今朝、ツイッターでやたら不愉快なツイートを見てしまいまして。あまりに厭で反射的にその人へのフォローを切ってしまったほど。ま、つい先日興味本位でフォローした人だから別にかまわない。

それよりも、なぜ反射的とはいえフォローを切ってしまったかを今日一日考えてました。

その人のツイートというのがどういうものだったかというと、

「男子が集まって女のカラダがどうだこうだと下ネタばかり話すのは、『この世にはヘテロセクシャル以外の男もいる』という想像力が欠如しているからだ」

というもので、これ自体まちがった言説だとは思いません。

そりゃ、ホモセクシャルの男からすると女のカラダの話など少しも楽しくないでしょう。それどころか、自分の性的嗜好を隠すために乗って楽しむふりをしなければならないはずで、苦痛以外の何物でもない。私自身はホモセクシャルではないので、そういう人の苦しみ、つらさは頭で理解できるだけです。それについては何も反論ありません。

しかしですね、世の中にはヘテロセクシャルの男以外もいる、と言うならば、世の中には性的嗜好以外で苦しい思い、悲しい思いを強いられている人もいるということになぜ気がつかないのか、と思うわけです。

私が反射的にフォローを切ったのは、そのツイート主が「無自覚の性的嗜好原理主義者」だからなんですね。「この世の人間は性的嗜好だけでできている」みたいな誤った人間観に基づいて発言していることに無自覚なのがものすごく厭だったわけです。そしておそらく無自覚ゆえにその人自身が「正義の味方」を自認している。

こういう手合いは本当に始末が悪い。

ホモセクシャルやバイセクシャル、レズビアンや性同一性障害の人たちだけが差別を受けてるわけでもなければ、苦しみを背負っているわけではありません。

両親がどこの誰かもわからないという人はたくさんいると聞きます。私自身はいまだに両親が健在なのでなかなか想像力をめぐらすことができませんが、自分の両親がどこの誰かもわからないというのは自分のルーツが何もわからないということであって、どっしり地に足をつけて生活できない気がします。でもそういう出自を声高に言う人ってほとんどいないでしょう。だから知らず知らずそういう人の前で両親の話をしてしまうこともあるはずなのです。

私はサッカーが好きですが、「サッカーのせいで大事な人を失った」とサッカーを恨んでいる人だって世の中にはいるでしょう。その人の前で知らず知らずサッカーの話をして傷つけてしまうことは充分ありえることです。

だからといって、それがすべてダメだ、それは差別だ、それは配慮が足りない、と言ってしまったら、もう何も会話なんてできません。

何も言えなくなってしまう覚悟があるなら咎めればよろしい。でも、あのツイート主にはそんな覚悟などあろうはずもなく、それどころか「自分にはまだまだ言い足りないことがある」と言わんばかりの勢いでした。だから切りました。

原理主義というのは恐ろしい。他の物事が見えなくなってしまうから。

「すべては相対的である」

数千年前にそう看破し、「私の言葉でさえ疑いなさい」と弟子たちに教え諭した釈迦は、やはり歴史上最大の偉人だと思います。



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