聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

いじめやDVで作劇する際に重要なこと(『dele/ディーリー』第6話をめぐって)

ある高名な脚本家が、

「いじめとかDVとか、そういうのなしで話を作ることは無理なのかな?」

と言っていました。

なぜダメなんですかと訊いたら、

「だっていまはそういういやなニュースであふれてるじゃないか。三面記事に載るようなネタをわざわざ映画で見たいとは思わない」

私はこの答えは嘘だったと思います。あの人が自分の好みで「そんな作劇の仕方はダメだ」なんて言うはずがない。答えは自分で考えろ、というメッセージに違いないと。

私のいまのところの結論は「善と善の対立にならない」というものです。

いじめやDVという一方的な暴力は「悪」というものを設定しやすい。設定しやすいけれども、簡単に対立構造を作れるので「善と悪」の対立だけで終わってしまう。その高名な脚本家は常に「善と善」の対立にしなさいと言っていましたから。

現在、絶賛放映中の『dele/ディーリー』でも神回と言われる第3話や先週の第5話などはちゃんと「善と善」の対立になっていましたよね。どちらが一方的に悪いわけではないし、どちらの言い分も理解できる。(ここで言う「善」「悪」というのは「善人」「悪人」という意味ではありません。その人の言い分に納得できるかどうか。『太陽を盗んだ男』で言えば、最終的に原爆で自分もろとも東京を消滅させる悪人・沢田研二の言い分にはみんな納得できるから「善」です。もちろん文太刑事も「善」。逆に『ダイ・ハード』の悪役の言い分にはまったく納得できないからあれは「悪」です)


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昨日の第6話はまるで『ツイン・ピークス』のように「美しい死体」の登場で幕を開けます。

この純子という子がひどいいじめを受けていたのではないかとの両親の依頼を受けて、本来の仕事とは違う調査を主役の二人が行っていくのですが、私は最初、ほんとにいじめの現場を捉えた動画が出てきたときは「『dele/ディーリー』よ、おまえもか」と思ってしまいました。「善と善」の対立で話を作ってきたのに、ここにきて「善と悪」の対立に堕してしまうのか、と。

しかし、それはやはり杞憂でした。
彼女はいじめられていたのではなく、現在いじめっ子になってしまった子たちにとって天使のような存在だった。彼女が自殺したために「世界のバランスが崩れた」のだと。

そういえば……


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もう5年ほど前ですが『ホンマでっか!? TV』で心理学者の植木先生がこんなことを言っていました。

「実はいじめられる子よりもいじめる子のほうが心を深く傷つけられているんです。いじめているときは楽しくてやっているんだけれども実は知らず知らず心が傷ついていて、その傷が少しずつ少しずつ大きくなって40代や50代になってから突然うつ病になる。本人も周囲もなぜ鬱になるのかまったくわからない。わからないまま自殺に至るケースって実はものすごく多いんです」

いじめている人間もまた「弱い人間」だということですね。いじめっ子を悪に設定するのではなく「弱いがゆえにいじめるのだ」という思想が根底にないといけない。ということをあの高名な脚本家は言いたかったのではないか。それができれば「善と善」の対立になる、と。

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だから、この子もいじめたくていじめていたわけではなく、自分の弱い心を天使のような純子が癒してくれていたのにそれがなくなったから弱い心が表に出ていじめをしている、というわけですね。なるほど。

ただ、それを「汚いんじゃないんだ。弱いだけなんだよ」と菅田将暉のセリフで言わせてしまうのは、テレビドラマならではの弱さですね。それと1時間という時間の制約もあるかな。言葉で言うんじゃなくて感じさせてくれないと。

それはともかく、純子が自殺した本当の理由は、彼女にSNSを使って「この世の汚さを見せてあげる」と言って、友人たちの悪口や両親の不倫を暴露した奴がいた(彼女は天使のような存在だったのに悪口を言っていたというのは理解できませんが……?)。そして彼もまた、妻や娘に捨てられたのが原因でそういうことをやっている弱い人間だという結末に至ります。

この「本当の悪人」への突っ込みがやや浅いのと、最後に両親が登場する前にパソコンやスマホの情報をすべて消去してしまうのはどうかと思いました。すべて学校のせいにしようとしていた両親に、娘が自分たちの不貞行為を知っていたことを突きつけないといけないのでは? 

