2019年07月22日

いま『京大変人講座』という本を読んでいます。


51TXDuO9g2L._SX346_BO1,204,203,200_

全6章のうち半分しか読んでないんですが、第2章の「なぜ鮨屋のおやじは怒っているのか」が異常に面白かったのでご紹介いたします。

著者は、サービス経営学専攻の山内裕准教授。ドキュメンタリー映画『次郎は鮨の夢を見る』で主役としてカメラに収められた鮨屋の親父が少しもサービスらしいことをしていないのに、いやむしろ不機嫌で恐いのになぜか客は満足する。少しも客が減らない。なぜだろう、と思ったのが研究のはじまりとか。

ちょっと前に東京オリンピックが決まる決定打になった「おもてなし」という言葉。あれがサービスのことだと思われてますよね。いまウィキペディアで「おもてなし」を調べてみると、こんなふうに書いてあります。

「おもてなしとは心のこもった待遇のこと。顧客に対して心を込めて歓待や接待やサービスをすることを言う。「もてなし」に「お」をつけて丁寧にした言い方である。自ら考える教育を受けている外国人観光客からはただのおせっかいと思われることがほとんどである」

なるほど、山内准教授が書いていることの精髄がここにほとんど出ていますね。

ただ、なぜ「外国人観光客からはただのおせっかいになる」のか。いや、山内さんが言っているのはそれよりもっと踏み込んで「日本人同士であっても心を込めたおもてなしをされると少しもおもてなしをされた気にならない」という逆説なのです。


客を手取り足取りもてなしてはいけない
1510056247075

くだんの鮨屋でも、店に入ると、親父はメニューも見せずに(そもそもメニューなるものが存在しない店なんですが)「飲み物はどうしましょうか」と訊き、飲み物が出ると「何かお切りしますか」とだけ訊く。鮨は白身から、という作法があるのを知っているという前提で「何か切りますか」とだけ訊く。ちょっと意地が悪い。しかし、上のウィキペディアの説明にもあるように「自分で考える習慣が身についていない人」つまり多くの日本人はこういう接客態度を不愉快に感じるそうです。「何かお切りしますか」という訊き方には「自分の頭で考えろ」というメッセージが隠されていますから。

山内さんは、スタバの「ショート」「トール」「グランデ」という独特でよくわからないサイズの言い方や、イタリアンレストランのピザやパスタの、どんな料理かまったくわからない料理名に話を移し、このわからなさこそ客の心に「もてなされている」という気分を作り上げると言います。

通常考えられる「提供者側が客を満足させるために、あの手この手でもてなす。それがサービス」というのは実は逆で、そういうサービスをすると逆に客は満足しないという逆説が起こる、と。

その理路は?


奴隷のサービス
20171210090115

日本のお店はどこでもそうですが、常に笑顔でお客様のために手取り足取りおもてなしさせていただきます! という空気で充満していますが、そんなことをしてしまうと「上下関係」が生じてしまう、と山内さんは言います。提供者側が奴隷になり、客は主人となる。同時に、主人である客はつまらなく感じる。奴隷に承認されたりサービスを提供されても、そんなものは上位に位置する自分には価値がないから。

「提供者側が客を満足させようとサービスすると、その満足は客にとって意味がなくなってしまう」

だから、高級鮨屋の親父も、高級イタリアンやスタバも「私たちのサービスはあなたたちには意味がわからないくらいすごいのだ」というメッセージを発している。それで価値が上がるとか。

山内さんによると「客自身がどう振る舞い、どういう客になろうと努めるか、という要素がサービスにおいてはとても重要だ」ということになるそうです。

このあと、高級店であればあるほどサービスが減るとか、おもてなしを意味する英語「ホスピタリティ」はラテン語の「敵意ある見知らぬ者に対して力をもつ」という意味の言葉が語源で、文化人類学的にはこれは当たり前のことだとかが語られるんですが、興味のある方は本を読んでください。私の興味は以下に。


お客様は神様ではない
a1368a5e

私が思ったのは、「お客様は神様です」という言葉がいまだに大手を振っているこの国の本当の現状について。

よくクレーマーが言うのは「客は神様なんだからもっとサービスしろよ」という言葉。これに対して「お客様は神様です」というのは提供者側がいう言葉であって、サービスを受ける側が言ってはいけないとよく言われます。

