2019年10月27日

早くも今年の最終クールの連ドラが始まってもう1か月がたとうとしています。今回見始めたのは6本。

とはいえ、初回で見るのやめようと決意したのが半分の3本もあります。ちょっと率が悪すぎ。でも、あとの3本のうち2本はこの時点で最後まで見るだろうと確信できているから、まぁいいか。

では、見始めた順に簡単な感想など。


『リカ』
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初回はかなり面白かったです。「雨宮リカです。28歳です」の自己紹介に戦慄し、物語の運び方がほぼ完璧で間然するところがない。牟田桂子という脚本家さんは名前すら知りませんでしたが、これからこの人の書くものなら何でも見ようとさえ思ったほど。

プロットの運びは2話以降もうまいんですけど、主人公のあまりの悪辣さというか、どんどんただの「変な人」になってませんかね? 初回でうるさい師長を殺す場面など喝采を贈ってしまうほど悪役の主人公に感情移入していたんですが、だんだんそれができなくなってきています。

昨日の第一部最終話では、それまですべて自分で殺していたのが、別の人間を脅迫して殺させていました。ああしておけばその人が小池徹平を殺してくれるということなんでしょうが、あれは完全に「作者の都合」ですよね。だいぶ白けた。

ただ、27時間テレビで休みをはさみ、第二部からは大谷亮平のストーカーになるらしく、キャラクターが一新されるから最後まで見ますよ。第一部で唯一の生き残り、夏菜の出番はあるのでしょうか。気になります。


『同期のサクラ』
「高畑充希はいつも同じような役ばかり」と批判されているようです。私は彼女の出演作をほとんど見てないのでそのへんはわかりませんが、これも『リカ』同様、主人公がただの「変な人」なんですよね。

同じ遊川和彦さんの大ヒット作『家政婦のミタ』の主人公も変な人でしたが、あの底なしの暗さというか、なぜ笑顔を見せないのかという根底の設定に説得力があったので少しも変とは感じず、感情移入しまくりで見ていました。遊園地で子どもの分の食事も買って少しも食べずに帰る場面とか。

でもこの『同期のサクラ』はただ変な人が変なことをしているだけで少しも乗れません。社長の挨拶にあんなに食ってかかるなんてただのアホじゃないですか。


『俺の話は長い』
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小池栄子が出てるなら何でも見ると決めているので見始めただけですが、これが今クールの目玉ですね。

30分×2本立てというのはやや看板に偽りありという感じですが。一応、サブタイトルをつけているから話が分かれているようにも感じますが、ずっと同じひとつの話が続いているだけというのが本当では? クドカン『マンハッタン・ラブストーリー』や三谷幸喜『王様のレストラン』のように各回がぜんぜん違う話、違う主人公になっているわけじゃない。

ま、それはさておき、何よりニートの生田斗真に対して、全否定派の小池栄子と全擁護派の安田顕(この二人が夫婦というのがよろしい)、擁護派だけど心配している母親の原田美枝子、否定派だけど心の底では慕っている姪っ子の清原果耶。主人公の周りの人物配置が絶妙です。

どうも清原果耶ばかりが絶賛されているようですが……


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確かに昨日のこの場面の直後、「俺もハルミンのこと好きだったんだけど」と打ち明けられたときの顔の歪め方がとんでもなく素晴らしく、まだ17歳であんな芝居ができるなんて末恐ろしすぎる。(でも、かつてはああいう役を原田美枝子がやっていたんですよね。隔世の感)

でも、やっぱりこの作品世界を根底から支えているのはこの人ですよ!