しかしながら、底なしの悪意を扱っていながら「善と悪」の対立に逃げなかった『dele/ディーリー』製作陣の心意気には感動しました。



『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』(この新作は必要だったのか)

いまごろ見てるのかとか言われそうですが、ようやく見てきました。トム・クルーズの新作『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』。週刊文春の星取表で信頼する芝山幹郎さんが満点をつけていたので期待は高まるばかりでしたが……


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うーん、、、ちょっと私には退屈な映画でした。
そりゃ手に汗握ったシーンもありましたよ。芝山さんは「肉体と空間の共振が~」とアクションを絶賛しています。


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そりゃこのシークエンスなんかは鳥肌ものでしたし、ビルの屋上を疾走してそのまま隣のビルに飛び移るのをカットを割らずに見せる場面など「映画の醍醐味とはこれよ!」と56歳とは思えないアクションを見せてくれましたが、それでも、クライマックスの「爆弾のタイムリミット」とか、それを解決する手段とか見せ方とか、あまりに独創性がなくて白けました。

それにジェレミー・レナーが出てこないのはなぜなんだろう、というか、ここからが本題です。

その前に、できればこちらの記事をお読みください。3年前の『ローグ・ネイション』を見たときに書いた記事です。


①私情で動くスパイたち
②ポーラ・ワグナーとの訣別
③最新作『ローグ・ネイション』でわかったトム・クルーズ真の狙い


私は上記の日記で「映画版『ミッション:インポッシブル』は、テレビ版『スパイ大作戦』に対する、20年の歳月をかけた壮大にして絶妙な批評だった」と結論しました。
自分たちを使い捨てにする組織を自分たちで再生する。それが『ローグ・ネイション』の物語の眼目であり、そこにこそトム・クルーズがこだわった「真にプロフェッショナルなスパイ」が描かれていると。

しかし、今度の『フォールアウト』では同じ悪役ソロモン・レーンが出てきて「国家はおまえたちを使い捨てにするだけだぞ」と言います。これについての答えはもう前作で出ているので、あまりに愚問ですね。ソロモン・レーンの言葉として矛盾はありませんが、前作までを見ている観客からすれば「いまごろ何を言ってるの?」ってなもんです。

『ローグ・ネイション』では、国家に使い捨てにされたことで復讐心を燃やすソロモン・レーンと、復讐など考えず粛々と組織の再生に力を合わせるトムたちの友情が描かれました。そのはざまで揺れ動く、ソロモン・レーンと同じ元MI6のスパイ、レベッカ・ファーガソン。
この構図は今回も変わりません。同じ設定、同じ悪役、主役たちにも変わりがなく、はざまで揺れ動く人物も同じ事情で揺れ動いている。これでは「いったい何のために巨額の製作費を注ぎ込んで映画を作ったのか」まったくわかりません。

やはり『ローグ・ネイション』で『ミッション:インポッシブル』はいったん終わったのです。新しい物語を語らなくてはならないはずなのに、アクションだけ盛大になって肝心要の物語は同工同曲というのでは、この3年間はいったい何だったんだろうと悲しくなります。

トム・クルーズもまだ元気とはいえ、次回作の頃には60歳近くですし、ここらで打ち止めにするのがいいんじゃないでしょうか。

奥さんミシェル・モナハンのかなり長い登場シーンもあったし、もういいのでは? もし次回作を作るとしたらトム・クルーズはもう60歳。いくら何でもあれ以上のアクションは無理でしょう。

嗚呼、こんなことなら『ローグ・ネイション』が完結編だったどんなによかったか。




『カメラを止めるな!』(マギー司郎とジャンルの不統一)



ついに見てきました。話題沸騰中の『カメラを止めるな!』。見る直前に盗作騒動などがあって、ほんの少しだけ水を差された形にはなりましたが、私は「ゾンビ映画の撮影中に本物のゾンビが現れるが撮影を続行する」という基本アイデアしか知らない状態で見に行けたので何も影響はありませんでした。ちなみに、盗作疑惑についての私の意見はこちら→「パクリ、盗作、芸のうち!」

