・ジュリアン・フィンク、R・M・フィンク、ディーン・リーズナー&ジョン・ミリアス
監督:ドン・シーゲル
出演:クリント・イーストウッド、アンディ・ロビンソン、ジョン・バーノン、レニ・サントーニ、ハリー・ガーディノ


「わからない」というセリフ
主人公のハリー・キャラハンは、新しくタッグを組むことになった相棒のチコとともに連続射殺魔「さそり座の男」を追い詰めていきます。で、その過程でチコが撃たれて入院する。

ハリーが見舞いに行くと、婚約者がチコの看病をしている。チコは、刑事を辞めたい、教師の資格をもってるからそっちで生計を立てていく、と言います。

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婚約者に見送られるハリーは、「君たちには無理だ。辞めたほうがいい」と理解を示すのですが、チコの婚約者が「じゃあ、あなたはなぜ刑事をやっているの?」と訊きます。

そのとき主人公ハリーは「I don't know」と答えるんですね。そのあとも何か一言言ってますがよく聞き取れません。日本語字幕ではすべてひっくるめて「さてね、わからんよ」とだけ訳されてますが、私がこの映画を見ていつも引っかかるのがこの「I don't know」なのです。


「わからない」の理由は?
大きく二つ考えられます。

①本当にわからないから「わからない」と答えている。
②わかりすぎるほどわかっているけど、あえて「わからない」と答えている。

①は論外です。理由は誰の目にも明らか。

では、②はどうでしょうか。
可能性としては充分あると思いますね。

悪を憎む正義感を人一倍もっているからこそ自分は刑事としてしか生きられない。そういう自覚をハリー・キャラハンという男はもっていると思います。さらに、チコの婚約者との会話で明らかになるのは、ハリーにはつい最近まで奥さんがいたが交通事故で死んでしまったということ。

チコは、最初はハリーに「学士の刑事か。出世するぜ。死ななきゃな」と反感を抱かれていました。「俺の相棒は入院するか死ぬかだ」と言われても「だから?」と即答するほど肝っ玉もある。そんなチコが刑事を辞めるのは、ひとえに婚約者のため。自分が死ねば悲しむ人がいるからです。

ハリーにはもうそんな人はいない。しかも「学士の刑事か」というセリフから察せられるのは、彼にはろくな学歴がない。チコのように他の職業で口に糊していくこともできない。

だから、「なぜ刑事をやっているの?」と問われたとき、その理由がわかっているのに「わからない」と答えるのでしょう。チコが羨ましいけどそれは言えない、という男としての矜持もあったことは想像に難くありません。


新しい可能性
でも、本当にそれだけなんでしょうか? それだけならあのセリフにこんなに引っかかるだろうか? 
①と②とは別の新たな可能性はないだろうか、と考えたところ、新しい可能性に思い当たりました。

③無意識ではわかっているが意識の上ではわかっていないので「わからない」と答えている。

ハリーは前述のとおり正義感に溢れた刑事です。しかしちょっとその正義感が行き過ぎている。

令状なしで容疑者の家に押し入るというのは刑事サスペンスではよくあります。別にハリー・キャラハンの専売特許ではありません。

しかし、丸腰の容疑者を撃ち、さらに傷口を足で踏みつけるなどというサディスティックな一面は、ハリー・キャラハンという男に特有のものです。

彼は自分が正義感に溢れていることを充分自覚していますが、それが行き過ぎて犯罪者をリンチにかけることに少しも心の痛みを感じないことには無自覚なのかもしれない。

凶悪犯を逮捕するのが自分の仕事だから、という自覚以上に、凶悪犯を血祭りにしたいという無意識の欲望には無自覚だから「わからない」という言葉が出てきたのではないか。


本当の理由はこれだ!
ここまで考えてきて、はたと思い当りました。4番目の理由に。そして、それこそが本当の理由なのではないか。

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60年代後半から70年代初頭、凶悪事件が頻発するアメリカで、異常者はすべて処刑してしまえ! という一般大衆の無意識の願望が作り上げたのが、異常なまでに正義感が肥大化した主人公ハリー・キャラハン。

『フレンチ・コネクション』しかり、『狼よさらば』しかり、あの頃のアメリカ映画には似たような主人公が描かれていました。

ハリー・ジュリアン・フィンク、R・M・フィンク、ディーン・リーズナー、そしてノンクレジットですがジョン・ミリアスの4人から成る脚本家チームは、凶悪犯を血祭りにしたいという一般大衆の無意識的欲望を具現化してハリー・キャラハンというキャラクターを造形したと思われます。一般大衆といえば聞こえがいいですが、それは無論、脚本家たち自身のことです。自分たちの欲望をハリー・キャラハンという主人公に託したのです。

とはいえ、いくらフィクションの登場人物とはいえ、いったん生きた人間として生み出された以上、ハリー・キャラハンはハリー・キャラハンその人として行動しなくてはなりません。

かつて黒沢清監督は「映画作りとは、映画の原理と世界の原理とのせめぎ合いのことだ」と看破しました。ここでいう「映画の原理」とは「強盗は強盗する、人殺しは殺す、恋人は恋をする」という、役柄とその言動が一致する原理、つまりは作者が登場人物にこうさせたいという欲求をそのままさせてしまうことです。

対して世界の原理とは「強盗だってそんなに簡単に強盗するわけではないし、人殺しだって殺してばっかりいるわけではない」という現実の原理のことですね。いくら作者がそうさせたくても、いったん生み出されたキャラクターである以上、作者の欲求よりキャラクターの欲求こそ優先されなければなりません。

『ダーティハリー』の脚本家たちも、そのせめぎ合いに苦しんだのでしょう。ハリー・キャラハンの言動に自分たちの欲望を乗せようとしているなど微塵も感じさせないほどキャラクターが立っているのですが、「あなたはなぜ刑事をやっているの?」と訊かれたとき、そのせめぎ合いが絶頂に達したと思われます。

「わからない」というセリフは、映画の原理が世界の原理に敗北した結果だったのではないか。

ハリーは異常犯罪者を血祭りにしたいという無意識の欲求に無自覚ではないか、と先述しましたが、おそらく彼は自覚的なのです。なぜなら、映画冒頭の市長と相対するシーンで「男が裸で女を追いかけてたら、まさか共同募金じゃないでしょう」とウィットに富んだセリフを言います。自覚しているからこそ言える言葉です。

しかし、だからといって射殺する必要があったのか、というのが世界の原理に属する市長の言い分であり、実際、ハリーの言い分に対して「屁理屈だ」と市長は吐き捨てるように言いますね。

「あなたはなぜ刑事をやっているの?」と訊かれたとき、「刑事なら合法的に悪人を殺せるからね」と本音を冗談っぽく言ったとしても不思議ではありません。それが『ダーティハリー』という映画の原理のはずです。市長相手に屁理屈こねられる人間ならそれぐらい簡単です。なのに「わからない」とあえて答えるのは、「異常者を血祭りにしてやりたい」というハリーの本音は、実は自分たち脚本家チームの本音であるがゆえに、それを隠そうという無意識が働いたからではないか。

あの「わからない」は、ハリー・キャラハンその人の言葉ではなく、脚本家たち自身の声だったんじゃないかと思うのですが、どうでしょうか?


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ダーティハリー(字幕版)
クリント・イーストウッド
2013-11-26



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