ラリー・コーエン&クリス・モーガン脚本、デビッド・R・エリス監督による『セルラー』を久しぶりに再見しました。
『セルラー』(2004、アメリカ)
原案:ラリー・コーエン
脚本:クリス・モーガン
監督:デビッド・R・エリス
出演:キム・ベイシンガー、クリス・エバンス、ウィリアム・H・メイシー、ジェイソン・ステイサム
主人公ジェシカ・マーティンは平和な生活を営む教師で、良き妻であり一児の良き母。
そんな彼女の家に暴漢が侵入し、誘拐され、どこかわからない一室に閉じ込められます。備え付けの電話も壊されますが、必死に回路をつないで…
すると、ある若い男、ライアンにつながるのですね。彼は巨乳女とやることしか考えてないチャラ男なんですが、このライアンがジェシカが本当に誘拐されて監禁されていることを知り、彼女を助けるために奔走します。
そして、警官ボブの助けもあって、首領である汚職警官イーサンを殺して一件落着というのが物語のあらまし。何の変哲もないサスペンス・アクションのストーリーですが、これを「神話」として読み解いていくと、いろいろ面白い発見がありました。
この映画では、「二人のヒーロー」がいます。もちろん、若造ライアンと警官ボブです。二人は「ヒーロー」などとは縁もゆかりもない生活を送っています。ライアンは女のことしか頭になく、ボブは職務そっちのけで副業で奥さんとスパを経営することしか頭にありません。どちらも「汚職警官ライアンをやっつける」ことなど映画が始まるまで少しも考えていません。
ここがまずミソですね。ヒーローとしての心の準備ができていない。それどころかそんなのどうでもいいと思っている。そんな二人が会ったこともない人間のために命を懸けてヒーローになっていく物語です。
この二人の英雄が悪を懲らしめるためにもっている「武器」は何でしょうか。
まず、ライアンにとってのそれはジェシカと通じる携帯電話です。これが最後に活躍することは見ずともわかるわけですが、問題はボブの武器である「拳銃」です。拳銃は、悪役イーサンももっています。
しかも二人とも同じ警察官。もとは二人とも正義を下すために拳銃をもったのでした。それがいまやイーサンは悪事のために使っており、ボブはただ腰にぶら下げているだけ。しかし、このボブの拳銃が最終的にすべてを解決します。
主人公ジェシカを恐怖のどん底に陥れたのも拳銃なら、彼女の危機を救うのも拳銃です。しかし、その拳銃が別々の人間のものであるところが少し弱いところでしょうか。
『ロード・オブ・ザ・リング』では、暗黒面に堕ちた者の武器も指輪なら、正義を下す者の武器も同じ指輪でした。ひとつの指輪がどちらの手に入るかでこの世界の命運がかかっていました。『ロード・オブ・ザ・リング』の神話的世界はまことに強固なものだったと言えるでしょう。
しかしながら、この『セルラー』でも似たようなことが言えます。ジェシカを襲うのも警官なら救うのも警官だからです。最初は正義に燃えて警察官を志したはずなのに、暗黒面に堕ちてしまったイーサンと、ぎりぎり正義感を忘れていなかったボブとの対照。『セルラー』もまた『ロード・オブ・ザ・リング』と同じ神話的世界を形作っています。
この頃はまだそれほどメジャーな俳優ではなかったとはいえ、この2年前に『トランスポーター』シリーズでヒーロー役をやっているジェイソン・ステイサムを悪役に配したのは、ヒーローであるボブとは対照的に暗黒面に堕ちてしまったアンチヒーロー(元ヒーロー)として、すでにヒーロー役をやっていたステイサムが必要だったのでしょう。
だから、この映画の最も神話的なところは、過ぎし日には同じ正義感に燃える若者だったボブとイーサンの警察官の関係です。そしてその二人が「脇役でしかない」ところがこの映画のユニークなところです。
この映画の主人公はジェシカです。そしてジェシカが最初に助けを求めるライアンが準主役です。しかしながら、この映画の神話的世界に的を絞ると、彼らはただの脇役にすぎません。ライアンは「英雄ボブと悪の化身イーサンの神話」における援助役にすぎません。ジェシカにいたってはただの被害者です。
この映画では、被害者の「視点」から物語を紡いでいるわけですね。被害者ジェシカから援助役ライアンの登場、そして英雄ボブの登場と神話世界の外から中へ話を進めているのがうまい構成だと思います。
この文章の最初のほうで「ボブがライアンを助ける」みたいなことを書きましたが、神話的世界から見ればまったく逆なのですね。ボブがヒーローとして屹立するための援助をライアンがするわけです(だから「二人のヒーローがいる」と書いたのも実は間違いです。ヒーローはボブただ一人)。映画のプロットとそこに隠された神話の構成は完全に「さかさま」なのです。ヒーローとはまったく違う視点から物語を紡いでいるわけだから当たり前といえば当たり前ですが、とても面白いと思います。
ボブを主人公にしても物語は成り立ちます。しかし、それではあまりに教条的な映画になったことでしょう。
いきなり暴漢に襲われる、被害者が会ったこともない男に電話で助けを求める、その男がさらに助けを求めたやる気のない警官が登場し、暴漢たちが実は彼と同じ警官であることが判明し…
という感じで、小気味いいサスペンス・アクションの物語進行とともに神話的世界観が少しずつあらわになっていき、「真の英雄」が誰かは最後にわかる。
比較神話学の権威ジョーゼフ・キャンベルが見たら大喜びするだろうと思われる「さかさま神話」の傑作だと思います。
