2019年05月03日

平成から令和へ移行するとき、いい機会だからと赤坂憲雄さんの『象徴天皇という物語』という本を読んでいました。別に天皇の退位・即位とは関係なく、職場で「あ、これって天皇制だな」と思う出来事があったからです。その日の帰り、本屋に寄るとこの本を見つけたので購入しました。

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はっきり言って、この本は私にはあまりに難しくてついていけませんでした。著者自身が「この頃の私が書く本はすべてわかりにくい」とあとがきに書いていますが、それならわかりやすく書き直してから文庫にしてよ! と思うものの、この本がきっかけである文章を読み直せたのだから良しとしましょう。この本で最初に引用される、坂口安吾の『堕落論』です。


天皇を利用する国民
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ずっと前に読んでから一度読み返しただけなので完全に忘れてましたが、安吾は敗戦に際して書いたこの随想の中で、「天皇制」を激しく攻撃しています。

「藤原氏や将軍家にとって何がために天皇制が必要であったか。何がゆえに彼ら自身が最高の主権を握らなかったか。それは、彼らが自ら主権を握るよりも天皇制が都合がよかったからで、彼らは自分自身が天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分がまず真っ先にその号令に服従してみせることによって号令がさらによく行き渡ることを心得ていた」

「藤原氏の昔から、最も天皇を冒瀆する者が最も天皇を崇拝していた。彼らは真に骨の髄から天皇を盲目的に崇拝し、同時に天皇をもてあそび、我が身の便利の道具とし、冒瀆のかぎりを尽くしていた」

そして安吾の舌鋒はそのまま日本国民に襲い掛かります。

「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで朕の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、他ならぬ陛下の命令だから忍びがたいけれど忍んで負けよう、という。嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!
 われら国民は戦争をやめたくて仕方なかったのではないか。竹槍をしごいて戦車に立ち向かい、土人形のごとくバタバタ死ぬのが厭でたまらなかったのではないか。戦争の終ることを最も切に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分といい、また、天皇の命令という。忍びがたきを忍ぶという。何というカラクリだろう。惨めともまた情けない歴史的大欺瞞ではないか」


天皇制という政治形態がどういうものかは日本人なら誰でも知っていましょう。時の権力者はみな天皇を「玉」として担ぎ上げ、自らの権力を正当化してきました。

しかし安吾は、それは権力者だけが天皇を利用してきたのではなく、我々国民もそうだったのだと看破していました。


職場の天皇
いまの職場にも「天皇」がいます。何の力もなく、ただのお飾りにすぎないという意味もあるけれど、「利用される玉」として。

その人物を仮にZ氏としましょう。そしてZ氏が使い物にならないからと会社が新たに雇ったのがY氏。Y氏は立場としては私たちより上だけれど一番の後輩。だからまずみんながやっていることを憶えないといけないのに憶えようとせず、会社から仕事のやり方を変えるよう指示を受けているとかで、ずっと以前からのやり方を変えようとする。実際、先週やり方が変わりました。なぜ入ってきたばかりの輩が、しかも仕事を憶えようともせず、憶えてないのだからこれまでのやり方の良し悪しもわからない輩が出しゃばるのか! と休憩時間は愚痴合戦で、そこにY氏が入ってきてまたもビッグマウスぶりを発揮するので、我慢ならなくなった私は、

「まず仕事を憶えるところから始めたらどうですか。仕事を憶えようともしない人間が変えようとしたって誰もついてきませんよ」と言いました。すると、Y氏は、

「私はZ氏の了解を取ってやり方を変えただけだ」

と言いました。なるほどね、Z氏という後ろ盾を利用して権勢をふるおうというわけか。まさに藤原氏や将軍家と同じですね。

そこからさらに言い合いがあったんですけど、Y氏はZ氏だけでなく「会社」という後ろ盾も利用する。何かほんとに日本の政治家みたい。

だって、

会社-Z氏-Y氏
アメリカ-天皇-政府


この二つは構造的にまったく同じじゃないですか。天皇という隠れ蓑だけでは足りなくなるとアメリカをもちだしてくる。


私の心の中の天皇制
というわけで『象徴天皇という物語』という本を読んでみたんですが、そこから安吾の『堕落論』『続堕落論』を読んでみると、これは厄介な問題だなと思ったんです。

だって、Y氏だって会社では力をもった人ですけど、会社を出たら安吾が攻撃した一般大衆と同じ名もなき人。安吾は、冒瀆しながら同時に崇拝するというアクロバットなやり方をやめて、厭なものは厭といい、好きなものを好きといおう。それは「堕落」には違いないけれど、そういう堕落からしか日本の再生はありえない。天皇制がある以上、日本の再生はありえないと論をまとめるんですが、悲しい哉、安吾の主張もむなしく、天皇制は平成から令和となった現代にも息づいています。

