2020年05月11日

自粛警察が跋扈するなど、コロナのおかげでこの国の陰湿なところが顕わになっている今日この頃ですが、三密を断つ、ということで通常の映画も連ドラも撮影中断。

それにめげず、「いまだからこそ」作るべき作品を作る人たちがいることに拍手喝采、感謝感激。

といっても私が見たのは、NHK『今だから、新作ドラマ作ってみました』の第二夜「さよならMyWay!!!」と、上田慎一郎監督の新作『カメラを止めるな! リモート大作戦!』の2本だけ。(ジャ・ジャンクーの『来訪』も見たけどあれはリモート撮影ではない)

両方とも面白くなかったです。でも、ここでは作品の優劣は特に問題ではありません。面白い面白くないよりも「リモート撮影の限界」が論旨です。


「さよならMyWay!!!」
sayonaramyway

NHKの「さよならMyWay!!!」では、主人公・小日向文世の亡妻・竹下景子がパソコン画面に突如現れるところから話が転がります。

竹下景子はあの世からというとんでもなく「リモート」な出演で、当然のことながら二人のツーショットはありません。延々とパソコンの中の連れ合いとの喋くりが描かれます。

あくまでもいまは濃厚接触を避けるためにリモート(遠隔)撮影をしましょう、というだけなのに、作品世界の設定も「遠隔」というのはいかがなものか。

映画は今日撮ったカットと100日前に撮ったカットをつないでもそれらしく見せることができるメディアなのに。もったいない。


『リモ止め』の戦略
rimotome2

『リモ止め』では画像のように、それぞれ自宅に引きこもった俳優さんに自分自身を撮影してもらう。

台本上は同じ部屋にいる設定であっても、別個に撮って編集でつなぐとの監督の指示があり、自分で首筋をこちょこちょし、別個に撮ったこちょこちょする手とつなぐという手法。これを『カメ止め』の監督らしく、すべてばらしたうえで見せています。

だから「さよならMyWay!!!」とは違い、作品世界では同じ場所に二人の人物がいるわけです。

しかしながら、その二人を別個に撮るという監督の指示がばらされている。舞台裏をばらすことで逆に面白さを醸し出そうという戦略は、特に面白いものではありませんでしたが、戦略としては充分アリだと思います。

しかし……


映像リテラシーの問題
あれは阪神大震災の年だからもう25年前ですか。ハリウッド俳優が日本のCMに大挙して出ていた頃のことですが、ハリソン・フォードが筒井道隆と一人の女優(誰だったか忘れた)と共演! みたいな言われ方をしていたCMがあったんですけど、ハリソン・フォード一人と、筒井道隆と女優のツーショットがカットバックされていたんですね。

「これ共演じゃなくて別撮りじゃないか!」

と専門学校の同期生と笑ってしまいましたが、「普通の人は別々に撮ってるってわからないんだろうなぁ」と誰かが言っていました。

だから、リモート撮影であっても、「さよならMyWay!!!」のように舞台設定も別々にしないといけなかったり、『リモ止め』のように舞台設定は同じでもそれを別個で撮っているというネタばらしが必要になってくるんだな、と。

もし、別撮りの映像をうまくつないでまるで室内で仲良く団欒している(ような)シーンやスポーツに興じている(ような)シーンを見せても「どこがリモート撮影なんだ!」というクレームが出るんだろうなと思った次第。

一般の観客にそういう「映像リテラシー」を求めるのは野暮でしょう。みんなが映像リテラシーなんかもってしまったら作り手はかなり作りにくくなっちゃいますもんね。映画を作ったことのある人ならわかると思いますが、映画なんて最終的には「いかにごまかすか」ですから。

だから、「リモート撮影」という条件で一番個性を発揮できるのは、いいか悪いかは別にして、やはり『カメ止め』の上田慎一郎監督ということになるのでしょう、と思ったところで、カットカット!


