聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

『丑三つの村』(本当の愛国心とは何か)

おととい、私になりすました怪ツイート事件なるものが発生しました。フォロワーさんに不快なツイートを送ってすぐ消えたそうです。

事情はだいたいわかります。先週こんな記事を書きました。⇒『映画秘宝』創刊者・町山智浩の問題発言について 
おそらく、この記事に反感をもった人の犯行でしょう。他に反感を抱かれるような記事は書いてないし。犯人は町山智浩を批判するなんて許せない、と思ったのでしょうが、私がかねてから町山本を愛読している人間だということを知らないらしい。過去記事か過去ツイートを遡って確かめてほしいもんです。

それはともかく、ずっと前から思っていることですけど、誰かを批判するとその人のことが嫌いだと思う人が世の大半を占めていることは絶対におかしい。「嫌いだから批判する」と思っている。

そんなバカな。「好きだから批判する」んですよ!


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『丑三つの村』と何の関係もないこんな話から始めたのは、この映画が「本当の愛国心とは何か」をテーマとしているからです。


反日=愛国
ドキュメンタリー作家の松江哲明監督が、『靖国』が国会議員の検閲を受けた問題が起こったとき、「もっと反日映画が作られるべきだ」とコメントしていてオオオオと感動したものです。なぜなら、「もっと反日映画を」という言葉こそ真の愛国心の顕れですから。

日本が好きだからこそ、この国のダメなところを挙げて批判をする。それこそが「この国をよりよくしていこう」というムーブメントを起こせる。松江監督の発言にはそういう思いがあったはずです。


「ストーリーフォーカス」と「大きな物語」
『クリエイティヴ脚本術』という本には、焦点が当てられた物語(ストーリーフォーカス)がその背景にある「大きな物語」と密接なかかわりをもたないかぎりその物語は力をもちえない、ということが説かれています。




『丑三つの村』のストーリーフォーカスはもちろん「津山三十人殺し」ですが、背景にある大きな物語はというと、「大日本帝国の物語」ということになります。

古尾谷雅人演じる主人公は、秀才で陸軍師範学校に入るための勉強に明け暮れ、いずれは帝国軍人としてお国のために戦いたいと切望していますが、肺結核と診断され夢は途絶えます。それを根っことして村人を皆殺しにする事件が起きるわけですが、いままで私はこの映画を見て主人公の「戦争」ということをあまり考えていませんでした。ラストの大殺戮シーンがやたら凄惨なうえに感動的なのでね。呆気にとられていたというか。


しかし今回見直してみて初めて気づきました。彼は外敵と戦えなくなった結果、内なる敵と戦争するのですね。あの村が大日本帝国の縮図であることは明らかです。

お国のために産めよ殖やせよじゃ! と叫ぶ絵沢萌子や、お国のために働けんようになったくせにと主人公を傷つける大場久美子らは、二言目には「お国のため」と言いますが、あれは嘘ですよね。みんなそう言ってるしそう言っておけば安全だという自己保身でしょう。最後に殺される池波志乃が、夫の軍服(大日本帝国の象徴)を主人公に向かって投げ捨てながら逃げるシーンがすべてを物語っています。

「美しい国へ」とか「愛国心を」などと言っていた安倍某が実は私腹を肥やすことしか考えていなかったことと相似形をなしています。「村のため」と言いながら人殺しを指揮している夏八木勲が、官僚に公文書改竄を指示した誰かさんにしか見えませんでした。


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彼らは愛国心を利用しているだけ。本当に国のために戦いたかった古尾谷雅人は、ニセ愛国者の彼らを殲滅することが自分の使命だと行動に打って出ます。

ストーリーフォーカスの次元では「個人的な怨念」で行動を起こす主人公ですが、大きな物語の次元では「世直し」なのですね。そしてその世直しのために主人公は「鬼」になることを決意します。


お婆やん殺害
これまでは、主人公の絶対的な庇護者であったお婆やんを殺すのは、劇中で語られる通り「惨劇を起こしたことで悲しませたくないからだ」と思っていました。確かにストーリーフォーカスの次元ではそうでしょう。しかし大きな物語の次元では「鬼」になるためだと初めて知りました。

まだ太平洋戦争が起こる前ですから「鬼畜米英」という言葉はなかったかもしれませんが、外敵を「鬼」と称する精神構造はおそらくあったはずです。主人公は内部の敵をやっつける「鬼」だと自らを規定しました。田中美佐子に「鬼!」となじられた彼は「鬼で何が悪い!」と返しますが、あれは開き直りではないと思います。その証拠にすべての殺戮を終えてもう一度田中美佐子の元に戻ってきた主人公は「鬼が鬼退治しただけじゃ」と呟いて去っていきます。

「鬼」と「神」
それはともかく、ちょっと他の人と違うだけで非国民として主人公を排斥する村人たちは、いまのネット右翼と完全に重なります。公文書偽造が明らかになりネット右翼は鳴りを潜めているらしいですが、権力者が国家の土台を崩そうとしているのだから本当に国を愛しているのなら批判するべきなのです。いま政府を批判する人こそ愛国者であり、批判しない人は愛国者の仮面をかぶった売国奴です。

だから、「鬼が鬼退治しただけじゃ」の前者の「鬼」と後者の「鬼」は意味が違います。「夜叉」という言葉も出てきますが、後者の「鬼」は前者のような本当の鬼を殲滅する「神」のようなものでしょう。

どの宗教でも「神」は鬼のように恐ろしい存在です。でも基本的に「愛」に溢れている。ラスト20分の陰惨きわまりない殺戮シーンがあんなにも感動的なのは、「村のため」ひいては「お国のため」という「本当の愛」に溢れているからだと思います。

完全に蛇足ですが、朝日新聞のスクープ記事が出た時点では政府を擁護していた人たちが、財務省が事実と認めた途端、素早く手の平を返している姿は、大日本帝国バンザイから民主主義バンザイへ手の平返しをした当時のニセ愛国者たちとまったく同じではないでしょうか?


