いまちょいとした話題になっている森田真生さんという在野の研究者による数学エッセイ『数学する身体』(新潮社)を読みました。

51VLj+AxphL__SX335_BO1,204,203,200_

やはり、話題になってるだけあっていい本ですね。

前半は数学史。それも「身体を介した数学史」というところが本書の独創。

ギリシア数学は、パルメニデス(でしたっけ?)らの「この世に運動などない」という詭弁にあらがって、「直線を引く」とか「コンパスで円を描く」とか、「運動」を前面に出して実際に身体を使った幾何学が主流だったんだとか。そもそも当時のローマ数字は数字を表すことはできても「計算」することにはぜんぜん向いてない。ギリシア数学は頭の中で計算することを端から相手にしていなかったと。

で、イスラムやインドの計算が主流の数学が入ってきて、しかも幾何学と代数を同じ土俵で表現できるようになると、身体を使った作図ではなく、初めて数学は身体を離れて頭の中で計算することが主流となる。

そうした「思考」のはてに、エニグマ暗号を解読したチューリングという数学者の理論が基礎となって思考する機械=コンピュータが発明される。

なるほど。

しかし、ここまではただの前段。これを踏まえたうえでの後半が本書の真骨頂。

身体を離れ、人間の手をも離れた数学にあらがった数学者が日本にいた。

それが、岡潔という人。名前は聞いたことあったけど、著書を読んだことないし、何となく知ってる程度でしたが、この本では岡潔という人の少しも数学者らしくない数学者ぶりがあますところなく描かれていて非常に興味深い。

だって、数学者が「情緒」なんてことを言い出すんですよ。数学者が芭蕉をもち出すんですよ。

そして岡潔の真骨頂は、「数学はゼロから始まる」といったヨーロッパの数学者に対し、「ゼロまでが大切」と当然のように言い放ったこと。

その言葉の著者なりの解釈は、数学を農業に例えると、種子から芽が出て水をやって大きくなって作物ができて・・・という、その最初の種子はゼロである。しかし、種子ができるまでが、つまりゼロに至るまでが本当の過程ではないのか。そこに数学の真骨頂が秘められているのではないか、ということらしい。

うーん、深い。常人には書かれていることは理解できても、「ゼロまでが大切」との言葉からそのような思惟をめぐらすことは至難の業です。禅問答のように「何となくわかった気になる」のは簡単ですがね。

ぜんぜん関係ないですが、「武道の究極の奥義は、微動だにせずして相手の剣先をかわすこと」らしい。でも、意味がわからない。何となくわかった気にはなる。で、私の場合そこで止まったまま。そこで止まらずに思索をつき進めることのできる人が一流と言われる人たちなのでしょう。

森田真生さんという、私よりずっと若いこの本の著者に心から頭を垂れます。

素晴らしい読書体験をどうもありがとうございました。