マッケンドリックが教える映画の本当の作り方
アレクサンダー・マッケンドリック
フィルムアート社
2009-09-28







  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2020年05月06日

ツイッターのフォロワーさんが、あの水野晴郎氏の『シベリア超特急』なみにすごい、と言っていたので非常なる興味をもって『M 愛すべき人がいて』1話から3話までを見てみました。


4d66e655c4675d83e3896fd22e96db76_640px

いやいや、これは『シベ超』なんかと比べるのは失礼ですよ。同じく珍作ではありますが、まったく作法を知らずに作られた『シベ超』よりこの『M』のほうが断然面白い。私の大好きな金子修介監督のこれまた珍作『プライド』(満島ひかり主演)に通じるものを感じました。


しっかりした結構
鈴木おさむ氏による脚本はとても結構がしっかりしていると思います。

上京して女優を目指す女の子アユが、マサというプロデューサーとの出逢いで運命が変わっていく。

その直線上に、ライバルの女の子たちや、会社の社長(高嶋政伸怪演)、得体のしれない秘書(田中みな実)が立ちはだかる。周りの環境が彼女を締めつける。ときにはマサもアユをいじめぬく。アユはそれらに打ち勝ち、頂点へまっしぐら。でもまた困難が立ちふさがり……

というメロドラマの構成がとてもしっかりしていると思いました。しっかりしているから臭いセリフも聞いていられるのでしょう。


臭いセリフ・いいセリフ
01

「俺の作った虹を渡れ!」
「あいつを選んだのは俺じゃない。俺を選んだのも俺じゃない。あいつを選んだのは、神様だ」

とかの臭すぎるほど臭いセリフのオンパレードですが、一方で、

「誰かを育てるときに大事なのは、自分も育とうとすることだ」
「未来は見えません。でも未来は作れます」

といった普通にいいセリフもありました。

いずれにしても、このドラマは「セリフを聞かせる」ことに注力しています。映画じゃなくてテレビドラマだからそれでいい。(『プライド』は映画でしたけど、あの映画の満島ひかりはヤバいほどにすごかった)

セリフを聞かせることにおいて、意識的かどうかは定かではありませんが、監督さんの編集コンセプトがかなり関わってきているように感じました。


常に喋っている人物を見せる
普通の映像作品なら、セリフのずり上げやずり下げということが行われます。

この『M』でもずり上げはあります。前のシーンの映像に次のシーンのセリフを乗せるとか。

でも、ずり下げはない。普通のずり下げは、喋っている人物のカットを割って、対面してそのセリフを聴いている人物のアップに切り替える手法ですが、この『M』ではそれがほぼありません。

常に喋っている人物が画面に映っています。そして喋り終わった途端、カットを割って聞いていた人物の無言のリアクションをしばらく見せてからその人のセリフを言わせる。ほとんどのシーンでこういう編集がなされているので意識的なのでしょう。(癖なのかもしれませんが)

編集をやっていた経験から言うと、常に喋っている人物を映すのってダサい感じがするんですよね。たまには聞いている人物にセリフを乗せたくなる。

この『M』も最初はダサさを感じました。でもここまで徹底していると、逆に、臭いセリフや大仰なセリフ回し、それらをすべてその人物の顔とともに見聞きするので、より大仰な感じがしていい意味でのケレン味が出ていると感じました。

第3話では普通にずり下げしている場面が数か所あるんですよ。監督が変わったからでしょう。でも1話と2話の木下高男監督は徹底してずり下げを行わない。

いや、1話と2話でそれぞれ一か所だけずり下げが行われたシーンがありました。

1話の、マサがアユに「女優をやめて歌手を目指せ。目の前の人間に伝わるように歌え」という場面。
2話の、天馬がアユに「目の前の人間に伝わるように歌いなさい」という場面。

あそこは聞いているアユの表情こそ大事ですからね。どちらも序盤の核心的なセリフですし。

特に1話では、田中みな実の奸計によってストーカーとして追い出されそうになったアユが、マサに伝わるように歌うことで窮地を脱しますし、2話では、伝わるように歌うことを習得したアユの成長が描かれますから。

