先日、当ブログでご紹介した驚異の予言者ババ・ヴァンガさんのことを調べたら、にわかに予言なるものに興味をもちまして。
まぁ、1999年7月が終わるまでは人並み以上に予言には興味をもっていたんですが、ババ・ヴァンガの予言内容を見てみるに相当すごいことを予言してるので、自分の中の「予言熱」が再燃してきたという次第。

で、『予言の日本史』という本を読んでみたんです。あまり面白みのない本だったんですが、この著者は数年前に『葬式は、要らない』という本を出して結構売れたんですよね。私は未読なのであの本の内容に言及することはできませんが、題名については大反対なんです。

昔は「葬式なんていらない」と私も思っていました。自分の葬式もしてほしくないと思っていました。

でも、歳をとるにつれて、それは間違いなんじゃないかと思うようになったんですよね。

葬式は死んだ人のためにあるものじゃなくて、生き残った人のためにあるんじゃないかと。遺された人たちが、死んだ人の死を受け容れるようにするための儀式だと思うんですよ。

結婚式もそうでしょう。儀式を経ることで当人たちが内側から変わることが期待されている。

これは「時間の結界」だと思うんですよね。

ある人の死を境に、それ以前とそれ以後を葬式という儀式で結界を張る。結婚式でもって独身時代と夫婦になった時間の間に結界を張る。入学式、卒業式、成人式、入社式、何でも式と名の付くものはそうだと思います。

むかし、ある落語家のトークショーを聞きに行ったら、落語家が高座に出て扇子を前に置くのは、噺を語る自分と聴くお客さんとの間に結界を張っているんだ、ということを言っていて、なるほどそうなのか、と驚愕したんですよね。

これは「空間の結界」でしょう。

食事のときもそうです。食べ物と自分の間に箸を横に置く。食べる自分と食べられる死んだ生命との間に結界を張っている。そして、「いただきます」の一言によって時間の結界も張る。「ごちそうさまでした」はすべての結界を解消する一言なのでしょう。

「いただきます」って作った人やお金を出した人に対して言うものだと思ってる人が多いみたいですが、間違いじゃないけど、上記のような「結界」という意識をもたずに言っても食べ物のありがたさは一生わからないと思います。

いろいろ生活を振り返ると…

暗くなったらカーテンを閉める、とか、朝起きたらカーテンを開ける、のも空間の結界なのかな、と思ってみたり。

「おはようございます」とか「こんにちは」という挨拶は時間の結界を解消する一言なのかな、と思ってみたり。挨拶する前の「お互いを知らない時間」と挨拶したあとの「顔見知りの時間」の境界に結界を張ってるのではないかと。逆に「さようなら」は結界を張る一言なのかな。よくわかりませんが。

「結界」ということを意識して生活するといろいろ新しいことが見えてくる気がします。