2020年01月25日

「私には私の地獄がある」という声に出して読みたい日本語で有名なフリーアナウンサーの宇垣美里が去年エッセイを出していると知り、読んでみました。




タイトルは『風をたべる』。サブタイトルの「makan angin」というのはマレー語でまさに「風を食べる」という意味で、そこから転じて「旅する」という意味になるそうな。初めて行く国や場所で胸いっぱい深呼吸すること、それが「旅」だということらしい。マレーシアは粋な国ですな。

さて、こんな本を読んでいると宇垣の大ファンみたいですけど、さにあらず。むしろ嫌いに近い。じゃあなぜ読んでいるかというと、彼女は私の高校の後輩なので妹のような感覚で応援しているだけ(後輩といっても私が卒業した年にまだ宇垣は生まれていなかった)。

とはいえ、前は「たいしてかわいくもないくせに」なぁんて思っていたけど、いまは結構かわいいと思っていたりする。好きなのかもしれない。好きになりつつある過程なのかもしれない。


悪女を目指す宇垣
ugaki-misato3

この本には印象的なフレーズが多いんですが、のっけからすごい。
最初の章は「宇垣のすべて」で、子ども時代の思い出や、ふるさと神戸と大学時代を過ごした京都への愛情が綴られているんですが、中学時代に吹奏楽部で顧問の先生から「主役、脇役、監督、脚本家、あなたは何になりたいの」と訊かれ

「誰よりも印象的な悪役で」

と答えたそうな。この言葉を発したときと、次の言葉を知ったのとどちらが先なのかはわかりませんが、ハリウッド女優、メイ・ウエストの言葉が最後のほうで紹介されます。

「Good girls go to heaven,bad girls go everywhere」(いい子は天国へ行ける。悪女はどこへでも行ける」

魅力的な悪女になってやろうじゃないかという宇垣は、級友たちがこぞって言っていたように、

「心の中にアウトローを飼っている」

のでしょう。


絶望を語る宇垣
ugaki-misato1 (1)

そんな宇垣だからやはり誤解されることが多く、絶望することも多いそうな。

次の言葉もすごい。

「諸行無常。人はみんな刺せば死にます。その程度の存在を恐れるでない。すべての喧嘩は法廷で争えます。だから生きぬけ」

人は刺せば死ぬ程度の生き物だから恐るるに足らず。うーん、、、人を見ればカボチャと思えという言葉はあるけれど、ここまで突きぬけた人間観も珍しい。そして、

「世間は厳しい。みんながみんな自分のことをわかってくれるわけじゃない。人生なんて本来哀しいものだし、人と人との間には絶対に埋められない溝がある」

という、ゴダールが『勝手にしやがれ』で語ったことを宇垣も共有しているようだ。いや、正確には脚本を書いたトリュフォーが言いたかったことか。ま、この際それはどっちでもいいが。


夜空のちから
しかし、絶望とともに生きると決めている宇垣も、やはり絶望したときには何かにすがりたくもなるようで、

「人に絶望したときは、空を見上げればいい。そこにあるのは太古からある美しさ。そして何百年も前の人が読んだ物語が輝くのだから」

夜空の星座を見上げて自分を奮い立たせるらしい。

「自分の力で手に入れた幸せは、何よりも尊い」

これは、そうやって耐え忍んで得た幸福を味わい尽くしている宇垣だからこそ言える言葉。私なんかすぐめげてしまうので見習わなくては。

私は小学校の卒業文集に「天文学者になりたかった」みたいなことを書いたくらい星座が好きだったくせに、最近まったく夜空を見ていない。昼間の雲すら見ていない。

何を見ているのか。あくせくする自分の心の中ばかり見つめていてはだめだ。フランスの哲学者アランが名著『幸福論』で書いている。「遠くを見よ」と。宇垣はすでにアランの域に達しているのだ。焦る。


旅する宇垣
一番すごいと思ったのは次のフレーズ。

「旅に出る前は水回りなどを特に念入りにきれいに掃除する。その理由は、帰ってきたとき整理整頓された部屋を見るとすごく気持ちがいいから。帰ってホッと一息ついたとき初めて旅行が完了する」

