今日の「週刊リテラシー」の半蔵門世論調査は、

「同性婚についてどう思うか。①論議するべきだ②論議しなくてよい③わからない」

というものでした。

鈴木奈々さんをはじめ、ほとんどの人が①で、上杉さんだけが「リテラシー的には反対の意見も必要でしょう」ということで敢えて②の意見を述べていましたが、まぁ本音は①でしょう。

私も①なんですよ。でもそれは鈴木奈々さんみたいに「①じゃない人の意見がわからない。絶対①!!!」というものではなく、ほんとは②なんだけど、結局①になるのかなぁ、というものなんですよね。

私はヘテロセクシャルなので、ゲイやレズビアンの人たちの同性を欲する気持ちはまったくわかりません。でも、実際にそういう人たちがたくさんいるのだから、認めて何が悪いの? とも思うんですけど、もっと根本的なところから②なんですよね。


結婚とは何ぞや

まず、同性婚云々の前に「結婚」とは何ぞや的なところから考えるべきでしょう。

結婚とはお役所に婚姻届を出して、「私たち二人を法律上の夫婦として認めてもらう」ことですよね。

ここからしてもうおかしいと思います。おかしいというか「まやかし」というか。「法律上の」というところがね。


結婚した二人は同性だろうと異性だろうと「法律上の夫婦」になるだけ。もちろん、生まれた子どもや養子としてもらった子どもも「法律上の親子」になるだけ。

異性の結婚なら法律上の親子じゃなくて生物学的にちゃんとした親子じゃないか、という声が聞こえてきそうですが、生物学的に親子であっても父親が認知しなかったら法律上は親子じゃないわけですよね? 番組内でも言っていました。「同性婚が法的に認められなかったら、子どもが片方の親とは親子だけど、もう一人とは何の関係でもなくなってしまう。だから法整備をしないといけない」と。

ここが同性婚問題の肝だと思います。

結局、同性婚論議というのは、生物学的な親子ではなく、あくまでも擬制としての「法律上の親子」「法律上の夫婦」として認めるべきか否か、ということなわけです。

それなら論議なんて最初からすっ飛ばして認めればいいんですよ。普通の男女の結婚だって法的擬制にすぎないんだから。


法律はフィクション

人間が考え出した制度はほとんどが「擬制=フィクション」です。そして、血がつながっているという「現実」よりも法的に親族かどうかの「フィクション」のほうが大事になってしまっているわけです。本当の親子なのに認知してなければ遺産も相続させられないとかいろいろな問題が出てきてしまう。

よく「結婚なんて紙切れ一枚のこと」と言いますけど、まったくそのとおり。

いくら夫婦が心から愛し合い、その結果として子どもが産まれ、みんなで何十年も仲睦まじく暮らしたとしても、紙切れを提出してないというただそれだけで何だかんだとさまざまな問題が噴出するんですよね。それは人間社会が現実よりもフィクションを大事にしているからです。


神というフィクション

と、ここまできて、初めて宗教的な理由で同性婚に反対する人たちが多数いる理由がわかったような気がします。

宗教的に同性婚に反対する人たちは、この人間社会が擬制=フィクションで成り立っていることの露顕を本能的に恐れているんじゃないでしょうか。

だって、「神」こそは人間が生み出した最大のフィクションですから。

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