聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

第37節 レアル6-0セルタ(CL決勝スタメン争い激化!)

いやいや、久しぶりの快勝、完勝でしたね! もうお腹いっぱい。今季ホーム最終戦で最高の試合でした。

クリスティアーノ・ロナウド、カルバハルが怪我で離脱しているなか、「CL決勝では俺を使え!」とアピールする選手が多かった。


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それはもちろん、ベイル。
そしてイスコもですが、絶対出られないであろうアクラフ(カルバハルの回復が間に合わなければナチョでしょうから)も来季に向けての猛アピール。カゼミーロ、モドリッチ、クロースの絶対的レギュラーもまったく手をぬかない素晴らしい試合でした。ケイロル・ナバスもやたらな反射神経を見せてくれたし、絶好調を維持したまま。激戦のあとは必ず休ませてもらえてるのが功を奏してますね。

問題はそのCL決勝、リバプール戦でいったい誰を使うのか、ということでしょう。

私は少し前まで次のようなイレブンを希望していました。

GK:ケイロル・ナバス
DF:カルバハル、バラン、セルヒオ・ラモス、マルセロ
MF:モドリッチ、カゼミーロ、クロース
FW:ルカス・バスケス、クリスティアーノ・ロナウド、アセンシオ

FW以外は衆目の一致するところでしょうが、問題は前線の3枚。あとは4-3-3なのか4-4-2なのかという問題。

4-4-2だと自慢の中盤3枚のうち誰かを落とさないといけないし、イスコをトップ下に置く中盤ダイヤモンド型だと今季はそれで何度も失敗しているから、ないだろうと。

今日の試合でもイスコを先発させながら左ウイングとして、ということは、「誰が先発でもフォーメーションはこれで行くよ」というメッセージでしょうね。

で、問題の前線3枚ですが、ちょうど今日はその前線だけを替えてましたから、ジダンもまだまだ決められていないのでしょう。

私が、ルカス・バスケスとアセンシオを両ウイングで使うべきと考えたのは、何よりリバプールの3トップの攻撃力を恐れてのことです。特に向こうの右サイドにはサラーがいるので、汗かき役を厭わないアセンシオが必要じゃないかと。攻撃力もあるし。右サイドも同じ理由です。

でも、これだとベンゼマが使えない。
彼はバイエルン戦で2点決めて非難の嵐がやんだらしいですが、それっておかしくないですか? 2点目はGKのミスだし、1点目だってベンゼマを見失ったバイエルンDFのミスでしょう。どちらも外すほうが難しい。

非難されていたころは点は決められなくてもアシストは多かったじゃないですか。特にロナウドとの関係。ポストプレーも正確だし、彼に縦パスが入るだけでボールが落ち着く。そういうところをすべてなかったことにしてただゴールがないから非難する、簡単なゴールを決めたから非難をやめるって絶対おかしい。

だから、やっぱりベンゼマは使うべき。

というわけで、いまの希望スタメンはこうです。

GK:ケイロル・ナバス
DF:カルバハル、バラン、セルヒオ・ラモス、マルセロ
MF:モドリッチ、カゼミーロ、クロース
FW:ベイル、ベンゼマ、クリスティアーノ・ロナウド


そう、クラシコと同じくBBC揃い踏み。何しろいまベイルがすごいことになってますから。今日の2点目はウルトラゴラッソでしたし。1点目だってあれを決めきるのはさすが。守備でも必死で戻ってましたし、右サイドは彼で行けるんじゃないかと。

問題はサラーのいる左サイドですが……もういいんじゃないですか、守備のことは。

というのを今日のアクラフを見て思いました。

裏へ飛び出すタイミング、ファーストタッチのコントロールなど攻撃のセンスが抜群で、角度のないところからゴールも決めたし、確かに守備ではマークを見失っておろおろしている場面がありましたけど、マルセロだって昔はそうでしたよね。ほんのちょっと前までクラシコとか相手が強敵のときは使ってもらえなかった。エインセ、アルベロア、コエントランなどが先発を勝ち取っていた。マルセロが先発できるのは相手が格下のときだけ。

それがいまやクラシコでもユベントス戦やバイエルン戦でも先発でしょう? 昔に比べたら守備もましにはなったけど、一番はやはり攻撃力という最大の長所を伸ばした点にあると思う。もし短所を矯正することに神経を使っていたらいまの地位はなかったでしょう。今日だってマークを見失ってクロースが慌ててカバーしてた場面がありましたし。

