聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

第30節ラス・パルマス0-3レアル(ナチョ君とベンゼマ)

代表ウィーク明けのリーガ。予想通り、クリスティアーノ・ロナウドは招集外。ついでにクロースとセルヒオ・ラモスも温存。イスコは背中の痛みがあるらしいが本当のところはどうなのか。カルバハルは出場停止でした。


benzema&nacho


布陣は、ルカス・バスケスとベイルを両翼に置いてベンゼマとアセンシオの2トップというなかなか斬新なものでした。が、特に見るべきところのない大味な試合でしたね。3点のうち2点はPKだし、唯一流れの中で取った先制点もロングパス1本で生まれたもので、オフサイドになったアセンシオからルカス・バスケスへのスルーパスのほうが見応えがありました。

さて、今日の試合の一番のニュースは、ナチョ君の怪我ですよね。
彼は誰よりも頑丈で、めったに怪我しなかった。実況アナも言ってましたが、プロになってから怪我による途中交代は初めてとのこと。怪我の大きさがまだわからないので何とも言えませんが、少なくともユベントス戦には出られないのでしょう。

ナチョ君はDFラインのすべてをこなせる選手ですからね。一人で三人分。左サイドバックはテオがいるからいいとしても、もしカルバハルが怪我したらどうするんですか。今日みたいにアクラフ? ユベントス相手じゃ負けるに決まってる。バランだって怪我が多いしセルヒオ・ラモスは退場が多い。ナチョ君がいない以上、バジェホ? それも負ける。

ところで、このところルカス・バスケスとアセンシオを同時起用した中盤フラットの4-4-2を多く採用しているジダンですが、ユベントス戦はどうするつもりなのでしょうか。

自慢の中盤トリオ、モドリッチ、カゼミーロ、クロースのうち、クロースは全休だし、モドリッチとカゼミーロも途中交代できた。ということは3人とも使うつもりなのでしょう。もしかしてイスコをトップ下に置いた中盤ダイヤモンド型4-4-2を採用するつもりでしょうか。今季はそれで負けが込んだので、まさかとは思いますが、やめたほうがいいと思います。

普通にBBC揃い踏みの4-3-3でいいんじゃないでしょうか。

GK:ケイロル・ナバス
DF:カルバハル、バラン、セルヒオ・ラモス、マルセロ
MF:モドリッチ、カゼミーロ、クロース
FW:ベイル、ベンゼマ、クリスティアーノ・ロナウド

ベイルに代えてルカス・バスケスかアセンシオを使ってほしい気はしますが、フォーメーションは4-3-3でイスコは使わないほうがいいと思います。

フォーメーションはそれでいいとは思うものの、ベンゼマがねぇ。。。

今日も奥寺が言ってましたけど、「何であそこで打たないの?」と。PKを決めて少しは気分がよくなってると思ったら、あの始末。彼は9年前にレアルに来たときがまさにあんな感じでものすごく気弱な面がありましたよね。

それをモウリーニョがうまく自信をつけさせてストライカーとして覚醒したんですけど、たった1年で昔に戻ってしまった。

ベンゼマがアシストしてロナウドが決めればいい。という考え方もあるでしょうが、やっぱり今日のビッグチャンスで打たなかった、あるいは打っても入らなかった、というのはいただけません。

ベイルは自分でPK蹴らずにベンゼマに譲ってあげてほしかったな。


坂元裕二さんに学ぶ「超簡単! キャラクターのつくり方」

古くは『東京ラブストーリー』、最近のものでは『anone』『カルテット』などの脚本家・坂元裕二さんから教わったことを開陳しちゃいましょう。


超簡単! キャラクターのつくり方
まず「男のあるある」を順番に端から全員言わされました。憶えているものを挙げると、

「虚勢を張ることが男らしいことだと勘違いしている」
「プライドが高い」
「女に対して支配欲がある」
「ナルシストが多い」
「意外に傷つきやすい」
「彼女の過去の恋愛にこだわりすぎ」

