2020年03月09日

脳科学者・中野信子さんの『悪の脳科学』を読んだら、これが藤子不二雄Ⓐの『笑ゥせぇるすまん』の解説書で、興味をもって全5巻を読んでみました。

その昔、大橋巨泉が司会をしていた『ギミア・ぶれいく』という番組でアニメ版が放映されていて、確か見ていた気がするんですがほとんど記憶にない。だからほぼ初体験に等しい。

めちゃくちゃ面白かったわけじゃないけど、楽しく読みました。

そういえば、かつて京都に住んでいた頃、『笑ゥせぇるすまん』がまったく好きになれない、あれはダメだと言っていた友人がいたんですね。

彼が『笑ゥせぇるすまん』を嫌う理由はつぶさには知りませんが、おそらく市井の普通の人たちを不幸のどん底に叩き落とすのがいやだったんでしょう。映画に関する意見も似たようなことを言っていました。

例えば、「的中屋」という一編。


的中屋
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実家から仕送りをしてもらっている学生が競馬にはまり、仕送りのお金をすべてすってしまう。そこへ現れた喪黒福造が当たり馬券を教えて大儲けさせてやる。

喪黒の言うとおりに張れば大儲けできると思った学生はやくざから20万の金を預かり、増やすことを約束する。が、喪黒はそんな彼を遠くから見つめるだけ。学生は喪黒がいないから自分の勘に頼って20万すべてすってしまう。そこへ喪黒が現れ「最終レースには間に合いました。私の言うとおりに買えば儲かりますよ」というが、学生はもう殺されるだけだと肩を落として去っていく。

博打にはまるのは誰にでもありうることで、そういう普通の人を奈落の底に突き落とすのを何よりの悦びとしている喪黒福造に友人は反感をもったのでしょう。

『笑ゥせぇるすまん』はほぼすべてがこの話型です。初めはいい目を見させてやるものの、そこから深みにはまり、喪黒の「深入りするな」という約束を破ったためにとんでもなく不幸な目に遭う。


笑いと戦慄
友人の意見もわかるものの、『笑ゥせぇるすまん』の面白さは、まさに市井のごく普通の人が金や女など誰にでも理解できる「原始的な欲求」にはまってしまい、深入りするなと言われるからよけい深入りしてしまい破滅するところにあるんじゃないでしょうか。

喪黒福造が「これだけは約束してください」と言って約束させるとき、読者は「あぁこの人も約束を守れず破滅するんだな」と期待してしまう。主人公が破滅するのを期待し、その期待に応えてくれるのがこのマンガの面白さでは?

「人間なんてみんな弱い存在」というのがこの作品のテーマなんでしょうが、そんな小賢しいことを言わずとも、堕ちていく人物たちを笑い飛ばす自分の冷酷さがそのままブーメランのように己の胸に突き刺さってくるのも感じます。

つまり、自分がもし主人公だったら同じように破滅するだろう、ということ。主人公を笑いながら、同時に戦慄もする。

誰もが喪黒福造の手にかかると破滅せざるをえない。誰もがファウストであり、メフィストフェレスの甘い囁きに勝てる者などいない、という作者の世界観は現実をシビアに見つめるリアリストのものですが、同時に当たり前すぎて面白みに欠けるのも確か。

だからこそというべきか、私は喪黒福造と約束を交わさない人物の話のほうが好き。

約束を交わしていないのだから破ることもない。でも彼らは不幸になる。少なくとも幸福にはなれない。


例えば「見おろす男」という一編。

見おろす男
後輩の上司にガミガミ怒鳴られてペコペコばかりしている男が、喪黒福造のアドバイスに従って高層ビルの屋上で外界を見下ろしながら一週間生活してみると、完全に上から目線の男に変身する。


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こうやって大いに溜飲を下げた男に待っている不幸とは……

一週間家に帰らなかったために久しぶりに家に帰ると奥さんに入れてもらえず、再びペコペコする男に逆戻りしてしまう。

一週間見下ろす生活をすれば変身できる、しかし、奥さんから愛想もつかされる。これは喪黒福造の完璧な計算でしょう。誘惑に負ける主人公自身の弱さではなく、喪黒福造の奸計がオチを招く。