だから、アクラフも同じように成長してほしいと思うし、リバプール戦の左サイドもそう考えたらいいんじゃないですか。

つまり、攻撃は最大の防御ということです。マルセロとロナウドでガンガン攻める。守るときはクロースやセルヒオ・ラモスがカバーするということでいいんじゃないですか。

こちらはディフェンディング・チャンピオンなんだから、相手に合わせる必要なんかない。今季ベルナベウでのクラシコは相手に合わせてメッシにマンマークをつけて失敗しましたよね。あれがいけない。

BBCで勝てる。いや、BBCだから勝てる!!!


『鬼の棲む館』(神話・宗教・時代の三位一体)

日本映画専門チャンネルでやっていた『鬼の棲む館』。これがべらぼうに面白かった。神話と宗教が絡み、男二人の「英雄の旅=ヒーローズ・ジャーニー」が時代背景とともに見事に描かれています。


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1969年大映作品『鬼の棲む館』
原作:谷崎純一郎『無明と愛染』(「あいぞめ」ではなく「あいぜん」です)
脚本:新藤兼人
監督:三隅研次
出演:勝新太郎(無明の太郎) 
   高峰秀子(楓)  
   新珠三千代(愛染)  
   佐藤慶(高野の上人)




時代背景
まず、高峰秀子演じる楓が「頼もう」と荒れ果てたお堂を訪ねる場面から始まります。そこに住んでいるのは無明の太郎と言われる盗賊とその愛人の愛染。楓は太郎の妻なんですが、愛染に寝取られたと。それで太郎と奪い返しに来た。

そんな楓の気持ちなどお構いなしに、太郎は京へまたぞろ金目のものを盗みに行くと言って出かけます(このとき薪代わりに仏像を叩き斬るのが後半に向けての伏線ですね)。京はひどい戦乱にまみれていて、応仁の乱の時代なのかな、と思いましたが違いました。

太郎がいない間に佐藤慶演じる高野の上人が一夜の宿を求めて訪ねてきます。このとき「京方と吉野方が……」と語っていて、なるほど、南北朝時代なのかと。

鎌倉末期の直後で南北朝時代が舞台というのがこの映画のミソですね。鎌倉末期から持明院統と大覚寺統の間で「両統迭立」の状態にあり、その末期に後醍醐天皇が現れて南北朝時代に突入。皇統が分裂していた時代でした。

この時代背景は後半の展開にかなり大きな意味をもってきます。


英雄の旅=ヒーローズ・ジャーニー
楓は上人に語ります。
かつて荘園名主だった太郎は戦火で荘園が潰れたために京へ出てきて愛染と出逢い、その愛染によって暗黒面に落とされた。楓はそんな太郎を奪い返しに来たのだと。しかし、実際は愛染に復讐したい気持ちのほうが強いようです。。

そこを上人は鋭く突きます。愛染を「鬼」と罵る楓の心にもまた鬼が棲んでいると。鬼は多かれ少なかれ誰の心にも棲むものだ、というのが真言宗の考え方かどうかは知りませんが、少なくともこの上人の思想ではあるらしい。

では、なぜこの上人はそのような思想をもつに至ったか。やはり上人自身がかつては暗黒面に堕ちたアンチヒーローだったことが大きいのでしょう。
いまは出家して英雄の旅=ヒーローズ・ジャーニーを歩んでいる。かつての自分のような太郎に出会い改心させようとする。が、上人もまた太郎と同じくかつて愛染の誘惑に負けた弱い人間だったことが判明します。上人はかつて貴族で、愛染にそそのかされて人を殺めたことが語られます。太郎と上人は同じ穴のムジナというわけです。そして、再び愛染が色仕掛けで上人に迫る。

で、こんなことになってしまいます。

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己に負け、仏の道を誤った上人は舌を噛み切って自殺します。英雄の旅を完遂できなかった上人の胸中を察するととても悲しい。


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しかし、「仏も私のカラダに負けた!」と高らかに笑う新珠三千代を見た勝新は発作的に彼女をぶった斬ります。そして、上人の遺志を継いで、妻の楓とともに出家をする。

このへんの展開はとってつけたような感じが否めませんが、上人が堕落する直前、太郎が上人の念仏によって黄金色の仏像の強い光に負けたという事実が、彼をして上人の死に様に「仏性」を見えさせたのでしょう。鎌倉仏教が花開いた直後でまだ末法思想の名残もあっただろう時代。しかも、いつ終わるかわからない戦乱の世だった、という時代背景も関係しているかもしれません。