次に「女のあるある」に移り、

「福山雅治が好き」
「レディファーストされるのが当たり前だと思っている」
「女だってスケベなくせに下ネタを言う男が嫌いとかわけのわからないことを言う」
「男に勘違いさせるために生まれてきたのではないか」
「行列に並ぶのが好き」
「クーポンを使う男が嫌い」
「何でもカワイイを連発する」

などなど。

全員が一つ一つ言うわけですからこれだけでもかなりの時間がかかります。いったい何のために? と思っていたら、驚愕しました。

「ここに挙げられた男と女をすべて入れ替えてみましょう」と坂元さんはホワイトボードの「男」を「女」に、「女」を「男」に書き替えました。ついでに「好き」を「嫌い」、「嫌い」を「好き」にも適宜書き換えられました。するとどうでしょう!

男のキャラクター案
「福山雅治が好きな男」
「下ネタを言う女が嫌いな男」
「行列に並ぶのが好きな男」
「クーポンを使う女が好きな男」
「何でもカワイイを連発する男」

女のキャラクター案
「虚勢を張ることが女らしいと思っている女」
「レディファーストされるのを嫌がる女」
「下ネタを言う男が大好きな女」
「プライドが高く、男に対して支配欲のある女」
「ナルシストで意外に傷つきやすい女」
「クーポンを使う男が好きな女」
「彼氏の過去の恋愛にこだわる女」

簡単なようであまり思いつかない人物像が浮き上がってきました。男と女を入れ替えるだけで斬新なキャラクターが作れてしまうということに瞠目せざるをえませんでした。

これはあくまでも一例です。ご自分でいろいろやってみてください。

私はこれをヒントに、いまやっているキャラクター作りを進めています。上記の通りのやり方は実践してきましたが、今回新たに思いついたのは、「主人公と脇役のキャラクターを考える順番を逆にしてみる」というもの。

ずーっと、まず主人公を作ってそれから脇役を作るという順番でやってきましたが、脇役を作ってから主人公を作ったら思いもしなかった人物が見えてくる気がしたので。うまく行くかどうかはわかりませんが、坂元さんから教わった「逆転の発想」は大事にしたいな、と。


坂元さんのヤングシナリオ大賞受賞秘話
これは余談ですが、坂元裕二という人がフジテレビのヤングシナリオ大賞を受賞して世に出た人だとは広く知られていますけど、受賞作品は当初は2時間もののシナリオだったそうです。それをあるコンクールに出したら一次で落選し、未練があったので内容はそのままで削りに削って半分の長さに縮めたら大賞をもらったとか。

これは示唆的ですね。

キャラクターが斬新だとか、根本的にお話が面白いとかの前提が必要ではありますが、逆にいうと、仮に斬新で意外性がある内容でも不要な描写がたくさんあると少しも評価されないということですね。

頑張まっていきまっしょい。


黒沢清の言葉(物語を読むことについて)

ちょうど10年ぐらい前のことをふと思い出したので書きます。


kurosawakiyoshi

大阪のシネマテークで黒沢清監督特集上映がありまして足繁く通っていたんですが、そのとき、そのシネマテークの館長で『地獄の警備員』の脚本家でもある富岡邦彦さんを交えたトークショーがあったんですね。

司会の若者二人は関西を拠点に活動する映画批評家とかでまったく名前の知らない人でしたが、蓮實重彦の表層批評にかなり影響を受けているらしく、そのときちょうど上映されていた『叫』の映像がすごいすごいと二人だけで盛り上がっているのを富岡さんが冷めた目で見ていました。

そんな富岡さんも、「もともと僕も荒井晴彦さんが重んじているようなモラル・ミーニングな物語には興味がなかった。映画は映っているものがすべてだと思っていた。ヴェンダースの映画を見て、こいつとは絶対わかりあえると思った」というぐらい蓮實的表層批評の影響を受けている人ですが、そんな富岡さんも内容にはまったく触れず映っているものだけをあげつらってすごいすごいと盛り上がっている二人の若者を非常に冷めた目で見ていたのが印象的でした。