ここぞというときだけずり下げを行った編集の勝利ではないかと。

以下は蛇足です。


田中みな実が笑える
M-tanakaminami

誰もが言うことでしょうが、マサの秘書を演じる田中みな実がすごい。臭すぎるほど臭い芝居ですが、あの役はあれぐらい臭くて大仰じゃないと成り立たないでしょう。

片目を失った背景を早く知りたい。あの眼帯の奥がどうなってるのか見たくてしょうがない。

というか、これってあの大映ドラマの名作『スチュワーデス物語』のパクリですよね。


t02200165_0320024012457573884

義手をはめた片平なぎさが風間杜夫に迫るシーンが毎回ありました。『M』でももっと田中みな実をフィーチャーすべきじゃないかなぁ。せっかく出てくるだけで笑えるおいしい役なのに。


清水美紀はもっと笑える
472927

アユに歌唱法を教え、根性を叩きこむ天馬先生を演じる水野美紀はもっと笑えました。

田中みな実は本業が女優じゃないからあそこまであざとい芝居をするのにも躊躇はないんでしょうが、清水美紀は曲がりなりにも女優なので、だいぶ照れがあったんじゃないですかね。でもその照れがいい。

アユを演じる安斉かれんも水野美紀の芝居に笑みをこぼしてましたよね。あれをNGにせずそのままオンエアにすることに決めたのは素晴らしい。ここまで臭くて大仰なんだからああいうのもOKにしましょうということですね。単にスケジュールの問題だけかもしれませんが。


というわけで、コロナのせいで撮影中断し、次の第4話をいつ見れるかわからないのが残念でしょうがない。

でも、『半沢直樹』や他の作品のように、最初からすべて延期にしなかったのは、途中まででもあまりに笑えて話題になるから、という計算なのでしょうね。放送再開されたら視聴率トップに躍り出たりして。





  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2020年05月04日

新聞の書評欄で興味深く取り上げられていた、イタリアの気鋭作家パオロ・ジョルダーノのエッセイ集『コロナの時代の僕ら』(早川書房)を読みました。


paolo

パオロ・ジョルダーノといえば、確かずっと前に新聞のインタビューで、

「書くことで世界を変えることはできないかもしれない。でも自分が変わることはできる」

という名言を語っていた人だと思います。(⇐あやふやですが、たぶん)

世界を変えることはできないかもしれない、でも自分が変わることはできる。だいぶ消極的ですが、自分が変わることで世界を変えることを希求する気持ちはよく理解できました。

しかし、この数年でだいぶ考えが変わったようです。この『コロナの時代の僕ら』は積極的に「世界を変えよう」という意志にあふれています。


僕は忘れたくない
20200410-paologiordano_panel

訳者が言っているように、最後に置かれた「コロナウイルスが過ぎたあとも、僕が忘れたくないこと」と題された著者のあとがきが一番印象深い。日本版にだけ特別に掲載が許可されたとか。(なぜだろう)

マーティン・ルーサー・キングのあの有名な「私には夢がある」という演説のように、印象的なリフレインがあります。(以下、一部抜粋)


・僕は忘れたくない。最初の数週間に、初期の一連の控えめな対策に対して、人々が口々に「頭は大丈夫か」と嘲り笑ったことを。

・僕は忘れたくない。結局ぎりぎりになっても飛行機のチケットを一枚キャンセルしなかったことを。この自己中心的で愚鈍な自分を。

・僕は忘れたくない。頼りなくて、支離滅裂で、センセーショナルで、感情的で、いいかげんな情報が、今回の流行の初期にやたらと伝播されていたことを。

・僕は忘れたくない。今回の緊急事態があっという間に、自分たちが、望みも、抱えている問題も、それぞれ異なる個人の混成集団であることを僕らに忘れさせたことを。

・僕は忘れたくない。ヨーロッパが出遅れたことを。遅刻もいいところだった。

・僕は忘れたくない。今回のパンデミックそのものの原因が秘密の軍事実験などではなく、自然と環境に対する人間の危うい接し方、森林破壊、僕らの軽率な消費行動にあることを。