南北朝時代の意味
時代背景の意味がこれでもうわかりましたよね。
かつて太郎は楓と幸せな生活を送っていたけれど、愛染と出逢うことで暗黒面に堕ちた。
その愛染によって暗黒面に堕ちていた上人はそれゆえに仏に道に入って暗黒面から脱却した。
その上人が再び愛染によって暗黒面に堕ちたがゆえに、太郎は暗黒面から脱却した。

上人と太郎はどちらもヒーローズ・ジャーニーを歩んでいますが、どちらかがヒーローのとき、もう片方はアンチヒーロー。

両雄、並び立たず。両統迭立から南北朝へと皇統が分裂していた時代というのがうまく活かされています。

京が戦火の焼かれている時代というだけなら応仁の乱でもいいような気がしますが、やはり皇統分裂のこの時代のほうがテーマがより明確になるという計算なのでしょう。
ただ、両統迭立や南北朝の分裂というのが、愛染のような女の魔性によって引き起こされたものかどうかは浅学のためまったく知りません。


クライマックスで大事なこと
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クライマックスで大事なことは、愛染を斬った太郎がその死骸に抱きつき、号泣することでしょう。
ちょっと前まで愛し合っていた仲だから、ということではないと思います。発作的に斬った、ということへの悔いでしょう。

太郎は上人が死んだ時点で仏の心が芽生えていた。ならば、彼が愛染を暗黒面から救い出し、新しい英雄の旅に歩ませなければならなかったはず。それを気持ちはわかるが発作的に斬ってしまった。救い出すことができなかった、ということへの悔恨と謝意の表れと解釈するのが私流の見方。

彼女は最初から最後まで、ヒーローとアンチヒーローを循環的に行き来するキャラクターではなく、ユング心理学でいうところの「身体のアーキタイプ」なのかもしれません。いや、確実にそうでしょう。ヒーローを暗黒面へ転落させる役どころ。決して変化しない。

だから「鬼」なのでしょう。しかし「鬼は誰の心にも棲んでいる」のです。上人も己の鬼に負けた。太郎も負けかかっていた。太郎を救いに来たはずの楓も鬼退治という妄執に囚われた鬼に成り下がっていた。

だから、愛染は決して身体のアーキタイプではなく、アンチヒーローだと思います。それはヒーローに変容する可能性を秘めた存在ということです。そう考えないと「誰の心にも鬼が棲んでいる」と言った上人が浮かばれません。魔性にだって仏性はひそんでいるのです。それが釈迦の教えだったはず。

だから、太郎のアンチヒーローからヒーローへの変容は、きっかけは上人の死ですが、それだけではまだ完全ではなく、愛染を斬ってしまったことで完全なる変容となったのだと思います。

仏教、それも大乗仏教の国だからこそこういう映画が作れた。キリスト教などの一神教を信仰する人にこういう物語は作れない。私は日本人としてこの映画を誇りに思います。

ただ、惜しむらくは、高峰秀子の役どころがやや狂言回し的なところで終わってしまったところでしょうか。冒頭など、あの勝新をも圧倒する横綱相撲ぶりに瞠目していたんですが、だんだん影が薄くなってしまって……。
太郎の変容はしっかり描かれますが、楓の心に棲む鬼がどうなったか、その顛末が描かれないのはとても惜しいと思います。



『究極の疲れないカラダ』を読んで思ったこと

話題沸騰中の、スポーツカイロプラクター仲野広倫さんの『世界の最新医学が証明した 究極の疲れないカラダ』(アチーブメント出版)を読みました。




完全同意する点
まずは完全同意する点を箇条書きしてみます。

①本書のエクササイズをしていて「おかしいな」と思ったらすぐ中止して医師に相談する。
②どんな治療もそのうちの2割は「プラシーボ効果」と言われている。
③医師から「筋肉をつけなさい」と言われたら、まず自宅で地道にスクワットをすること。
④普通の腹筋運動、背筋運動は腰を痛める。
⑤足腰を強くするためには、一日一万歩歩くより週に2回のスクワットのほうが効果的。
⑥自分の体を治すのは自分自身。医師はその手助けをするだけ。

