聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

『運び屋』(失われた脚本を読む力)

我が永遠のアイドル、クリント・イーストウッド6年ぶりの主演作品『運び屋』を見てきました。公開2日目の土曜日の日中、しかも今日は結構あたたかい。花粉症の人は外に出づらいかもしれないが(私も今日は今季一番ひどい症状)それにしても空席が目立っていたのはとても淋しい。


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実在した高齢の麻薬の運び屋を霊感源として、イーストウッドの実人生と重なる部分も少なくないこの映画、私は少しも面白くありませんでした。

最も敬愛する人だからこそイーストウッド作品はできるだけ批判的な目で見ることにしていますが、ごく普通に見てもこの映画はつまらない。どうせ世間は絶賛一色だろうと思って検索したらやっぱり! ここは「世界一のイーストウッド・ファン」を自認する私が文句を言わねばならないという使命感から筆を執りました。


第1幕の流れが不自然
冒頭、「2005年」というテロップが出て、娘の結婚式に出ず、農園で育てた花のコンテスト会場に行っていた主人公。このあとすぐ「2017年」になります。2005年のシークエンスはほんの5分ほど。娘が12年も口を利いてくれない理由を示したかったのかもしれませんが、オフで充分でしょう。なぜたったあれだけのシーンをオンで描く必要があるのか理解できません。

近代劇の祖、ノルウェーの劇作家イプセンは「それまでの演劇の第5幕から始めた」と言われています。『人形の家』『ヘッダー・ガーブラー』『ロスメルスホルム』などなど、すべてそうなっています。第4幕までの情報を第5幕の中(のセリフ)にぶちこんで、どこを切っても煮えたぎる血が流れ出すドラマ形式が確立されたのは19世紀のことです。

『運び屋』は21世紀の映画なのに。。。

2017年の「ネット花屋のせいで」農園が閉鎖に追い込まれたところから始めたほうがよかったと思います。2005年の娘や妻とのいざこざ、孫娘は主人公を好いていること、そういった情報は孫娘の結婚式を訪ねたときに娘の態度や妻のセリフなどで匂わせればOK。

しかし第1幕にはもっと大きな問題が……

ある男から「車の運転さえできれば可能な仕事がある」と紹介されたところへ行くと、ショットガンをもった男たちが出迎える。主人公が車を止めたときの小さい窓から大きな目だけが覗くカットは素晴らしかった。何とも言えない不気味な肌触りがあって。でもすぐに首をかしげざるをえなくなります。

いきなりショットガンをもった男が出迎えたら気後れするでしょう。いくら朝鮮戦争を経験しているとはいえ退役したあとは農園をやっていただけの普通の老人なのだから。

これを運んでくれと鞄をトランクに積みこまれても、何が入っているのかを訊かないのもおかしいですよね? 「1回目」「2回目」そして「3回目」で初めて麻薬を運ばされていると知りますが、そこからいきなり「5回目」に飛ぶのもおかしいでしょう。なぜメキシコ人たちを問い詰めないのか。金になるからということ? それならそれでそういうシーンを入れないと。


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初めて大金を得るシーンはもっと後でした。

どうもこの映画は主人公のリアクションが変です。

車さえ運転できれば可能な仕事がある。やばそうだ。でも金がほしい。行ってみるとショットガンをもった男たち。やっぱり。俺は何を運ばされているのか。麻薬だった。やばい。もうやめよう。というか、おまえら何で俺にこんな真似をさせる。でも大金をくれた。またやろう。久しぶりに女も抱けた。こりゃいい。

というのがごく普通の流れだと思うんですが、「やばそうだ。でも金がほしい」とか「やっぱり」とか「やばい。もうやめよう」というような当たり前のリアクション=感情が描かれないからぜんぜん乗れないのです。


メインプロットとサブプロット
宣伝文句には「ごく普通の老人が麻薬の運び屋をやることを通じて家族への贖罪をする物語」みたいなことが書かれてましたが、「麻薬の運び屋をやることを通じて」というところが何もないじゃないですか。運び屋をやることと家族への贖罪が別個にしか描かれていない。メインプロットとサブプロットが何ら有機的に結びついていないのです。

ブラッドリー・クーパーとのやりとりに感動した人もいるようですが、確かにいいシーンではあるものの、1回だけの遭遇というのはどうなんでしょう? もっと何度もレストランでコーヒー飲みながらいろいろ説教じみたことを言う(ちなみに私はイーストウッドがコーヒーすする顔を斜め45度から捉えたショットが何よりも好き!)。そのときに彼こそ運び屋だとわかることを口走ってしまうのに、クーパーは彼が白人だからまったく気づかない。ということにすれば、人種問題ももっと色濃く出せたように思います。ビリングで1番目の役者と2番目の役者が遭遇するのが逮捕のシーンを含めて2回だけというのはもったいなすぎます。

もっといえば、娘と疎遠になるんじゃなくて「息子」と疎遠になるべきではなかったでしょうか。ブラッドリー・クーパーを息子に見立てて説教じみたことを言ったり、逆に喋っているうちに許してほしい気持ちが募ってしまい、何の関係もないクーパーに謝ってしまうとか。