これは自分で自分のことを神様だなんておこがましい、みたいな意味で言われますけど、本当は違うことがわかりました。

クレーマーは自分でサービスの質を落としているんですね。

だってそうでしょう。自分の口から「おまえは奴隷である。奴隷らしくサービスせよ」と言って、価値が低く感じられるサービスを自分から求めているのですから。

だけど日本の店はどこでも「お客さんには何を言われても丁重に」という教育がなされているから、クレーマーが求める以上の奴隷になり下がる。クレーマーはますます居丈高になり、ますます価値の低い奴隷になれと要求する、という悪循環が起こっている。

「お客様は神様です」と客が言ってはいけないというのは、決して倫理的な意味ではなく、純粋にもっと価値の高いサービスを受けるために言ってはいけないのです。

そして、提供者側も奴隷根性を捨て去らねばならない。鮨屋の親父やスタバのように「意味がわからない言葉」を発するなどして、自分たちのサービスの価値を低めてはいけないのだ、と思います。

そんなことしたらもっと怒ってしまう?

そうかな。そりゃま店側に問題があるなら丁重に謝罪すべきでしょうが、理不尽なことをしつこく言う客には意見していいと思いますがね。あまりに奴隷根性が沁みつきすぎ。外国人観光客には日本のおもてなしが不評というのもうなずけます。

『王様のレストラン』の千石さんのように、店員をおまえ呼ばわりする客には毅然と、

「私はかつて先輩からこう教わりました。お客様は王様であると。しかし先輩はこうも言いました。王様の中には首をはねられた奴も大勢いる。またのご来店のないことを心よりお祈りしております」

提供者側が上に立てばいいのです。くだらない客を追い返せば、そのほうが店の質は上がる。

おそらく、日本のほとんどの店がこういう「努力」を怠っているのです。下位から上位に這い上がるより、下位に甘んじているほうが楽ですから。

自分たちは客の理不尽な物言いに耐えている、ああ何て健気な……という甘美な物語に溺れてしまっている。

オリンピックまであとちょうど1年。いい機会です。奴隷根性を捨て去りましょうぞ!






  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2019年07月20日

昔懐かしい『妖怪人間ベム』。10年前の再放送以来の再見です。

第1話「恐怖の貨物列車」はまだ軽いジャブ程度でしたが、この第2話でもう核心部分へ切り込んでいくんですね。何度も見てるのにあまり憶えてない私。何しろ幼い頃は毎週泣きじゃくりながら見てたので、いまも恐怖に耐えるので精いっぱいなのかも。


t02200165_0720054011488263229

さて、この「階段を這う手首」の骨子は、継母が継子を殺し財産を独り占めしようとするのをベムたちが防ぐ、というものです。

雨宿りした廃屋に殺し屋たちが偶然入ってきてその企みを知るんですが、ここでこの『妖怪人間ベム』を貫く重要な主題について語られます。


ベラ「あー、早く人間になりたいよ」
ベム「ベラ、焦るな。俺たちはいつかきっと人間になれる」
ベラ「あたしゃもう待ちくたびれたんだよ」
ベム「その日が来るのを信じるんだ」



このアニメではオープニングで「早く人間になりたい!」という有名なフレーズがありますし、ベムが上のようなことをこの回だけでなく再三再四言うので、

「妖怪人間として生まれた三人が人間として生まれ変わることを願って世直しをする物語」

というのは誰の目にも明らかです。そして、妖怪人間のほうがよっぽど真人間であり、人間のほうが妖怪や悪魔のような悪い心をもっている、という逆説も。

ただ、子どもの頃からずっと不思議なのです。ベムはなぜ「悪い人間を懲らしめ、善い人間を助ければ人間になれる」と思っているのか。最終回がどういうものかを知っている者としては「早く人間になりたい」「いつか人間になれる」という言葉はとても悲痛なものです。でも、その根拠はいったいどこに?


spd-dcb6b798746268a69df1c4b2acf12321

上記のベラとのやりとりでも「信じるんだ」と言っている。だから誰かから聞いたわけではない。確証は何もない。はっきり言って思い込みです。

最初、殺し屋たちを成敗しようと三人は合意しますが、ベラだけ合点がいかなかったようです。

「あいつらをやっつけるのが、あたしらの目的とどう関わってくるのかねぇ」

ベラはベムの思い込みに否定的です。いい行いをするかしないかなんて、あたしたちが人間になれるかどうかとは関係ないわよ、と。

何だかんだの末にベラが継母の悪事を防ぎ、気を失わせます。ベラはとどめを刺すべきだと主張しますが、ベムが止めます。悪を根絶するのではなく、悪を善に戻すことが俺たちの役割であり、その役割をまっとうしてこそ人間になれるのだ、と言います。継母に殺されかけた子どもは彼女を本当の母親だと思っており、彼女を傷つけたベロに「嫌いだ!」といいます。