なるほど! 思い立ったらすぐ旅に出る人間だからこその言葉というか行動ですね。私は出不精で旅行なんて嫌いだからなぁ。一番最後の旅行はもう17年も前。ロンドンとシェイクスピアが生まれた町ストラットフォード・アポン・エイボンにブロンテ姉妹が生涯を過ごした村ハワースを訪ねたイギリス旅行があまりに濃かったからか、スペインに行きたいとか屋久島の縄文杉や出雲大社をこの目で見たいという野望はあるものの行けていない。慢性の金欠病なので宇垣のように思い立ったらすぐという芸当はできないが、いつか行こう。


最後はこのフレーズで締めくくりましょう。

「快適に生きることにストイックであれ」

言い換えれば「欲望に忠実であることに禁欲的であれ」ということか。なかなかうまい逆説。

とにかく後輩にこんなに教えられる経験も珍しい。「人生は死ぬまで勉強」と宇垣も言っているし、「明日死ぬかのように生き、永遠に生きるかのように学べ」とはガンジーの言葉。

まずは「人はみんな刺せば死ぬ程度の存在」というところから始めてみましょうか。


関連記事
宇垣美里が好きになった(週刊文春エンタを読んで)
神戸の女は品がいい?(滝川クリステル、宇垣美里、大橋未歩、etc.)






2020年01月22日

Fさんにまつわるあれやこれや

いまの職場にはとても面白い人がいます。

以下、特徴を箇条書きにしてみます。

・みんなから嫌われている。
・仕事を憶えようとしない。
・そのくせ偉そうに命令だけはする。
・「私は指示する人間です」と自分の地位にあぐらをかいている。
・自分自身を客観視できない。
・顔がドラキュラみたい。

というような感じです。まぁどこにでもいると言えばどこにでもいる輩ですな。

この人(仮にFさんとしましょう)について昨日、仰天してしまうことを聞きました。

何でも、私にパワハラ告発されるんじゃないかと恐れているらしい、と。


なんでやねん

確かに去年、自分のことを棚に上げて他人を非難してばかりなので一喝したこともあるし、その半年後くらいには別の部署の問題児(この人も確かに問題多いけどFさんに比べたらまだまだかわいげがある)のことをトップの人に直談判したことがあり、結構いろんな人に聞こえていたみたいなので、それで恐れているのか。

どちらにしても「パワハラ」という認識はまったく違うでしょう。

あの人はパワーハラスメントをしているのではなく「自分には何ができて何ができないかがわかっていない」ことに問題がある。

自分はこの仕事ができない、あるいは苦手である。

そういう認識をもって初めて「これは誰それに聞いて憶えよう」「こっちは他の人に聞こう」という行動が生まれるわけで、自分にできることとできないこと、わかっていることとわかっていないことの区別がつけられることをほんとの「知性」だという、というのが私の持論なのだけれど、Fさんには「知性」がない。

それが最大にして唯一といっていい問題なのに「パワハラ告発を恐れてる」って、それこそ自分が抱えている問題がわかっていない、つまり知性がないということ。

Fさんに教えてあげたくてうずうずしてしまう。あなたは言葉の本当の意味で頭が悪いんですよ、と。「何かがわからない」ことを頭が悪いとは言いません。「何がわからないかがわからない」ことを頭が悪いというのです。

しかしま、Fさんのおかげでそれ以外のみんなが一致団結できているので、いい効果もあるのかもしれない。(そういえば1年前はHさん以外のみんなで一致団結していたっけ。Hさんはもういまやれっきとした我がチームのリーダーですぜ。愛すべき天然ボケ)


弟子がほしい件
さて、話題はガラリと変わって、別の部署の女性に弟子ができたんですね。と思っていたら、その人が近々辞めると今日になって聞きまして、だからただの引継ぎなんですけど、しかし弟子には違いない。

