2019年11月05日

高校野球で球数制限のルールが導入するという新潟高野連に対して、日本高野連が再考を求めた問題。

確かに、一人のピッチャーに連日連投させるのは肩や肘によろしくない、将来を嘱望されるピッチャーほど連投を強いられるから制限するのはいいことだという意見と、いやいや、それではエース級が一人しかいない弱小校が圧倒的不利になる、はたまた、高校で野球をやめる生徒を球数だけで交代させていいのか、という感情論も出ているようです。


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私もこの球数制限には大反対ですが、上記のような理由ではありません。

何よりも「100球」というデジタルな数字で区切ることが大いに疑問。個人差があるのになぜ一律100球なのか。

みんな頭の中がデジタルになってしまっていると思います。

球数が問題なんじゃない、大事なのは登板間隔だと、1日おきの投球なら大丈夫と言う人もいますが、それだって結局はデジタルな数字を論拠にしてる点では大差ない。

この問題についての意見を読んでいると、誰それは1試合で何球投げたとか、数字ばかりが前面に出てきています。それっておかしくないですか?

横浜のエースとして延長17回を一人で投げた松坂大輔。あのときの監督は「あいつならまだ投げられる」と確信していたそうです。練習のときから常に全員のコンディションや性格などを頭に入れ、「こいつはまだまだ」「あいつはもう代えてやらないと」と考えていたとか。何球とか何イニングとかそういうことじゃなくアナログな感覚。

結局のところ、指導者がちゃんと気を配っていればいいだけの話で、なぜ「(デジタルな)ルール」として制限せねばならないのかが少しもわからない。

勝つために一人のエースを酷使しないように指導者を教育することのほうが大事だろうし、何より一番大事なのは子どもたちへの体育指導じゃないですか? そこをおろそかにしてルールだけ変えても野球が面白くなくなるだけ。最近の子どもたちは幼い頃から冷房の効いたところで育つから汗腺の数が少ない。だから熱中症になりやすい。学校だけじゃなくて家庭での体育や食育がとても大事。

マウンドに立ってから何球とかそういうことじゃなくて、マウンドに立つまでのほうがよっぽど大事なのに、なぜそういうことを言う人がほとんどいないんでしょうか。

肩を壊す球児を減らしたい。それはわかります。

でもそれなら本から正さないと。試合というのは末端であって、本は日頃の生活ですよ。生活を大人がちゃんと見ていてやることが何より大事なのでは?

2019/11/5追記
来年の選抜では「1週間に500球まで」という制限が設けられるそうです。エース級が一人しかいないチームもあるから一律に1試合ごとに制限を設けられないから1週間で500球。このことについて、去年の夏の甲子園では誰それが何球だった、誰それは何球だった、みんな500球未満だからそんな制限には意味がない、という意見があるそうですが、上記と同じくデジタルな数字だけでいいの悪いのと言っても意味ないと思います。

プロ野球でも「100球投げたら交代」というのが暗黙のルールになっているらしく、先発完投型のピッチャーに与えられる沢村賞は今年は該当者なしでした。同じことを続けていくのならもう永遠に沢村賞を受賞できるピッチャーはいなくなるでしょう。

一人一人限界が違うし、その日の調子だって違うんだから一律に何球という制限はやめたほうがいい。

みんな他人の体調などを見る「目」を失ってしまってるんじゃないですか。医者も血液検査の「数値」しか見てない人がいるし、数値がなければ自分の調子もわからない。もともと日本人は無理するのが大好きだから、デジタルな区切りを設けないと怪我するまでやってしまう。

それはわからなくはないですが、数値にこだわり続けたら「目」を失ってしまいますよ。子どもを見る「目」を失った結果が今回の球数制限でしょう。

残業も国会の審議に関しても話されているのは「〇時間」という「数値」のことばかり。嗚呼。


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2019年11月04日

やっと見てきました、ヴェネチア金獅子賞『ジョーカー』(以下ネタバレあります)。

この映画と映画にまつわる情報は複雑に入り乱れていますが、私が遭遇した情報と感じたことを以下のように時系列で記していきましょう。そのほうがわかりやすいと思うので。

①友人から高名な脚本家が絶賛していると聞いた。
②映画鑑賞A主人公の「病気」に違和感を感じた。
③映画鑑賞B主人公に共感するところもあった。
④映画鑑賞C高名な脚本家の言は嘘ではないかと思った。
⑤映画鑑賞D後半はどんどん腹が立った。
⑥別の友人につまらなかったというと、アカデミー賞のノミネートは確実だろうと返信があった。
⑦いろいろ考えると「大いに納得」した。が、私はこの映画が好きになれない。

では、順番に行きましょう。


高名な脚本家
その人は脚本だけにとどまらず、演出も含めて分析する達人であり、私の友人は分析してほしいとお願いしたらしいのですが「俺の分析能力を超えている」と返ってきたそうです。あの人がそういうなら本当にすごいのだろうと期待が高まりました。