『セルラー』(2004、アメリカ)
原案:ラリー・コーエン
脚本:クリス・モーガン
監督:デビッド・R・エリス
出演:キム・ベイシンガー、クリス・エバンス、ウィリアム・H・メイシー、ジェイソン・ステイサム
主人公ジェシカ・マーティンは平和な生活を営む教師で、良き妻であり一児の良き母。
そんな彼女の家に暴漢が侵入し、誘拐され、どこかわからない一室に閉じ込められます。備え付けの電話も壊されますが、必死に回路をつないで…
すると、ある若い男、ライアンにつながるのですね。彼は巨乳女とやることしか考えてないチャラ男なんですが、このライアンがジェシカが本当に誘拐されて監禁されていることを知り、彼女を助けるために奔走します。
そして、警官ボブの助けもあって、首領である汚職警官イーサンを殺して一件落着というのが物語のあらまし。何の変哲もないサスペンス・アクションのストーリーですが、これを「神話」として読み解いていくと、いろいろ面白い発見がありました。
この映画では、「二人のヒーロー」がいます。もちろん、若造ライアンと警官ボブです。二人は「ヒーロー」などとは縁もゆかりもない生活を送っています。ライアンは女のことしか頭になく、ボブは職務そっちのけで副業で奥さんとスパを経営することしか頭にありません。どちらも「汚職警官ライアンをやっつける」ことなど映画が始まるまで少しも考えていません。
ここがまずミソですね。ヒーローとしての心の準備ができていない。それどころかそんなのどうでもいいと思っている。そんな二人が会ったこともない人間のために命を懸けてヒーローになっていく物語です。
この二人の英雄が悪を懲らしめるためにもっている「武器」は何でしょうか。
まず、ライアンにとってのそれはジェシカと通じる携帯電話です。これが最後に活躍することは見ずともわかるわけですが、問題はボブの武器である「拳銃」です。拳銃は、悪役イーサンももっています。
しかも二人とも同じ警察官。もとは二人とも正義を下すために拳銃をもったのでした。それがいまやイーサンは悪事のために使っており、ボブはただ腰にぶら下げているだけ。しかし、このボブの拳銃が最終的にすべてを解決します。
主人公ジェシカを恐怖のどん底に陥れたのも拳銃なら、彼女の危機を救うのも拳銃です。しかし、その拳銃が別々の人間のものであるところが少し弱いところでしょうか。
『ロード・オブ・ザ・リング』では、暗黒面に堕ちた者の武器も指輪なら、正義を下す者の武器も同じ指輪でした。ひとつの指輪がどちらの手に入るかでこの世界の命運がかかっていました。『ロード・オブ・ザ・リング』の神話的世界はまことに強固なものだったと言えるでしょう。
しかしながら、この『セルラー』でも似たようなことが言えます。ジェシカを襲うのも警官なら救うのも警官だからです。最初は正義に燃えて警察官を志したはずなのに、暗黒面に堕ちてしまったイーサンと、ぎりぎり正義感を忘れていなかったボブとの対照。『セルラー』もまた『ロード・オブ・ザ・リング』と同じ神話的世界を形作っています。
この頃はまだそれほどメジャーな俳優ではなかったとはいえ、この2年前に『トランスポーター』シリーズでヒーロー役をやっているジェイソン・ステイサムを悪役に配したのは、ヒーローであるボブとは対照的に暗黒面に堕ちてしまったアンチヒーロー(元ヒーロー)として、すでにヒーロー役をやっていたステイサムが必要だったのでしょう。
だから、この映画の最も神話的なところは、過ぎし日には同じ正義感に燃える若者だったボブとイーサンの警察官の関係です。そしてその二人が「脇役でしかない」ところがこの映画のユニークなところです。
この映画の主人公はジェシカです。そしてジェシカが最初に助けを求めるライアンが準主役です。しかしながら、この映画の神話的世界に的を絞ると、彼らはただの脇役にすぎません。ライアンは「英雄ボブと悪の化身イーサンの神話」における援助役にすぎません。ジェシカにいたってはただの被害者です。
この映画では、被害者の「視点」から物語を紡いでいるわけですね。被害者ジェシカから援助役ライアンの登場、そして英雄ボブの登場と神話世界の外から中へ話を進めているのがうまい構成だと思います。
この文章の最初のほうで「ボブがライアンを助ける」みたいなことを書きましたが、神話的世界から見ればまったく逆なのですね。ボブがヒーローとして屹立するための援助をライアンがするわけです(だから「二人のヒーローがいる」と書いたのも実は間違いです。ヒーローはボブただ一人)。映画のプロットとそこに隠された神話の構成は完全に「さかさま」なのです。ヒーローとはまったく違う視点から物語を紡いでいるわけだから当たり前といえば当たり前ですが、とても面白いと思います。
ボブを主人公にしても物語は成り立ちます。しかし、それではあまりに教条的な映画になったことでしょう。
いきなり暴漢に襲われる、被害者が会ったこともない男に電話で助けを求める、その男がさらに助けを求めたやる気のない警官が登場し、暴漢たちが実は彼と同じ警官であることが判明し…
という感じで、小気味いいサスペンス・アクションの物語進行とともに神話的世界観が少しずつあらわになっていき、「真の英雄」が誰かは最後にわかる。
比較神話学の権威ジョーゼフ・キャンベルが見たら大喜びするだろうと思われる「さかさま神話」の傑作だと思います。
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