池田理代子さんの『ベルサイユのばら』を26年ぶりに再読しました。

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いやぁ、やはり真の名作は長い長い年月がたっても色褪せないものなんですね。夢中で読み耽ってしまいました。

昔は「なぜ面白いか」なんてことはまったく考えずに読んでましたが、今回、いろいろとわかりましたね。面白さの謎が。

やはりマリー・アントワネットを世間の通念と同じような稀代の悪女として描かなかったことがミソだと思います。

もしマリー・アントワネットをただの悪女として描いたならば、王室の人間が滅ぼされるべき悪で、革命を志す庶民が絶対的な善になってしまい、『水戸黄門』みたいな勧善懲悪ものとして読む者のいっときの清涼剤になっただけだったでしょう。

しかし、池田理代子さんはそうはしなかった。

「パンがないならケーキを食べればいいのに」という言葉がマリー・アントワネットの悪女ぶりを表す象徴的な言葉として伝えられていますが、この『ベルサイユのばら』では、マリー・アントワネットには悪意などなく、庶民の貧しい暮らしを知らなかっただけの本当は純真無垢な女として描かれています。オーストリアの女帝マリア・テレジアの娘として何不自由のない少女時代を過ごし、ルイ16世に嫁いだあともいくら無駄遣いをしても咎める者がいなかった。財政が破綻寸前、民衆の怒りが爆発してから初めて真相を知る哀れな存在として捉えられています。

しかも、マリー・アントワネットの蕩尽生活は、決して彼女自身の欲望を満たすためではなく、横から彼女を通して国王を意のままに動かそうとするポリニャック伯爵夫人や、マリー・アントワネットの名前を騙って超高額の首飾りを詐取するジャンヌという女のせいだというふうにも描かれています。

だから、民衆には「貧しい俺たちから税金を取って贅沢な暮らしをしている。許せない!」という至極まっとうな言い分がありますが、マリー・アントワネットにも「本当に悪いのは私じゃない」という言い分がある。

悪と善のぶつかり合いからは決して生まれない、善と善のどうしようもないすれ違い、誤解。どちらの言い分にも一理あると思えるからこそドラマが激しく燃え立つのです。

本当にマリー・アントワネットがそういう女だったかどうかはわかりません。池田理代子さんにとってマリー・アントワネットとはそういう女性だったのでしょう。(というか、いくら歴史に材を取った物語であっても、物語である以上はフィクションです。その作者にとっての人物・事件なのだから歴史そのものではない。だからフィクションで歴史を学ぶことほど愚かなことはありません)

この作品は、フランス革命を背景にした、どちらにも言い分のある二つの勢力のぶつかり合いを描いたものです。その二つの勢力の狭間で揺れ動き、どちらの言い分にも加担してしまうのが主人公のオスカルです。だからこそ我々読者はオスカルに感情移入しまくりで読んでしまい、彼女の喜怒哀楽をまるで我が事のように感じてしまう。

見事すぎるほどの大傑作と言うほかありませんね。