映画鑑賞A主人公の病気
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主人公アーサー・フレックは精神を病んでおり「突然笑い出す病気です」というカードをもっている。

私はこの時点でかなり引きました。その後の描写や物語展開も含めて「病気」を盾に使ったり言い訳の材料にしていると感じたからです。

とはいえ、私自身、長く精神科に通院しており、病気を言い訳にしたことがあります。ならいいじゃないかって? そうはならないのが映画の、というかフィクションの難しいところです。

かつて長谷川和彦監督に自作シナリオを読んでもらったとき、主人公が自殺未遂したあと妹に助けを求めるシーンがあったんですが、ゴジさんはこう言いました。

「現実にこういう行動を取る人間はたくさんいるだろう。そういう人のことをとやかく言うつもりはない。でもフィクションにおいては、すぐ他人に助けを求める主人公には共感できない」

だから病人と設定され、しかも他人に理解を求めるカードまでもっている主人公に何ら感情移入できませんでした。

そもそもアーサーを「病人」に設定する必要があったのでしょうか。『タクシードライバー』の主人公トラビス・ビックルもベトナム後遺症に悩んでいることが暗示されていましたが、あくまで「暗示」であって、はっきり「病気」とは設定されていなかった。


映画鑑賞B主人公に共感した
とはいえ、主人公に共感してしまう場面もありました。福祉予算の削減で薬をもらえなくなるところ。私自身、常に薬を飲んでいるので薬を飲めないつらさはよくわかります。もし薬をもらえなくなったら……アーサーと同じような行動に出るかも、と。

つい先日、薬が飲めなくなりました。自分の意思で飲めなくなったのです。そのせいで体調をかなり崩してしまい、楽しみにしていたこの映画を公開から一か月遅れで見に行く羽目になりましたが、それはまた別の話。

私と違い、アーサーは周りの状況で飲めなくなる。社会への怨念を募らせても致し方ない。


映画鑑賞C高名な脚本家の言は嘘ではないか
後半、アーサーが母親から虐待を受けていたことが明らかになりますよね。ヒーターに縛りつけられていたとか。いくら何でもひどすぎ。体じゅう大やけどで心に一生消えない傷ができる。でもそれはとても安易なやり方だと思う。

くだんの高名な脚本家は「虐待とかDVとかいじめとか、そういうのなしで話を作るのは不可能なのか」とよく言っていました。理由を問うと「三面記事でよく目にするようなことをわざわざ劇場に行って見たいとは思わない」と言っていましたが、おそらくそれは建前で、本音は「そういう設定は安直だからやめなさい」ということだったと思う。

そんなあの人が、根っこに虐待を設定した映画を絶賛しているのはまったく理解できないし、嘘としか思えないのです。

虐待、DV、いじめ……要は暴力ですが、幼少期に暴力を受けたトラウマが怪物を作りあげる。これはもう『ハンニバル・ライジング』と同じあやまちを犯しているといって過言ではありません。


映画鑑賞D後半はどんどん腹が立った
主人公に共感するところもあったとはいえ、やはりこの映画には乗れない。

それどころか、病気だから、薬をもらえなくなったから、虐待を受けていたから、憧れの芸人に笑い者にされたから、という理由で人殺しを重ねる主人公がいやでしょうがなかった。

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奇しくもかつてトラビス・ビックルを演じたデ・ニーロが殺される直前に言いますね。

「君は自分を憐れんでいるだけだ」

私にはまっとうな正論にしか聞こえなかった。が、あれを「うさん臭い正論」と捉える人も多いのでしょう。


SNS時代の承認欲求映画(秋葉原事件との類似性)
アカデミー賞ウォッチャーの友人に「こんな映画が今年の有力候補なの?」と問うと、「絶賛記事がたくさん出てるくらいだから候補入りは確実」と返ってきました。

そこで絶賛評を中心にいろいろ読んでみて……大納得しました。

「承認欲求」という言葉を見たからです。

確かにアーサーは社会から疎外され、承認欲求を得たがっている。この映画が絶賛されて大ヒットしているのもそれが要因なのだろう、と。

いまはツイッターやインスタで「いいね」をもらいたがる人が多いじゃないですか。私だってリツイートされたりいいねをもらうとうれしい。でも過度な期待は禁物だと常に自戒しています。ネット上で無視されて殺人を犯したのは秋葉原事件の犯人ですが、アーサー・フレックってあの犯人・加藤智大と何が違うのでしょうか。

そういえば、先日の災害で避難所に助けを求めたホームレスが門前払いされたことが非難されました。私もあってはならないことだと思うけれど、加藤智大はホームレスたちとは違って「疎外された」んじゃなくて「疎外されたと思い込んでいた」だけですよね? 周囲への過度な期待がそもそもの原因なのでは? 