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昨日の「だったらちゃんとしろよ! 30過ぎて親から金せびってんじゃねーよ!!」といって涙を隠せない芝居は本当に素晴らしかった。

生田斗真が小金を貯めているのは何のためなのか。また店をやるため? それではつまらない。この先の展開から目が離せません。

ところで、初回と二回目は中島悟という監督さんが撮っていて、魚眼レンズなどレンズワークが巧みでした。狭い室内をできるだけ広く見せようという演出意図が感じられてとてもよかったんですが、昨日の3回目は監督が変わったためにそういうカットがほとんどなくなってしまって残念でした。映画と違いテレビドラマで映像演出を楽しめるなんてあまりないのでね。


『おいしい給食』
武田玲奈が見たいというだけの理由で見始めましたが、ひどくつまらなかった。献立に関する蘊蓄をナレーションで語りながら給食を食べる。そこに何のドラマがあるというのでしょうか。かなりませた子どもが一人いて気になりますが、30分が異常に長いので見限りました。


『左ききのエレン』
池田エライザが見たいというだけの理由で見始めましたが、うーん、かわいいのはいいんですが、少しも「天才」に見えない。でも、物語そのものは悪くなさそうだし、どういう展開になるかまだ見えないのでとりあえず次は見ますよ。最後まで見れるかどうかわかりませんが。


『決してマネしないでください。』
NHK総合の土曜11時半というのは最近破竹の勢いの枠なのでとりあえず見てみたんですが、これも蘊蓄を語るばかりで少しもドラマになっていない。馬場ふみかのキャラはなかなか天然でよさげでしたが、これも30分が異常に長かったので見限ることに。


というわけで、『俺の話は長い』と『リカ』は最後まで見ることになりそうです。来週から始まる『歪んだ波紋』は生き残れるでしょうか。去年の『フェイクニュース』と同じテーマのようで期待してるんですがね。




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2019年10月26日

山田太一さんのエッセイ集『月日の残像』(新潮文庫)を読みました。


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脚本以外の山田太一さんの文章を読むのは実は初めてだったんですが、最初はだいぶ戸惑いました。

あんまり面白いと思えなかったんですよ。途中で読むのやめようかなと思ったくらいで。でも、山田太一アディクトとしてはそれは不遜だと思い直し、最後まで読んだんですが、これが正解でした。

小林秀雄賞受賞とあるんですが、批評じゃなくてエッセイだし何で? と思ってたんですが、「消えた先の夢」と題された章を読んで大納得しました。


向田邦子への反発と共感
山田さんは生前の向田邦子さんと話をしていると、向田さんが「私、すんだ脚本はどんどん捨てちゃうの」というので、「それはどうかなぁ」とかすかな反発を覚えたそうな。

ただ、その頃はまだテレビ草創期で、ビデオがなかったからすべて生放送。前のシーンで会社で上司に怒られていたサラリーマンが次のシーンでは自宅で風呂上がりのシーンとかだと、上司の小言をできるだけ長くして、その間に俳優とスタッフが隣のセットに移り、着替えや湯上がりの雰囲気を出すためのセッティングをする。

そういう大急ぎの作業を毎日のようにやってるから、みんながみんな「終わったら次」という感じで撮影済みの台本をゴミ箱に捨てる場面を山田さんは何度も目撃したそうです。ビデオが発明されてもとても高価だったから再放送を1回したら新しい作品のために上から録画して使っていたとか。しかも20回から30回。そんなに繰り返し使ったら画質がかなり落ちてしまうと思うけど、それほど高価だったということなんでしょう。

「作品が消える」という事情は現在も同じだそうで、DVDで残るとはいっても、小説が本として残るのと同じようなもので、自分の作品が世から消えていく儚さを感じない作家はいないのではないか、向田さんの言葉はすぐに消えていく自分の仕事に対して先手を打つようなものだったのではないか、と山田さんは述懐します。


『七人の刑事』
一転して、ある日届いた不思議な本の話になります。それは往年の名作ドラマ『七人の刑事』に関するもので、羊崎文移(ようざきふみい)という人の『「七人の刑事」を探して 1961-1998』という本。

『七人の刑事』はタイトルは知ってるけど、1961年から1969年までの放送で、しかも前述のとおりビデオのない時代、または何度も使い回す時代だから、382回も続いたシリーズなのに残っているのはただ1作のみ。当然私は見たことがない。