仲良くなった男の子に嫌われるベロという、このあとお約束のようになる結末ですが、このときベムが大事なことを言います。

「おまえのやったことはいいことだ。たとえあの子にどう思われようと、おまえのやったことはいいことなんだ」

お天道様はみていてくれる、というやつですね。

ベムが「神」という存在を想定していることが明らかになりました。「全知全能で造物主である神は俺たちの行いを見て必ず人間にしてくれる」

ベムの「いつかきっと人間になれる日が来る」というのは、だから「宗教」ですね。

t02200183_0800066611488711622

逆に、とどめを刺しちまいなよ、と言ったベラにベムは平手打ちを食らわせるんですが、そのあとくだんの男の子がベロに嫌いだと言うので高笑いします。しょせん人間なんてそんなもんよ、と。ベラは神などいないと主張する無神論者のようです。

しかし、冒頭にも紹介したように、この第2話で真っ先に「早く人間になりたい」と言うのはベラなのです。

ここに、登場人物たちの願いとは別に、作者たちの思想が表れている気がします。

私はかねてから「無神論者なんかいない」と思っています。「神なんか信じてない」という人間にかぎって困ったことがあると決まって神頼みするのをたくさん見てきましたから。

『妖怪人間ベム』の作者たちも同じ思いだったのではないでしょうか。

有神論者ベムと無神論者ベラの対立葛藤を礎にドラマが組まれていますが、ベラも心のどこかで神を信じている。

いや、「信じなきゃやってられない」という気持ちなんでしょう。妖怪人間という異形として生まれてきた者どもの哀しみに彩られた全26話の大河ドラマ。

続きも存分に楽しみたいと思います。







  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2019年07月19日

京都アニメーションのスタジオが放火されて、33人もの方が亡くなってしまった事件。痛ましすぎるし、私も京アニ作品のファンなので何ともやりきれない。犯人はまだはっきりしませんが、もともと110番されるような人間らしく、悪意と被害妄想がないまぜになってやってしまったのでしょう。万死に値しますね。

日本だけでなく世界中にファンが多いから、お悔やみの声が届くだけでなく、募金活動もされているとか。友人が東京のアニメ製作会社で働いているんですが、劣悪な労働環境で知られるアニメ業界では珍しく「京アニは職場環境がとてもいい」と言っていました。

職場環境としても申し分ないし、作っている作品も良質なものばかり。何でそんな会社やそこで働いている人たちが狂人の標的にされないといけないのか! 

と激怒するのがごく普通の感覚だと思うんですが、それに水を差すツイートを見ました。



うん、確かにその通り。でも私はこういう非の打ちどころのない正論というか、政治的に正しい意見というやつが大嫌いでして。相田みつをと同じ匂いを感じてしまいます。

自分が大好きな作品を作っている人たちが大勢殺された。それについて「何であんな素敵な作品を作る人たちが……」という気持ちが芽生えるのってごく普通だと思うんですよ。事件が起きたばかりのときにそこに水を差すのってどうなんだろう、と。


160407_newborn-smile4

こんなかわいい赤ちゃんを殺す親が後を絶ちませんが、ニュースを見るたびに「こんな何の罪もない赤ちゃんを殺すなんて」って思いますよね。

でも、「無辜の赤ん坊も平凡な大人もどちらの命も奪われてはいけない」なんて言う人いません。無辜の赤ん坊より平凡な大人のほうが生産性とやらが高いからでしょう。何の役にも立ってない無辜の赤ん坊を、少しは社会に貢献している平凡な大人と同列に扱うのは政治的に正しくないからなのでしょう。京アニの事件とは真逆のケースですね。

逆に……


maxresdefault

これら多数の被害者を出した悪人たちが死刑に処せられても「彼らだって同じ人間なのだから同じ命」とは誰も言いませんよね。こちらは政治的に正しいのに、なぜ?

反論の余地があるからです。あんな悪人と無辜の人間を同じにするな! などと反駁される。ひどければ炎上でしょう。

そうです。私が非の打ちどころのない正論が嫌いなのは、絶対に反論される可能性がない安全地帯から発言しているからです。

意図的に計算しているとは思いません。無意識の計算でしょう。でも無意識だからこそよけいタチが悪い。

いまは「素敵な作品を作る人たちを大勢殺すなんて絶対許せない!」と叫んでいいし、叫ぶべきです。





  • このエントリーをはてなブックマークに追加