そして、最期の日のオールナイト。黒沢監督が来阪してトークショーが開かれました。

くだんの表層批評の若者二人が再び司会役として黒沢さんにいろいろ訊くんですね。当然ながらすべて画面に関することばかり。映画なんだから映ってることがすべてなのはわからんではないけどちょっと偏りすぎではないか。と思っていたら、高校生っぽい子が質問があると手を挙げた。

「『叫』で、好きにすればいいのよ、と言われた主人公が、そう言われたために逆に何をしたらいいのかわからなくなるというのがとても印象的でした。ミシェル・フーコーが人間は自由にやれと言われたら途端に何をすればいいかわからなくなると言っていますが、『叫』にはフーコーの影響があるのでしょうか」

黒沢さんは「フーコーがそういうことを言ってるんですか? いやぁ、僕は読んだことがないんで何とも言えないんですが…」と言って笑いました。司会の若者二人も笑っています。でも黒沢さんの笑いはフーコーを読んだことがないことを恥じる照れ笑いでしたが(ちなみに私もいまだにフーコーって読んだことないです)司会の二人の笑いは明らかに「嘲笑」でした。

そんな「内容」に関することを訊いてもしょうがないだろう。この人は映画を内容から解放した蓮實の弟子だぞ。とでも言わんばかりの顔で。

すると、黒沢さんが言いました。

「フーコーが具体的にどういっているかわかりませんが、なぜでしょう。人間ってほんとそういう生き物なんですよね。あれやるなこれやるなと言われたら反発していろいろやっちゃうのに、好きにしたらいいと言われたら途端に何もできなくなる。フーコーは読んだことないから影響があるかと訊かれたらないとしか言えません。でも、まったく同じ問題意識を僕も以前からもっています。これは事実です」

と言ったまま、しばらくじっと考え込み、そして、「あ、そうか、俺はそういうことを無意識に考えながらあの映画を作っていたんだ」というような晴れ晴れとした顔になり、

「いや、どうもありがとうございます。そこまで深く読んでいただいて」

司会の二人は完全に小さくなっていました。「あの黒沢清が内容について語っている」というのが相当意外だったようです。

しかしそんなの当たり前でしょう。自分で脚本書くんだし、そうでなくとも内容について考えない映画監督なんていませんよ。


ダウンロード

蓮實重彦だってそうでしょう。
この人が世に出た頃は、内容ばかりについての評論ばかりだったから、「それは違うだろ」とカウンターパンチとして表層ばかりを語っていましたが、しかし、著作をよく読んでみると、

「人物の輪郭がくっきりしているのがいい」
「映画は、脚本と上映時間の問題である」
「この新人監督は、これからも同じレベルの脚本が書けるなら先は明るい」

みたいなことを書いているし、監督としての山田洋次はまったく評価していませんが、脚本家としてはかなり高く評価していたみたいです。

それに数年前、「これからの若い批評家には、映画と社会の関係について論じてもらいたい。なぜ資本主義企業が社会主義を礼賛する作品を量産してきたのか、とか」と言ってましたよね。

おそらく、自分の発言があまりに力をもちすぎたことに危機感をもったんじゃないですか。映画を内容から解放したのはよかった。私自身、蓮實から映画の見方を学ばせてもらいました。でも、それがすべてではない。

内容と表層。どちらも大事。どちらかだけ大事なんてありえない。人間だって肉体と精神のどちらが大事かなんて言えないし、そもそもその二つが密接に絡み合って一個の人間になっている。

映画だって同じはずです。



LINE読者登録QRコード
LINE読者登録QRコード
最新コメント
お問い合わせ
お問い合わせは、こちらまでお願いします。