聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

関西人は必ず話にオチを求めるという「都市伝説」について

昨日、関西ローカルの番組で鈴木奈々が「関西の人はオチのない話をすると何で怒るの!?」と言っていました。

うん。確かに、もうかなり前にタモリも『笑っていいとも』で同じことを言ってたし、とにかく関西以外の出身者はそういうコメントをする人がこれまでにもたくさんいました。番組では関西出身の芸人が「そんなの当たり前だろう」と答えてましたが、ほんとに? と私はいつも思うのです。

結論から申しますと、「関西人はオチのない話に怒る」というのは都市伝説だと思う。


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そりゃ↑こんな感じで「なあなあ、聞いて聞いて」と近寄ってきた場合はオチがなかったら怒ります。しかしこういう場合って別に関西人でなくともオチを期待してると思うんですよね。

で、もし↓このような顔で「聞いて聞いて」と近寄ってきた場合は、

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明らかにシリアスな感じなので最初からオチなど期待しないし、実際オチはありません。文句を言うこともない。

だから、実際はオチがない話すべてに怒るわけではなく、オチを期待させておいたくせに……という場合に怒る、ということでしょう。

関西人同士で話をしていたら、オチがない話なんか山ほどありますよ。「関西=お笑い」というイメージが強すぎてこのような都市伝説が生まれたのでしょう。

しかし……

もしかすると「関西人はオチのない話に怒る」というのは本当かもしれない、とも思うのです。

どういうことかというと、関西人同士ならオチがなくても怒らないけど、関西以外(特に東京)の人がオチのない話をしたら「ここは関西やで。オチがない話は許さんぞ」みたいな感じで東京人をからかいの対象にする。
関西に一歩でも入った以上は笑いを常に意識せよ、みたいな「お笑いのエリート意識」みたいなのが出てきてしまうんじゃなかろうか。

関西人の東京への敵対心はすごいですからね。ま、実際はコンプレックスなんですが。
だから、関西人と話をするときに大事なのは「オチがある話をする」ことではなく、「私は東京から来た」とか「大阪や神戸はたいしたことない」みたいな態度を取らないことだと思うわけです。
それさえしなければ、オチがない話をしても大丈夫だと思います。(たぶん)



『女と男の観覧車』(もうヴィットリオ・ストラーロとは組まないほうがいいのでは?)

ウディ・アレンの新作『女と男の観覧車』。

冒頭のコニーアイランドで若い女が練り歩くシーンは明らかにダグラス・サーク『悲しみは空の彼方に』へのオマージュでしたね。
オマージュといえば、サークの50年代メロドラマを現代に蘇らせようとしているのがトッド・ヘインズ。2002年の『エデンより彼方に』がいまだに印象深いですが、そのトッド・ヘインズがマイケル・カーティスの『ミルドレット・ピアース/深夜の銃声』を連続ドラマとしてリメイクしたことはあまり知られていない。あの連ドラに主演したのがまさに『女と男の観覧車』のケイト・ウィンスレットでした。
この映画の舞台も50年代だし、ダグラス・サーク→トッド・ヘインズ→ケイト・ウィンスレットという感じでつながっているのですね。


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さて、そのケイト・ウィンスレットのややオーバーアクション気味の芝居が鼻につくこの映画では、前作からアレン組の一員となったヴィットリオ・ストラーロが撮影監督の任についています。巷間ではストラーロの光の捉え方が絶賛されているようですが、私はまったくいいと思いませんでした。

いや、いいと思ったショットもたくさんあったんですよ。

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↑こういうのとか。

↓こういうのも。

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暖色系のアンバーが基調となっているこの映画の良さを表すいいショットですね。

しかし……

初めてケイト・ウィンスレットとジャスティン・ティンバーレイクが愛を交わす場面で、ケイト・ウィンスレットの顔がアンバー一色になり、かと思うとサァーっと寒色系のブルー一色になったりするのがどうにも好きになれません。同じようなライティングが義理の娘ともめる最後のほうのシーンでもありましたが、とにかくダサい。原色に近いくらいの強いフィルターを使って暖色と寒色をまぜこぜにするというのが、何の意図があるのかわからないし、これ見よがしな感じがしてまったく好きになれない。
それに、ケイト・ウィンスレットが登場するシーンとラストシーンで、顔が飛んでしまうくらい強い光を当てていますが、あれもダサい。あんなのストラーロじゃなくても撮れるでしょう。