私もホテルの客室清掃の副責任者をやっていたときは新人にベッドメイクを教えたりする側だったからわかるけれど、その女性が弟子に仕事を教えている姿がとても楽しそうなんですよ。

images.jfif

そう、確かにあれは楽しい。

弟子がこちらの「教えてあげたい気持ち」をくすぐってくれると教え方にも熱がこもってしまう。

そして、教えているうちに「自分はこういうことがわかっていない」ということに気づかされる。弟子の無垢で素朴な質問にハッとなることがある。

そのとき師匠として「学び直さなければ」という気持ちになる。

よく「地位が人を作る」というけれど、それは「この地位にふさわしい人間にならねば」という気持ちがその人自身を成長させるからでしょう。

だから、Fさんは長らく指導的立場にいたらしいけれど、そういう立場にあぐらをかいて学ぶ気持ちをおろそかにしてきたからあの歳でその地位にふさわしくないどころか、子どもみたいなわがままを言い、挙げ句の果てに「パワハラ告発されるのでは……」などという頓珍漢な疑惑が頭の中で渦を巻いているのだと思う。

私は弟子がほしい。つまり後輩がほしいのだ。別の部署では後輩が何人もいるが、その部署では指導的立場の人間しか教えてはいけないことになっているので師匠になれない。

本来の部署と別の部署と両方の仕事ができるのは実は私だけで(いまのところ)今日はそれをほめてくれる人がいたのだけど、それはあくまでも私が「弟子として優秀」であることにすぎず、やはり師匠として優秀であることも見せなければFさんのことを笑っていられないな、というのもまた事実。

というわけで、嗚呼オレも弟子がほしい、と思った真冬の雨中でした。


関連記事
令和改元! 「天皇」を考える(職場にもある天皇制)





2020年01月18日

先日発表されたアカデミー賞ノミネーションにおいて、演技部門にノミネートされた有色人種が一人だけだったとかで「多様性の欠如」と批判されているとか。

stephen-king

そこへアカデミー会員でもある小説家のスティーブン・キングが、

「芸術において多様性を考慮したことは私は一度もない。クオリティだけだ。それ以外は間違った行為だと私は思う」

という発言をして非難の集中砲火を浴びているとか。

まったくナンセンス!

キングの発言がじゃなくて、キングが非難されることがです。

キングはちゃんと機会の平等は担保されるべきだって言ってますよね。機会の平等が担保されているかどうかが大事なのであって「結果の平等」まで求めるのは無理筋です。最近はいつでもどこでもPC=政治的正しさばかりを求める人が増えてしまいました。困った風潮だと思います。


5c6320fa3b000075036ac7fb

『華氏911』という映画がありました。ジョージ・W・ブッシュを批判することは「政治的に正しい」行為でしょう。しかし、この映画は政治的な主張をすることに躍起になってしまったために致命的な欠陥があります。

それは「ブッシュがアルカイダと結びついている」という作者の言いたいことをナレーションで語るだけ、というもの。映像的な裏付けが何もない。ただ言いたいことを垂れ流しているだけの映画でした。

つまり、政治的主張が正しいからといってその映画が優れていることにはならない、ということです。

多様性というのは大事なことでしょうが、その追求のために作品の質が落ちたんじゃ意味がない。今回ノミネートを逸した作品がそうだとは言いません。ほとんど見てないし、見てない以上は口が裂けても言えない。(しかし世の中には見てない映画のことを語る輩が何と多いことよ)

確かに、結果の不平等は機会の不平等につながります。

「ノミネートされただけでも家が建つ、日本とはえらい違いや」とは、私に映像編集の極意を教えてくださった谷口登司夫さんの言葉ですが、ノミネートされればギャラも上がってオファーも増える。機会の平等を追求するためには白人男性ばかりの会員の構成を是正していくべきです。(すでにいろいろと手は打ってあるみたいですけど)

しかし、それは映画芸術科学アカデミーという「組織」が考えるべきことであって、純粋に「一個人」が投票するときに結果の平等など考えなくていい。

これが面白かった。これもよかったけど、あっちのほうがよかった。

お祭りなんだから無邪気に楽しめばいい。お祭りに政治などもちこんでもらっては困る。