・僕は忘れたくない。パンデミックがやってきたとき、僕らの大半は技術的に準備不足で、科学に疎かったことを。

・僕は忘れたくない。誰かを元気にするどころか、自分すらろくに励ませなかったことを。


ヨーロッパが遅刻もいいところなら日本はどうなるのか、とも思うけれど、いまそれは措きます。

著者はこのような文章を書くことで、まず自分自身がコロナ以前に逆戻りしないよう厳しく戒め、変わろうとしている。そしてこの文章を公にすることで周りを、世界を変えようとしていることに感動しました。


コロナ以前/以後
そして著者はこう問いかけます。

「すべてが終わったとき、本当に僕たちは以前と同じ世界を再現したいのだろうか?」

いま日本ではコロナ騒動にかこつけて「学校の9月入学」を実現しようと躍起になっている人たちがいます。

私は賛成であり同時に反対です。

小中高大すべてを9月入学にするなら、単に世界と足並みをそろえるというだけの話でしょう? 留学生を受け入れやすくなるという皮算用だけでしょう?

高校の卒業式直前の学年集会で、ある教師がこんなことを言いました。

「君たちの中から将来この国の中枢を担う人材が出たら、そのときは大学の入学を9月に変えてもらいたい」

そうすれば、高校を卒業してから受験勉強しても間に合うし、おそらく7月と8月は夏休みでしょうから、大学卒業は6月末くらいですよね。そこから就職活動を始めて次の年の4月に入社。という考え。

つまり、大学の入学時期だけを9月に変える。それだけで3年間の高校生活も4年間の大学生活も充分エンジョイすることができる、という主旨でした。

いまの議論には学生たちのためを考える気持ちがないように思われるのは私だけではないでしょう。確かにコロナ以前とは違う世界を生み出そうとしていますが、形だけ変えようとしているように感じられます。

私が高校を卒業したのはバブル真っ盛りの頃で、日本中が浮かれていた。そういうときでさえ冷静に考えている人が確実にいた。

いま、現代人のほぼ全員が初めて直面する未曽有の事態が起きているのだから、せめてパオロ・ジョルダーノが数年前に語っていたように、「自分を変える」ところから始めていただきたい。

世界を変えることはできないかもしれない、でも自分が変わることはできる。

これはやはり「自分が変わることで初めて世界を変えることができる」という意味でしょう。

政治家のみなさんにはぜひ「あなた自身がまず変わってください」と言いたい。



見ず知らずの人への礼儀
いまは街なかや電車の中など家の外ではマスクをするのがエチケットになっています。マスクをしてないだけで白い目で見られる。

何しろ、移される危険性もありますが、知らず知らず自分がウイルスをもっていて移してしまう危険性もあるん。だからマスクをするのがエチケット。

こういう「見ず知らずの人に対するエチケットやマナー、礼儀」というのはコロナ以後の世界でも続いてほしい。

常にマスクをつけるという意味ではなくて、例えば、先日ニュースでやっていた、ゴミ収集車の人へ感謝の手紙ををつけてゴミを出すとか、そういうの。

いままでゴミ収集業の人たちは「生活の中の黒子」でしかなかったはずですが、いまは「ごみを収集してくれる人がいるから自分たちの生活が成り立っている」ことをみんな痛感している。それはコロナ以後も忘れてはいけない。

そして、自分の軽率な行動が見ず知らずの人に迷惑を及ぼすかもしれない可能性について、ずっと敏感でいたい。

そんなことを考えさせてくれる良書でした。


コロナの時代の僕ら
Paolo Giordano
早川書房
2020-04-24








  • このエントリーをはてなブックマークに追加