私は震災を知らない神戸っ子(永久に遠ざかっていく電車)

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今日で東日本大震災でちょうど7年とのことですが、私には何も言えません。阪神大震災のとき、というか震災から1年たった頃、震災をテーマにした脚本を書いたところ東京に住む友人から「阪神大震災ネタはもう古い」と言われたことを生涯呪ってやると思っているし、同じ頃、東京人と思しき人たちが仮設住宅を見て「まだ仮設ってあるんですね」と言ったことも一生忘れないつもり。
だから、「よその人間」が何かを言って当事者の神経を逆なでしてはいけないと思うから3.11については何も言いません。

とはいえ、阪神大震災についても何も言えないのです。あのとき私は朝まで寝ていたのでね。卒業制作の仕上げで忙しく、しかもダビング作業(最終的な音のミックス)の責任者だったので神経がすり減っていたのでした。

神戸の中心地が震度7だったのに対し、そのとき住んでいた京都は震度5だったとはいえ、泊まっていた友人が箪笥を押さえていてくれなかったら頭を強く打って死んでいたかもしれず、それでなくとも電車と代替バスを乗り継いで実家に帰るときまるで戦争ですべて燃えてしまったかのような故郷の街並みを見るとどうにも罪悪感がこみ上げてくるのでした。

よくサバイバーズ・ギルトっていいますよね。生き残った者の罪悪感。私の場合は、スリーパーズ・ギルトですね。あのものすごい揺れそのものを体感していないということが何というか、「乗るべき電車に乗り遅れた」と思わせるのです。

だから「震災」という言葉を聞くのがいやです。罪悪感に駆られるから。乗り遅れた電車がまた来てくれたらいいのだけど、もう永遠にやってこない。

だからなのか、それとも7年と23年という歳月の違いなのか、3月11日は憶えていても1月17日はほとんど忘れています。テレビなどを見て「あ」と思う程度。たぶん思い出したくないのでしょう。みんなが「あの揺れはすごかった」「もう死んだかと思った」と話しているのをただ黙って聞くしかなかったあの頃を思い出してしまうから。自分だけが蚊帳の外に置かれたような、かといって誰が悪いわけでもなく、ただ巡り合わせでそうなっただけなのに、周りは血ヘドを吐いているのに自分だけうまいものを食っているような、あの何とも言えない感じ。もう一回地震が起こって被害に遭えばこの罪悪感から逃れられるのではないか、とも思ったけれど、実際に起こるのはいやに決まっている。偽善者。

その昔、『戦争を知らない子供たち』という歌がはやったけれど、私はさしずめ「震災を知らない神戸っ子」です。

いまでも乗り遅れた電車の背中が見える。見えなくなればいいのにと思う。でも、おそらく一生見えたままなのでしょう。

永久に遠ざかっていく電車

『ガチ☆ボーイ』(佐藤隆太が泣かせる!)

BSプレミアムドラマの『弟の夫』があまりに素晴らしく、特に佐藤隆太の芝居が素敵すぎるので、10年前のこの作品を再見したくなりました。


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主人公は記憶障害で、眠るとその日一日の記憶を失ってしまう。でもそれ以外の記憶はすべて憶えている。というかなりご都合主義の設定ですが、見ているうちにそんなことは忘れてしまいます。何しろ「頭は忘れても体が憶えている」というのがテーマだし。

大学在学中に司法試験に合格した秀才で将来を嘱望されていたのに、いまは実家の銭湯を手伝うくらいしか生きていく道がない。父親の泉谷しげるは息子の自慢話に明け暮れていたのにそれももう叶わない。妹の仲里依紗は兄貴想いのいい子だけれど兄の苦悩をはたで見守るしかない。

サエコ演じるマドンナ的なマネージャーに佐藤隆太は恋をするんですが、相思相愛かと思いきや彼女は向井理演じる部長が好きで失恋してしまう。ただ失恋するだけでなく、告白するのが4回目で振られるのが2回目だと知った主人公の号泣を見て、「脳に障害があるのにプロレスって…」という疑問が吹き飛んでしまうのです。というか、一緒に号泣するほかないのです。

とにかくこの映画は力強い。それは佐藤隆太という役者だけが出せる力なのだろうと思います。この映画の6年前、『木更津キャッツアイ』で初めて見たとき、正直言っていまのような素敵な役者になるとは夢にも思っていませんでした。そのうち消えるのだろう、ぐらいにしか。

それがいまや、『ウチの夫は仕事ができない』の懐の深い上司役とか、『弟の夫』のシングルファーザー役とか、佐藤隆太にしか出せない味を出せる役者に成長しました。軽く見ていた不明を恥じます。

テレビドラマ的な作りに対して、

「映画的じゃない」
「ただの浪花節」

みたいな批判もありそうですが、私は大好きです。ご都合主義も含めて、ここまで熱いドラマを展開されては、あばたもえくぼです。

すべての映画が映画的じゃないといけないの? 映画で浪花節を歌っちゃいけないの?

同じプロレスを題材にしているからじゃないですが、あの『カリフォルニア・ドールス』のよう、と言ってしまっては褒めすぎですかね。

でもまぁ未見の方は騙されたと思ってご覧になってくださいませ。

ラスト30分、「映画の奇跡」があなたに襲いかかります!!!



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