以下の感想を一言で言ってしまえば、「マギー司郎の芸を映画化すること自体はいいとしても、方向性が違うのではないか」です。


素晴らしすぎる劇中ゾンビ映画!
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どんだけすごいのかとちょっと構えて見始めてしまいましたが、始まったらそんなのはすぐどこかへ吹っ飛びました。それぐらい劇中ゾンビ映画は素晴らしかった。とはいえ、最初はこのままこの禍々しいゾンビ映画が95分続くのか、と思っていたら、カメラのレンズについた血糊をカメラマンが手で拭き取りますよね。あそこで「あ、カメラマンは作中人物なのか」と誰でも気づいてしまう。ということは……ということで、劇中映画は40分ほどで終わって「1か月前」とテロップが出たときにちょいとテンションが下がりました。そこからまた上げてくれたらよかったんですが……


DVDの特典映像
ロバート・レッドフォードはDVDの特典映像で見られるメイキング映像にかなり否定的だそうです。「映画のマジックが失われるから」と。私は脚本作りの参考にさせてもらったりしてるし重宝してますが、確かにレッドフォードの言い分もわからないではない。

『カメラを止めるな!』は前半が完成した映画で後半がメイキングですよね。で、あのとき舞台裏では実はこうなっていたと種明かしがされる。思わず笑ったシーンもあったし、基本的に最後まで退屈せずに見ることができました。

が、映画全体に満足したかと訊かれたらぜんぜんそんなことはありません。前述のとおり劇中映画にはかなり感動しましたから、あそこで終わってくれたらよかったというのがウソ偽りのない正直な気持ちです。

劇中映画でいろいろ「あれ?」と思うことがありますよね。
カメラマンの手もそうだし、
護身術指南の場面でドアがゴーンと鳴ったり、
なぜか録音マンがゾンビのいる外へ出ていこうとして犠牲になったり、
勝間和代似の監督の奥さんが斧で絶命したはずなのに「あれ何?」と立ち上がったり、
ヒロインが密室で息をひそめているとゾンビの足が近づいてきて……でも去っていく。

などなど、これらの種明かしが後半に々となされるわけですが、それがそんなに面白いとは思えないんです。

逆に、種明かしがないほうが面白くないですか? つまり劇中のゾンビ映画だけで勝負するということ。あの禍々しさはトビー・フーパーの再来かと思ったほどですから。


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結局この映画は家族の再生物語だったんでしょうか。父親を「あいつ」呼ばわりする娘が一仕事やり終えた父親を見直し、父親は失われた父性を回復すると。そのテーマ自体が悪いとは思いませんが、あれだけ素晴らしい劇中ゾンビ映画がそのテーマを表現するための出汁にすぎなかったというのはいただけません。


マギー司郎との決定的な違い
この映画は、前半で素晴らしいマジックを見せておいて、後半はそれ以上の時間を使って延々と種明かしをしていたわけですよね。それがそんなに面白いですか? ただの答え合わせじゃないですか。

たまにテレビでマジックショーを見ますけど、種明かしなんかしないでしょ。種明かしをするのはマギー司郎みたいな人だけです。

マギー司郎は私も好きですが、この映画はマギー司郎と同じく、種明かしのほうに比重を置いています。しかしながら、マギー司郎の場合、マジックそのものがものすごくしょうもなくて笑えますよね。で、種明かしで「やっぱり!」という笑いになる。笑いの相乗効果があるんですよ。

しかし『カメラを止めるな!』では前半がホラーで種明かしがコメディだから面白さが相殺されているように感じられました。冒頭で言った「方向性が違う」というのはそういうことです。無理やり真逆のジャンルを混ぜようとしたから、父と娘のドラマという別のテーマを入れざるをえなくなったんじゃないでしょうか。

だから、マギー司郎の芸と同じく劇中映画もコメディにするべきだったと思います。あんな本気モードのゾンビ映画じゃなくて、脱力系のゾンビ映画。それなら劇中映画そのものの面白さも損なわれないし、種明かしのほうでもよけい笑える相乗効果が期待できたはずです。これはかなり残念。


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こんな素晴らしい顔の役者さんを見つけてくるくらいだから、上田慎一郎という監督さんは相当な目利きだと思います。40分ワンカットの技はかなりのものだったと思うし、もっといい脚本で撮ってほしかったというのが正直な感想です。


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