久しぶりに山下耕作監督、藤純子主演の『緋牡丹博徒』を見ました。

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2年ほど前に『花札勝負』を見たとき、すごく古く感じられたんですよね。
5年くらい前に違うシリーズの『昭和残侠伝 死んで貰います』を見たときも、面白いんだけど何だか古臭い感が拭えなかったんです。

任侠映画の次に登場した『仁義なき戦い』を嚆矢とする「実録やくざ路線」をたくさん見てきたからか、どうにも義理・人情に訴える任侠ものが古く見えるようになったのかな、と。

思い出すのは、92年の『継承盃』ですね。

あの映画のキャッチコピーは、「いままでのやくざ映画はすべて間違いでした」というもので、これに深作欣二監督が激怒したと伝えられました。

私は、怒るなんて筋違いだと思いましたね。

だって、深作さん自身が任侠映画を否定して世に出てきたわけでしょ? 自分で旧路線を否定しながら、自分が否定されたら怒るなんて都合よすぎると。

映画にかぎらず、どんな世界でも、新しい世代が古い世代を否定して世の中は変革されていくのだから、大家となった自分が否定されるのもまた喜ばしいことなんじゃないかと思ったもんです。(『継承盃』の出来が悪いというのはもちろん別の話)

で、このシリーズの記念すべき第1作も古臭いのかな、と思って見てみたらば…

これが実に面白いんですね。

純粋でまっすぐな想いがあり、その一方で裏切りや策謀など邪な思いがあり、それらが交錯して最後の殴り込みに至る、というほとんどの任侠映画に共通する筋立てですけど、これが本当に面白い。もう何度も見てるのに、それでもやっぱり面白い。

だから、任侠映画が古いのか否か、よくわからないんです。
『花札勝負』や『死んで貰います』が古く感じられたのは、映画そのものの古さであって、任侠の古さではなかったのかな、とも思うんですが、この問題については、『日本侠客伝』とか他のシリーズもきちんと見返さないといけない気がします。



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