こういうもののほうが面白い。

そして「夜行列車」という一編はさらにその上を行きます。


夜行列車
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日々の生活にうんざりする初老のサラリーマンが、喪黒福造の「夜行列車に乗って日常から逃げてみては」という悪魔の囁きによってまったく知らない田舎町に行く。そこで小料理屋の美しい女将と仲良くなり、すべてを捨てて住みつこうかと考える。

が、喪黒福造が「一度家に電話なさっては」とテレホンカードをくれたのでかけてみると、「ママが倒れたのよ!」という娘の声。男は家族を捨てきれず、理想郷を捨てて自宅へ戻る。

これなどは喪黒の奸計といえば言えるけれども、完璧な計算ではないですよね。奥さんが倒れるなんて計算外だろうし、娘から帰ってきてと言われてもあのまま住みついてしまっていたかもしれない。

でも、とも思う。

大金や美女に目がくらみ、欲望の虜になって破滅するのも人間の弱さのひとつでしょうが、美女より糟糠の妻を選ぶのも人間の弱さかもしれない。すべてを捨てて己の欲望のままに……と思っていても、本当は捨てたくなかった、捨てられるわけがなかった、という「夜行列車」はほとんど「文学」の域に達しています。

「終わりなき日常」なんて言葉がはやった時代もありましたが、そういう「日常」を何よりも愛しているのが人間だ、美女やカネよりも、目くるめく陶酔や安寧よりも「終わりなき日常という蟻地獄」を愛しているのが人間だという新しい思想が「夜行列車」には息づいています。

だからデマとわかっていもトイレットペーパーやティッシュを買い占めるのか。日常を壊されたくない人々の心理が少しはわかった気がします。

『笑ゥせぇるすまん』の面白さを教えてくれた中野信子先生に感謝。


悪の脳科学 (集英社新書)
中野 信子
集英社
2019-11-15





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2020年03月07日

松竹ヌーベルバーグを牽引した吉田喜重監督による1986年作品『人間の約束』。


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吉田喜重といえば、何といっても『秋津温泉』やデビュー作の『ろくでなし』や『血は渇いてる』『嵐を呼ぶ十八人』『戒厳令』、はたまた私はまったく好きではないが『エロス+虐殺』などを代表作に挙げる人が大方でしょう。

が、私はこの『人間の約束』こそ吉田喜重の最高傑作だと信じて疑いません。

その理由は、この記事のタイトルにもしている「異様なクライマックス」にあります。

その前にあらすじをご紹介しましょう。(以下ネタバレあります)


物語
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ある郊外の一軒家で痴呆症の老婆・村瀬幸子の死体が発見される。首に絞めた痕があることから殺人事件として捜査され、夫の三國連太郎が「自分がやった」と自首する。しかし三國もまた呆けており、若山富三郎と佐藤浩市をはじめとする刑事たちは困惑する。ほんとにこのボケ老人がやったのか、と。

そこから物語は過去にさかのぼり、いったい誰が村瀬幸子を殺したかが明らかとなります。

息子の河原崎長一郎は不倫をしており、妻の佐藤オリエは村瀬の世話と愛人への嫉妬から精神が不安定となり、風呂場で沈んだ村瀬を放置してしまい「殺そうとしてしまった」と告白する。

が、本当に殺したのは河原崎長一郎であった。村瀬が愛用していた水鏡の水に母親の頭を軽く押し付けただけだが、そのとき喉に入った水を飲みこんだことが死因となったことが判明する。警察署で三國と対峙した河原崎は「お父さんは僕がやったのを見ていたじゃないですか」と言うが、三國は「“あいつ”がやった」と言うばかり。

明日からあなたを事情聴取しますと言われた河原崎は、佐藤オリエの反対を押し切って自首して終幕。

うーん、やっぱり「映画のあらすじ」ってどう書いてもつまらないですね。あらすじに映画の本質は決して浮かび上がってこない。だから高名な脚本家は「絶対にあらすじを書くな。考えてもいかん」と言っていたのか。