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アーサー・フレックも薬をもらえないなど社会から確実に阻害された面もあるとはいえ、トーマス・ウェインを父親だと思い込んで過度な期待をして門前払いの末に怨みを募らせたり、デ・ニーロとのあれやこれやもほとんど被害妄想でしょう。

私がこの映画の主人公を「ジョーカー」と呼ばず一貫して「アーサー・フレック」と呼んできたのは、ジョーカーという存在がアーサー・フレックの被害妄想の産物かもしれないからです。というか、物語のうちのどこまでが彼の現実でどこまでが妄想なのか判然としなかった。すべれがアーサーの妄想という解釈だって可能ですよね。あまりそういうの好きじゃないけど。

確実なのは、トーマス・ウェイン(ブルース・ウェイン=バットマンの父親)を殺したのはアーサー・フレックではなく、彼に感化された別の人間だったこと。彼やその他ピエロの恰好で暴徒と化した群集こそ「ジョーカー」なのでしょう。

いずれにしても被害妄想を根っこにしたこの映画を私は好きになることができない。

かつて「自分を憐れんでいただけ」の加藤智大は非難の集中砲火を浴びました。そしていま、フィクションの登場人物とはいえアーサー・フレックには共感する声が多い。

秋葉原事件から11年。11年で大きく変わったのはSNSの大流行でしょう。11年前より承認欲求の強い人間があのピエロの群集のような勢力になっていると思われます。

だから、ヴェネチアで金獅子賞とかアカデミー賞有力候補というのには大納得する、というわけです。「時代を象徴する映画」として。だから今年の「最重要映画」ともいえる。決して「最優秀」ではなく。


映像的には好き
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この映画では被写界深度の浅いショットが多いですよね。被写界深度が浅いと被写体のすぐ手前やすぐ奥にピントが合わなくなります。カメラを被写体から離れたところに置いてズームレンズで寄るとそういうショットになるんですが、私は基本的にそういう画が好きなので、映像的にはとてもよかったと思います。

自宅やピエロの支度部屋など美術もよかった。室内ではタバコの煙、屋外では朝靄や蒸気など、スモーク類の多い映像も好きです。個人的にはもっとスモークを炊いたほうがよかったんじゃないかと思いますが。

ホアキン・フェニックスの肋骨が浮き上がるほど減量した役者魂にも頭が下がります。

でも私はこの映画がどうしても好きになれない。


Joker (Original Soundtrack)
Hildur Guonadottir
Watertower Music
2019-10-02





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2019年11月02日

これからシナリオコンクールに応募しようという方、またはすでに応募したことがあっていま現在も頑張っている方にぜひ言っておきたいことがあります。

といっても書き方とかドラマの仕組み方とかではありません。結局プロになれなかった人間なのでそんなことに講釈を垂れる資格はありません。

私が言いたいのは、

親兄弟、恋人、配偶者の類であっても絶対に信用してはいけないときがある。

ということです。

その前に『放浪記』の話をしましょう。

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『放浪記』といっても林芙美子の小説は読んだことがありません。成瀬巳喜男監督が映画化したのを見たことがあるだけです。それほど好きじゃないから一度しか見ていませんしほとんどのシーンを憶えていません。

が、ひとつだけ強烈に憶えている場面があります。

すでに小説家として名を成した高峰秀子演じる林芙美子(自伝的作品です)が、小説家志望の女性から預かった原稿をゴミ箱に捨てるのがそれです。

その女性は小説コンクールに応募しようと必死で書いた。その原稿は今日が締切で絶対に今日中に出さねばならない。でも急用ができたか何かで、林芙美子に投函しておいてほしいと預けて行ってしまうのです。

林芙美子は「甘いのよ」と言ってその原稿を捨てます。

『放浪記』を見たことも読んだこともない友人にこの場面を説明すると「ひどい」と言っていました。

私は林芙美子の「甘い」という言葉の意味がよくわかります。

必死で書いた原稿なら、その原稿に人生を賭けているのなら、絶対に他人に託してはいけません。捨てた林芙美子が悪いなんて少しも思わない。そんな大事なものを他人に、それも将来のライバルになるかもしれない人に託すなんてはっきり言ってアホです。

私は何度もコンクールに応募しましたが、どの原稿も自分で出しに行きました。親が「代わりに出しといてあげようか」と言ってくれたこともあります。しかし私は「こういうことに関しては自分しか信用していない」と言って頼ったりしませんでした。経済的には脛かじりまくりでしたけど。(笑)

親は「自分の親を信用できないなんて」と文句を言っていましたが、無視しました。そういうときは世界の誰も、自分以外の誰も信用してはいけない。

必ず自分の手で出してください。もしその日が締切で消印有効なら、郵便局員がいくらめんどくさがろうと文句を言おうと「目の前で消印を押してください」としつこく言い続けましょう。「今日が締切なんです」と言えば誰でも最後は押してくれます。

押した日付がちゃんと今日の日付になっているかも確かめましょう。誰も信用してはいけません。その原稿にあなたの人生が懸かっているんでしょ。ならば信用などしていいはずがない。

そういうときに誰かを信用するのは「甘い」のです。仮に頼んだ人に裏切られて怒ろうが縁切りしようが何しようが、もうその原稿はダメです。

書いた原稿は必ず自分で出しに行く。徹底してください。


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