著者の羊崎という人は、どこかに眠っているはずだと探し回るけれどもほとんど成果がない。そうやって「ここ5年で20年分の人生を費やしたような気分だ」とまでいうほど骨身を削って書いた本が山田さんのもとに届いた。

そして読んで驚いた。こんなものを誰が読むのかと。

脚本家や演出家、俳優へのインタビューなど普通に読めるところは80ページほどで、残りの360ページあまりが単なる「リスト」なんだそうです。

孫引きになりますがそのまま引用すると、

『木枯の通る街』昭和三十六年十二月六日放送。脚本・光畑碩郎、演出・蟻川茂男、出演・津村悠子、檜敦子、久保賢、他。
『幻の女』昭和三十七年三月十四日放送。脚本・津田幸夫、演出・西村邦房。
(内容)一杯機嫌で行きずりの女と外泊した気の弱いサラリーマンをめぐって事件が起きる……。


すべてこんな調子で俳優の名前があったりなかったり、(内容)もあったりなかったり。こんな代物をいったい誰が読むのかと。私も同じことを思いました。


批評家としての山田太一
でも、ここからが山田さんの真骨頂です。

これは羊崎という人の「詩」なんじゃないかと山田さんは言います。限られた人だけが享受できる詩なのだと。

膨大な名前のリストから記憶、空想、感情が湧きおこるだろうし、何よりところどころの「欠落」こそが詩なんじゃないかと。

「羊崎さんはこのドラマの映像があちこちで発見されDVDで全作誰でも見られることを願っている一方で、実はそんな日の来ることを怖れてもいるのではないだろうか。この膨大な欠落こそ詩であり、そこから作品を想像する愉しさに比べれば、全作そろったときの喜びは、何かむき出しで余情に欠けるということはないだろうか」

うーん、深い。忘れていた大切な何かを取り戻させてくれる言葉ではありませんか。

例えば、私はバッド・ベティカーは見てないもののほうが圧倒的に多いし「全部見れたらいいな」といつも思っている。でも、あの映画はこんな感じなのかな、あれはこういう映画なのかな、という想像を実際に見たときの感動が超えたことはあまりない。

見たいと切望する時間が長くなればなるほど、脳内映画のほうが圧倒的に面白くなってしまっている。自分の頭の中の「詩」が、映画本体の詩情に勝ってしまう。


じんのひろあきの座右の銘
脚本家のじんのひろあきさんの座右の銘は「人生はいつでも文化祭前夜!」だそうな。

その真意はおそらく「いつでも文化祭前夜のような緊張感をもって努力に勤しもう、そして翌日の本番を夢想して楽しもう」ということなんでしょう。永遠に前夜の酔いの中に眠っていたい、というのは、先日感想を書いた梅崎春生の書名を借りて「怠惰の美徳」と呼んでみたい気もする。しかし、文化祭というものもドラマや映画と同じく当日を迎えたら「すぐに消えてしまう」ものだと考えれば別の感慨が湧いてきませんか?

実際に文化祭当日を迎えたら作ったり準備したもののすべてがすぐに消えてしまう。向田邦子が消える仕事の先手を打って終わった台本をすぐ捨てるといううのとは逆に、すぐに消えてしまうようなものは絶対に作らないぞ、という決意表明のように感じられてくる。ずっと残るものだけを作るのだ、でもそれは絶対にかなわない、という創作者の悲哀を帯びてもくる。

まぁ、じんのさんはたぶんそんなこと考えてないと思うけど、そういうことを考えさせてくれる力が山田太一さんの「消えた先の夢」という文章には漲っています。

『「七人の刑事」を探して 1961-1998』というほとんどの人間に価値のない本を読んで、そこに意外な「詩」を読み取った山田太一さんはやはり一流の批評家だと思います。