あらすじではなく「脚本」あるいは「プロット」という観点から見ると非常に結構が堅牢で見事なまでに構成されており、プロの仕事とはこういうのを言うんだろうなぁと激しく嫉妬してしまうのですが、今回はそういうのもほとんどどうでもいい。

村瀬幸子の水鏡や、三國が病院で唖然と自分を見つめる鏡、河原崎長一郎と佐藤オリエが食事をするレストランの窓を鏡代わりにした描写など、鏡を介した視線のドラマが印象的で、後年、『鏡の女たち』を撮る吉田喜重監督の面目躍如といえる巧みな映像演出がそこかしこにあって飽きることがありません。が、私がこの映画を見ていつも興奮するのはそういう巧みな演出ではなく、ほとんど蛮勇に等しい映像演出です。

それが「お父さん、あなたは見ていたじゃないですか」と河原崎が三國に言って父子が対峙するクライマックスです。


イマジナリーライン
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図のように、対峙する二人の人間をカットバックする場合、二人を結ぶ直線がイマジナリーラインです。いったんAの位置にカメラを置いたらもう片方の人物を取る場合はBの位置からしかありえません。イマジナリーラインを越えてCから撮った映像とカットバックしてしまうと二人の人間が向かい合っているように見えない。つまり、視線が合わない。(これが3人、4人と人数が増えるとイマジナリーラインは直線ではなくものすごくややこしくなります)

小津安二郎はイマジナリーラインを無視していたとよく言われますが、あれはほぼ真正面からのショットなのであまり気にならない。

でもこの『人間の約束』のクライマックスにおけるイマジナリーラインを無視するやり方はほとんど無謀ともいえるものです。

かつて現場で働いていたとき、カメラマンから直接こんなことを聞きました。

「プロのカメラマンは人物が3人になっても4人になっても顔の向きがどっちを向いていようと、役者の並びを見ただけで一瞬でイマジナリーラインがわかる。そしていったんカメラを置いたら、イマジナリーラインを越えてカメラを置こうとしても体が動かない。無意識が拒否するんだ。平気でイマジナリーラインを越えられるカメラマンはカメラマンじゃないよ」

だからこそこの『人間の約束』は異様なのです。変てこりんなのです。

河原崎長一郎と三國連太郎が対峙するクライマックスは二人がまっすぐ向かい合っているので、図と同じように一番簡単なイマジナリーラインが引かれます。

なのに、大胆にも吉田喜重はイマジナリーラインをどんどん越えます。ど素人でも「監督、そっちにカメラは置けません」と言いたくなるような越え方です。視線がぜんぜん合っていない。合わなすぎて冷や汗が出るほど。

三國はもう呆けており、また息子を守ろうとしているのか、河原崎が「お父さん、あなたは見ていたじゃないですか」と言っても「あいつがやったんだ。あいつが!」と話が噛み合わない。きっと、噛み合わない会話の映像的比喩として噛み合わない視線を描出しているのでしょう。

ヒッチコックの『めまい』は「横顔のドラマ」でしたが、『人間の約束』は「視線のドラマ」といっていいでしょう。


小津と吉田喜重
かつて吉田喜重監督がいまわの際の小津安二郎から「映画はドラマだ。アクシデントじゃない」と言われたことを考えると感慨深いものがあります。

イマジナリーラインを越えるのは普通は「アクシデント」でしょう。でも、それを狙いをもった「ドラマ」としてうまく活用した吉田喜重。小津への敬慕と「してやったり!」な快感の両方が伝わってきます。


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もう90歳近いですが、新作を見ること叶わないのでしょうか。

関連記事
ヒッチコック 横顔のドラマ(『めまい』『サイコ』をめぐって)








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2020年03月03日

『コタキ兄弟と四苦八苦』は第1話がとても面白く(感想は⇒こちら)あの感じで押してくれるのかと思ってたら期待とは違ったので、最近見るのが億劫だったんですが、昨日の第8話「五蘊盛苦」がとても面白かったので筆を執りました。