ヴィットリオ・ストラーロが撮影した映画で私のお気に入りは、

『ディック・トレイシー』
『シェルタリング・スカイ』
『地獄の黙示録』

あたりですが、『女と男の観覧車』のような何の意図も感じられないライティングはなかったですよね。『ディック・トレイシー』は原色たっぷりでしたが、あれは原作のマンガの色をそのまま表現しようという意図があった。でも『女と男の観覧車』には何の意図もありません。ただ「こういう画を撮りたい」という欲望しか感じられない。監督の要望通りに撮っただけでしょうが、しかし、アレンは何ゆえにあのようなダサい画を求めたのか。

私にとって、ウディ・アレン作品の撮影監督といえばカルロ・ディ・パルマです。アレンといえばカルロ・ディ・パルマといってもいいくらい。しかし調べてみると、カルロ・ディ・パルマと組んでいたのは『ハンナとその姉妹』(1986)から『地球は女で回ってる』(1997)までのほんの10年ちょっとだけなんですね。おそらくそこで病に倒れたのでしょう。2004年に亡くなるまで何も撮っていません。

アレンはその後、

スヴェン・ニクヴィスト
ダリウス・コンジ
ヴィルモス・ジグモンド
ハリス・サヴィデス

といった錚々たる名前と一緒に仕事をしていますが、カルロ・ディ・パルマほど相性の合う人とは巡り合えていないようです。

カルロ・ディ・パルマが撮っていた頃はほぼワンシーン・ワンカットでした。アレンは自身が役者でもあるから芝居をとても大事にする。カルロ・ディ・パルマにはワンカットで撮る技術に長けていたからアレンは彼に頼りきりだったと推察します。
ただ、ワンカットで撮るためには美術監督がそのようなセットを組んでくれないといけない。アレンはずっとサント・ロカストという美術監督と組んでいますが、同じ人と組んでいるのになぜワンカットで撮れないセットにOK出したのか、まったくわかりません。

この『女と男の観覧車』はとにかくカットバックがものすごく多かったですよね。でも、イーストウッドみたいにカットバックを自家薬籠中のものにした監督とは違い、アレンは役者の芝居を細切れで見せる監督ではありません。だから編集の呼吸が悪い。イーストウッドならここぞというところでつなぐからため息が出るほど素晴らしいカットバックになるんですが、アレンにはそのような腕がないからどうにも見苦しい。

光や色に執拗にこだわるから役者への演技指導がおろそかになっている気がしました。私はケイト・ウィンスレットの大ファンですが、この映画の彼女のオーバーアクションには辟易させられました。単純に芝居が下手な女優にしか見えませんでした。

もうヴィットリオ・ストラーロとは組まないほうがいいと思います。


批判を許容しない社会について

哲学者・中島義道さんの『「思いやり」という暴力』(PHP文庫)を読んで何度も膝を打ちました。



批判のない国ニッポン
この本は旧題が『〈対話〉のない社会』といい、日本人は対話することをできるだけ避ける。そのことにいらだちを募らせる著者が「それでいいのか日本人!」と声高に叫ぶ内容です。

でも、私は「対話」というキーワードよりも「批判」のほうに関心が向きました。とはいえ、この二つの言葉は同じことを表しているのでしょう。対話とは相手を面と向かって批判し、批判された者はその批判を受け容れ、さらに反論して議論を高めていくことだからです。批判のないところに対話はない。

英語教師たちへの感謝を述べる日本人代表の挨拶が紹介されていますが、ただ外国人教師たちへの感謝が述べられるだけなんですね。通り一遍の何の個性もない挨拶に対し、外国人たちは一様に怒ります。

「何の批判もなしにただ感謝だけを述べられても困る」
「建設的な批判がないのはいかがなものか」


というように。


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批判は悪口?
私はよくこのブログで映画の批判をしていますが、それは日本の映画評論家にはまともな批評をする人がいないからです。面白い映画をいかに褒めるかばかりに神経を注いで、つまらない映画には無視を決め込む。これは製作者たちとの対話を拒否しているということだと思います。

一般の映画ファンも同様で、近頃は何でもネガティブなことを言うと「ディスる」といって非難する。ちょっと前にツイッターで、「映画の悪口は言うもんじゃない」と言っていた人がいました。目を疑いました。批判は悪口なんですって。そりゃま、誹謗中傷の類はそうでしょうが、その人の論旨では批判することが悪口だという感じでした。

映画製作者たちも同様です。去年の暮れに、ある映画監督と相互フォローの関係になりました。その人の映画がちょうど公開されたので見に行ったら少しも面白くなかったので正直に感想を書きました。もちろん誹謗中傷はしていません。建設的な批判をしたつもり。しかし、その監督さんからは何の反応もない。観客との対話を拒否している。

つまり日本では「批判はしてはならない」し、「批判されても受け容れない」のが普通のようです。

でもそれは中島義道さんが忌み嫌う「対話のない社会」そのものです。

だからこれからも建設的な批判をしていくつもりです。



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