そういう描写があれば、法廷で家族と抱き合う主人公を見つめるクーパーの胸にいろいろなことが迫ってきたはずです。それはつまり観客の心にいろいろな感情が生まれるということ。でも実際の映画はぜんぜんそうなっていない。

去年の『15時17分、パリ行き』の感想で「イーストウッドは肝心要のシナリオを読む力がなくなっているんじゃないか」と書きましたが、やはりあれは間違いではなかった。こんな不出来な脚本で行けると踏んだイーストウッドはやはり「老いた」のでしょうか。

それとも、彼は監督である前にまず「俳優」だから、「またカメラの前に立つことができる」という歓びが目を霞ませてしまったのでしょうか。

いずれにしろ残念です。今年でもう89歳。まだまだ撮り続けるはずですが、最低『ハドソン川の奇跡』ぐらいのものは見せてほしいというのが正直な気持ちです。


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中学時代のH君を思い出す 第26節 レアル0-1バルサ

コパ準決勝クラシコに完敗して敗退に追い込まれましたから、負ける可能性のほうがずっと大きいと思ってたし、12ポイント差で優勝は絶望的とか書かれてますけど、もともと9ポイント差もあったわけだから勝っても6ポイント差。難しいことには変わりがない。
ただクラシコは優勝争いとかそういうことに関係なく勝たねばならない試合なわけですが、今日は「何とかして1点もぎ取ろう」というガッツを随所で見せてくれたのでほとんど不満はありません。バルサもだいぶコンディションが悪かったのか、何でもないボールをトラップミスしたり(メッシですら!)少しもバルサらしくない。ラキティッチに裏を取られたあの場面だけが悔やまれますが、選手たちは最後まで闘志を見せてくれたので何も言うことはありません。


なぜベイルを使ったの?
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中学時代、サッカー部にH君という人がいまして、才能豊かなのに2年の冬くらいからまったく練習に来なくなりました。で、試合前になると突然練習に来て、試合に出してもらってました。そんな奴をなぜ試合に出すのかとみんな不満を言っていました。3年の総体のときは今日が試合だと知ったH君は慌てて家に帰ってユニフォームをもってきました。顧問の先生は何と試合直前の練習にすら顔を見せなかったH君を先発させました。しかし我々ベンチ組の予想通り、いくらH君が声を出しても彼にボールを出すチームメイトはいませんでした。

ベイルも同じだったんじゃないでしょうか。
スペイン語が話せない、だから食事会にも来ない、ゴールを祝おうとした同僚の手を邪険に振り払った、などなどの理由で完全にチームから浮いている。そんな選手を使ってもH君と同じで活躍できないのは自明の理。

前半、ヴィニシウスが左サイドをえぐったとき、ベイルがゴール前にいました。パスを出せばゴールだったかもしれないのにヴィニシウスはかなりマイナス方向にいたベンゼマにパスしました。あのときはヴィニシウスはゴール前で周りが見えてないからかな、ぐらいにしか思ってませんでしたが、そのあと、あれはまだ先制される前だったと思いますが、バランがボールをもったとき、ベイルがするするっと上がったんですよね。それをバランは見ていた。ベイルに縦パスを出せばビッグチャンスになっていたであろうに出さなかった。あれは十中八九意図的でしょう。みんなベイルにボールを出したくないのです。


私情をはさまないでいただきたい
だからなぜそんな選手を先発で使ったのか、ということを言いたいんです。ルカス・バスケスは最近かなり走りまくって疲れてるから休ませたいのはわかります。だから私はアセンシオを使うべきだと思ってましたが、まさかのベイル先発。

ベイルはチームメイトとの間に不和があるけれど監督との間には何もない。
イスコはチームメイトとの間には何もないけれど監督と不和がある。


というわけで、ベイルは61分まで使われ、イスコは75分、つまり残り15分でやっと投入されました。

でも、実際にプレーするのは選手なのだから、H君のようにチームメイトと不和のある選手を入れても勝てませんよ。自分との関係が悪くてもその人を入れればチームが活性化する人を早く入れるべきでした。

というか、そもそもの問題として、あと2点は取らないといけないというときに、なぜ後半頭から選手交代しないのかまったく理解できませんでした。1点差だから3枚替えは危険でしょうけど、2枚替えがセオリーでは? 特にバルサの選手はミスが多く、たぶん、レアルより中二日の試合が少なくて過密日程に慣れてないのもあったでしょう。いったんバルセロナに戻ってるというのもあるし。フレッシュな選手を二人も入れたらだいぶ優位に立てたと思うんですが。

しかも、55分にクロースに代えてバルベルデ投入という意味不明の交代劇。西野さんが言ってたように、後半開始早々はモドリッチとクロースがよくボールに触ってチャンスメイクできていたのに、なぜ??? しかも同じポジションで1枚替えでは劇的な変化は起こせないでしょう。

私は後半頭からベイルに代えてイスコ、それと「何も貢献できてない」と解説者たちから総スカンを食らっていたカゼミーロに代えてバルベルデがいいんじゃないかと思ってました。つまり、ベンゼマとヴィニシウスの2トップ、イスコをトップ下に置いて、モドリッチ・クロース・バルベルデのトリボーテという4-3-1-2という布陣。

でもイスコと仲の悪いソラーリは残り15分まで使わなかった。世界中のサポーターが勝利を望んでいるときに私情をはさまないでいただきたい。アホ会長も問題だけれど監督にも大いに問題あり。グティを呼べ、グティを!