女の悲哀を描くにあたって男の体が入れ替わる?
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今回の主人公は喫茶店「シャバダバ」のアイドル、さっちゃんこと芳根京子。前回出番がなかったので作者が見せ場を作ってあげたんでしょう。

しかしながら、それならそれで芳根京子のほうに何らかの仕掛けをするのが普通でしょうが、野木亜紀子さんはそんな凡庸なことはせず、古館寛治と滝藤賢一の体を入れ替えるという奇策に打って出ました。

これはすごいことです。

だって芳根京子の話なんですよ。なのに主役とはいえ兄弟のほうに仕掛けをするというのはなかなか思いつきません。

で、Y字路で流れ星を見たのが入れ替わりのきっかけだと判明し、その結果、芳根京子も交えて三人でどんどん体が入れ替わる乱打戦になる。芳根京子の体になった滝藤賢一が「お約束だろう」と胸を揉もうとしたりするんですが、その過程で、芳根京子が同性愛者で「男になりたい」という願望をもっていることが明らかになります。

なるほど、そのための体の入れ替わりだったのか。それで「五蘊盛苦」だったのか。

私も御多分にもれず仏教用語には詳しくないんですが、番組では「肉体と心がうまくいかない苦しみ」(でしたっけ?)というような簡単な説明でしたが、実際はいろいろと複雑な意味のようです。

私は同性愛者ではないからよくわからないが、もしそうだったら「女になりたい」と思うものなのかしらん。ぜんぜんわからない。でも、芳根京子が「男になりたい」と思うということは、同棲していた恋人は「女のままでいたい」と思ってたってことですよね。違うか?

ただ、野木亜紀子さんがすごいのは「五蘊盛苦」に苦しむ一人の女性を解放する言葉として「すべての道はローマに通ず」をもってきたことですね。


すべての道はローマに通ず!
作品内でこの言葉は、

「どれだけ遠回りをしても、最後はあるべき場所にだどり着く」

というような意味だと古館寛治が滝藤賢一に教えますが、その前にクドカンが芳根京子に言う言葉が秀逸です。

「五蘊は空です。あなたはあなたがあなたをあなただと思うからあなたなのであり、他の誰かがあなたをあなただと思うからあなたなのです」

芳根京子は理解できないと言いますが、そんな彼女にクドカンは「すべての道はローマに通ず!」と指差します。

その先にあるのは……

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この少女はかつての芳根京子であり、二人の男は古館寛治と滝藤賢一であることが明らかとなります。

これはどういうことなんでしょう?

芳根京子は紆余曲折を経て「あるべき場所」へ帰ってきた。その「あるべき場所」がコタキ兄弟のいる喫茶店「シャバダバ」ということのなのでしょうか。

確かに彼女はそこで爆睡していた。その間、客の兄弟が店を切り盛りしてくれていた。彼女にとってあの店は「ふるさと」なのかもしれません。

が、かつて恋人と同棲していた部屋は「もうない」とも言っていた。あの部屋は、つまりあの恋人は一緒にいるべき人間ではなく、芳根京子にとっての「運命の人」とはコタキ兄弟のことなのでしょうか。

そこらへんはよくわかりません。

私が感服したのは、一人の女性の「五蘊盛苦」を描くにあたって「男の体が入れ替わる手」を使ったということ。しかもそれが夢だと判明したあとに仏教用語とはまったく関係ない「すべての道はローマに通ず」がすべてを解決に導いてしまうアクロバティックな作劇!


芳根京子
ただ、惜しむらくは、芳根京子がそのような複雑な情感を表現するにはまだ役者として未熟であるというところでしょうか。監督の演出も役者の想像力もぜんぜん足りない気がします。シナリオがまずかったらすべてが台無しになっていたかも。


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とか言いながら、私はこの女優が好きになってきたのでありました。「変な顔」だと思っていたけど、すごくかわいくなってきたと思う。





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