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2019年10月25日

久しぶりに再見した『妖怪人間ベム』もとうとう終わってしまいましたが、何度も見たあの結末に、これまでとはぜんぜん違う感慨をもつことができました。

前回までの記事
「階段を這う手首」(有神論と無神論の対立)
「すすり泣く鬼婆」(神と悪魔の違いとは?)
「墓場の妖怪博士」(ベムたちは妖怪人間ではなくロボット⁉)
「博物館の妖奇」(妖怪人間は「心」の問題)


人間になる方法をついに見つけた!
妖怪人間とは「心」の問題だと前回お話ししましたが、最終第26話で中心になる素材は心というか「魂」です。


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ベムたち正義感にあふれた妖怪人間とはまったく違う姉妹の妖怪が現れ、彼らは街で人間たちを拉致してきてその魂を喰らっている。ベロも肉体と魂に分離させられて喰われかけます。


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何とかベムとベラが助けに来てベロは助かりますが、姉妹妖怪の所業を見ていたベムとベラは「あること」に気づいてしまいます。それは「自分たちが人間になる方法」です。

肉体と魂を分離させられるなら、自分たちの魂を人間の肉体に植えつければいい。「どうしてこんなことに気づかなかったのか」とベムは自嘲気味に言います。

「悪い奴らをやっつければ人間になれる」というのはただの「思い込み」であることは前回までの記事で何度も言ってきました。そしてその思い込みを彼らに植えつけたのは他でもない、彼ら三匹を生み出したマンストール博士です。

しかし、ベムたちは「本当に人間になれる方法」を知ってしまいます。

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ベロと同じ年恰好の男の子を見たベラは「あの子にベロの魂を乗り移せば……」とベムに囁きます。

そうです。彼らはもう少しで人間になれたのです。しかし彼らはやはりマンストール博士が作った「心」に逆らうことができなかった。

「ベロの魂を移せばあの子が死んでしまう」

いくら悪い人間であろうと「人間だけは殺してはいけない」それがマンストール博士がプログラムしたベムたちの「心」であったことは「墓場の妖怪博士」の回でお話ししたとおりです。

だからベムたちは人間になる方法を知ったにもかかわらず、それを実行できない。そればかりか、

「俺たちのような存在がいなくなれば、人間たちに悪さをする悪鬼羅刹の類をやっつけることができなくなる」

とベムは主張し、ベラも従います。どこまでもプログラムされた「心」から彼らは解放されることがない。


枷は主人公の心のあり方にこそ
よく作劇の基本に「主人公に枷を設けよ」というのがありますが、あれを単純に「主人公の足を引っ張る脇役」と解釈してしまうととんでもなくつまらないドラマになってしまいます。(かつての私がそうでした)

『仁義なき戦い』など名作の数々を遺した笠原和夫さんは「枷は主人公の心のあり方にこそ求めるもの」と言っています。

ベムたちもマンストール博士がプログラムした「心」が手枷足枷となっています。「心」の通りにしか動けない。(ちなみに、人間の「心」とロボットの「機能」はどう違うと思いますか? 実は違いなんてない、というテーマで描かれるのが業田良家先生の『機械仕掛けの愛』です)


ベムたちはどうなったのか
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人間になれる方法を捨て、人間になれない方法、つまり悪鬼羅刹の類との戦いに戻ることを選んだベムたちが最後どうなったのかわからないまま物語は幕を閉じますが、あのまま焼け死んだのか、それともナレーションにあるようにどこかで生きているのか。私はどっちでもいいと思います。

問題は、彼らが死んだか生きているかではありません。彼らが人間になれる方法を知ったのにそれを捨てたということです。自分たちの「心」が手枷足枷となって捨てざるをえなかった。

もし彼らに「心」なんかなかったら人間になれた。悪を憎む心なんかもたされてしまったために永久に人間になれなかった妖怪人間の哀しみ。

それで充分ではないでしょうか。(おわり)


蛇足
マンストールってmanstallって綴るんじゃないですかね? コンピュータにソフト(機能)を植えつけることをインストール=installといいますが「マンストール」は「人間の心を植えつける」という意味では?







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