ざっとあげるとこんな感じでしょうか。

①について補足をすると、間違ったフォームでエクササイズをしていると痛みの原因になります。高校時代バドミントン部で一日1000回素振りさせられていたんですが、間違ったフォームでやっていた友人は肩と肘を痛めてしまいました。鉄は熱いうちに打て。初期の時点でフォームを正すのは大事ですね。

②のプラシーボ効果(偽薬効果)に関しては、私などはもっと割合が大きい気がします。ほとんど気分で生きているので。ただ、この著者は「気分」というものをあまりに過小評価しすぎのような気がします。(これについてはあとで詳述します)


目から鱗だった点
「長年、運動してなかった人が骨粗鬆症の予防として始める運動は何か」という問題の答えが、「負荷の軽い水泳」ではなく「おもりを使った筋トレ」だということ。

この本の最大のキーワードは「機能運動性」で、寝ている状態が最も機能運動性が低い。機能運動性は筋肉を鍛えることによって得られると何度も説かれます。水中では体重が軽くなるので全身の筋肉に負荷がかからなくなり、筋肉が衰える、つまり機能運動性が低くなってしまうとか。これには驚きました。

が……


まったく納得できなかった点
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開脚や前屈ができることのメリットは、ズバリ「開脚や前屈ができる」ということだけ。

ん? ほんとに???

確かに、機能運動性という観点からはそうなんでしょうけど、人間の体ってそれだけじゃないでしょ。

以前読んだ本に、股関節を柔らかくすると、一番太い血管のある腰から大腿部にかけての血行がとてもよくなる。リンパ節の働きもよくなるから免疫力も上がる。疲れが取れやすくなる。って書いてありましたけどね。(その本に書いてあることが間違いという人もいるかもしれませんが、それを言ったらこの本に書いてることも……ということになってしまいますよ)

この本は「疲れないカラダ」と銘打っているのに「免疫力」という言葉がまったく出てこないのには異議申し立てせずにはいられません。

それに前述の「気分」。

著者はアメリカで開業していて、患者さんはみんな超高額の医療費を払っているから、各自レントゲン写真やMRIなどの画像を持参してきて、「あんたに治せるか」と迫り、原因は何か、どういう治療が効果的か、その理由は、などなど根掘り葉掘り聞いてくるそうです。でも日本の患者はそこまでの意識がないと嘆いてますが、何でもかんでも「アメリカが一番」みたいに言うのは日本人の悪い癖だと思う。

著者の、骨のずれを治すと謳っている整骨院や鍼灸院は意味がないという主張にはほぼ同意します。骨がずれてるんじゃなくて関節がずれてるだけ、そのずれを治しても筋肉の使い方が間違っていたらまたすぐずれてしまう。それもそうでしょうし、闇雲にもみほぐして終わりなんて「医療」じゃないというのもそのとおりでしょう。

でも、「気持ちいい」「楽になった」は意味がないというのはどうなんでしょうか。

私はもう1年以上前から整骨院に行かなくなりました。その整骨院では、この本に書かれているのと同じような「正しい筋肉の使い方」を教えてくれたので、それを実践してきたことがまず一つ目の理由。二つ目は、テレビで筋膜ストレッチや骨ストレッチなどのやり方を見て、それも実践すると整骨院に行かなくても簡単に肩こりが治るとわかったことです。

著者に言わせれば、筋膜ストレッチなんかも対症療法に過ぎないということなんでしょうか。ストレッチにはあまり意味がないって何度も書かれてますしね。もっと根本から治さないといけないということ? 確かにそれはその通りでしょうが、ストレッチをして感じる気持ちよさを私は捨てたくない。そして正しい筋肉の使い方では同じ快感は得られない。

著者はプラシーボ効果をネガティブなものと捉えていますが、なぜでしょう? プラシーボ効果って偽の薬でほんとに治っちゃうんでしょ? 仮に治った気がするだけでも別にいいと思う。何でもかんでもアメリカ人のように合理的に考えることだけがすべてではないでしょう。

というか、この著者は「考えすぎ」じゃないですかね。肉体の専門家なのに体で感じる気持ちよさを否定するというのがまったくわからない。体で感じずに頭だけで考えている。

少なくとも、私はこの人に診てもらいたいなんて少しも思いません。
それから、『究極の疲れないカラダ』という題名は「看板に偽りあり」だと思います。『機能運動性にすぐれたカラダ』とでもすべきではなかったでしょうか。


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