まぁでも、今日は負けたのは残念だし、1点は取ってほしかったけれど、「何とかボールを奪って1点取る!」という選手たちの気迫には感動しました。国王杯敗退、リーガ絶望ですが、まだチャンピオンズリーグが残っています。あれだけの気迫があれば望みはあると思ってます。

頑張れ!

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最後にひとつだけ。私はヴィニシウスよりもレギロンのほうに希望の光を感じます。

大阪府スマホ学校持ち込み解禁について思うこと

大阪府が公立小中学校へのスマホ持ち込みを解禁するニュースが1週間たっても巷を賑わせているようです。

直接のきっかけは昨年6月の震災で、安否確認のためということらしい。

しかし、いくら安否確認のためといっても、スマホを解禁したら依存症になる、授業が混乱する、スマホをもってない子がいじめられるなどなどいろんな反対の声が上がっているようです。


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私はこのように休み時間に外で遊ばずスマホをいじる子どもが増えないように工夫するなら別にいいと思っています。

依存症については、すでに依存症の子どもってたくさんいると思う。学校が終わったらスマホばっかり見てるとか。いまさら学校で解禁したところでそういう子が増えるとは思わない。いま依存症じゃない子は学校に持ち込んでも依存症になることはないでしょう。

逆に、これをいい機会に外で遊ぶ楽しさを教えてやってほしい。
最近は公園とかでも鬼ごっことかかくれんぼとかドロケイとか缶蹴りとかやってる子どもたちほとんどいませんよね。子どもの数自体が減ってるのもあるんでしょうが、外で遊んだら危険だとアホな親が禁止してる場合も多そう。

特に小学校で大事なのは勉学よりも体力作りだと思う。体育と食育をきちんとするならあとはそれほど大きな問題じゃないだろうし、安否確認できる利点のほうが多いのではないか。

食育といえば、私の高校時代、保健体育の先生が、

「いまは魚を切り身で食べるやろ。あれはアカン。ちりめんじゃことかめざしとか、その生物のすべてをいただく『全体食』が大事」

と言っていました。

全体食? それがスマホ解禁と何の関係が?

国語の教科書ですよ。

日本の国語の教科書では、作品の抜粋しか載ってないじゃないですか。あれ、ほんとよくないと思う。ひとつの物語を最初から最後まで全部読むのが大事。

また、世界史の先生はこう言っていました。

「欧米の学校では、ある本を読んでレポートを提出するという課題がある。学校の図書館に生徒の数だけ本をそろえているからそういうことができる。日本の学校は1冊ずつしかないからとうていできない。世界史を理解するために必読の本がたくさんあるのに子どもたちに読ませることができない」

と嘆いていました。

だから、スマホなどタブレット端末の持ち込みOKにすることで、電子書籍で読めるようになるんじゃないか。あの先生の夢がかなうんじゃないか、という期待があるんです。

私自身は電子書籍が苦手です。兄貴がキンドルで中島敦の『山月記』を読んでるというので見せてもらったことがあるんですが、大好きな作品なのに少しも頭に入ってこない。でもデジタル・ネイティブ世代ならそんなことはないでしょう。むしろ日本の学校図書館に世界の古典を生徒の数だけそろえるなんて金銭的にも無理だろうし、そもそもそんな巨大な図書館を置ける土地がないのだから、スマホなどで電子書籍を読めることは教育効果が高いと思う。

家で読んだらいい?

いやいや、教室でみんなと同じものを読むのがいいんじゃないですか。ブックマークとかも簡単にできるだろうし、授業で聞いたことを書きこんだりもできるんじゃないの? よく知らないけど。

それに家で独りで読むと黙読になるでしょう? みんなで音読するのが大事だと思う。寺子屋みたいに『論語』の素読をするとか。そのためには『論語』をまるごともってないと。

マンガもいいと思うんですよ。下手な小説よりマンガのほうが面白いし真実に迫ったものは多い。「学校でマンガなんてけしからん」とか言う保守的な人間は相手にしないほうがよろしい。真面目なテーマを扱ったマンガばかりじゃなくてギャグ漫画とかもね。教室全体が笑いに包まれるなんて素敵。

とにもかくにも、国語は教育の基幹だから安否確認だけに使うんじゃなく、「読書における全体食」の楽しさ、大切さを子どもたちに教えてやってほしいと思います。

もちろん費用は税金で。自費だと家で読むことすらできない子もたくさんいるでしょうし。出版社も学校が買うぶんについては大幅に安くするとかね。再販制度があるから無理? いやいや、そういうのを変えていくために国会があるんでしょ。


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  • 『多十郎殉愛記』(無思想の主人公で幕末を描けるか)
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