それは当然のことながら、この人たちが存在するという意味ではありません。



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日本国憲法に書かれた象徴天皇という意味ではなく、天皇制という思想が深く日本人の心に内面化されているということ。

天皇制とは権力の二重構造を利用した「正当化」「責任逃れ」のカラクリのことです。Y氏を批判する私の心にもおそらくそのような、言葉の真の意味で堕落した心性が巣食っているはずなのです。

まず、そういうところを自覚するところから始めないと、天皇制を存続するにしても廃止するにしてもいずれの議論も無意味に帰す気がします。もし天皇制を廃止したとして、私たち日本人はそのような状態に耐えられるのか。耐えがたきを耐えられたのは天皇の命令があったからなんですがね。

日本国憲法には「天皇は日本国の象徴=シンボル」と書かれています。が、おそらく本当は「天皇が日本国の象徴」なのではなく「天皇制が日本国民の象徴」なのだと思います。

(つづく)


堕落論 (280円文庫)
坂口安吾
角川春樹事務所
2011-04-15





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日本映画専門チャンネルで再放送された『古畑任三郎』シリーズ。

私はかねてからこのシリーズが好きじゃありませんので、印象的な回だけ再見しました。

中森明菜、木の実ナナ、鹿賀丈史、桃井かおり、菅原文太の回を見ましたが、うーん、どれもこれもつまらなかった。どれも謎解きになってないというか、初見のときにあれほど印象的だった鹿賀丈史の新幹線のリクライニングシートを倒すか倒さないかという回にしても、あの実験に鹿賀丈史が協力してくれなかったらどうするつもりだったのか。それ以前に、あの後ろにいたヤクザっぽい男に面通しを頼めば済む話では?
菅原文太の回にしたって、ホテルの管理人・梶原善が偶然ボヤを起こしてなかったらどうだったのか。それでもアリバイは崩せるとは思うけれど、ではボヤ⇒腐ったリンゴの流れは必要ないようにも思う。それに全般的に自白に頼りすぎでしょう。

なぜ昔はこんなものを面白がったんだろう、と思うものばかりでしたが、唯一いま見てもかなり面白かったものがあります。それが最高傑作との誉れ高い、第2シーズン第7話(通算第20話)『動機の鑑定』。


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骨董屋の犯人・春峯堂は、業界ではあまりにあくどいと最低の評判をもつ男。現代最高の陶芸家で人間国宝でもある川北百漢が焼いた壺を本物の「慶長の壺」と鑑定した男。なぜ百漢が贋作を作ったかというと、春峯堂を陥れるため。すでに本物の慶長の壺を手に入れており、これを公表すれば春峯堂の評判は地に堕ちる。

というわけで春峯堂は金づるの美術館長・角野卓造と共謀して百漢を殺害。そのあと「もうあんたとは手を切りたい」という角野をも殺害する。そのときに凶器として使ったのが他でもない慶長の壺。しかも鑑定の結果、凶器に使われたのが本物で、残されたのが贋作。贋作で殺したのならかなりの目利きが犯人、つまり春峯堂だと古畑は睨んでいたのですべての目算が崩れてしまう。

というのが、解決篇までのあらまし。

結果として、別の側面から春峯堂のアリバイを崩した古畑の勝ちとなるんですが、なぜ春峯堂が本物で殺したのかについては「とっさのことであなたにもどちらが本物かおわかりにならなかったようですね」としか言えない。

神妙に自供に応じる春峯堂は言います。(あんな簡単に自供に応じるのはご都合主義だとは思うけれど)

「本物は言ってみればただの古い壺です。しかしこちらはあの人間国宝が私一人のために焼いた壺。私一人を陥れるために。ならばどちらを犠牲にするかは……。古畑さん、物の価値とはそういうものなんですよ」

なるほど、「主観的な価値」と「客観的な価値」ということですね。あるいは「市場的な価値」と「個人的な価値」と言い換えてもいい。

警察の鑑定は約400年前の土が使われているから本物だという科学的な鑑定でした。それは「客観的な価値」に基づいてのものであって、審美眼に基づいたものではない。古畑は常に論理的に犯人のボロを崩していくことを商売にしているから、論理に基づかないものは理解できない。


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この『動機の鑑定』が素晴らしいのは、「美」という論理派・古畑任三郎には絶対に解けない謎を提示したことにあります。何を美しいと思うかは極私的な問題であり、客観的な論理というものが入る余地がない。

もしかすると、春峯堂はそれを言いたくて自供に応じたのかもしれません。論理だけを手掛かりに刑事をやってきた男に「論理だけでは人の気持ちは理解できないよ」ときついしっぺ返しを食らわしたかったのかも。

ならば……

もっとこの問題を突き詰めてほしかったという思いもあります。

目撃者は「美人」だというけれど、それはその人にとって魅力的な女性だっただけで、古畑の目には魅力的じゃないから誤算が生じるとか。

『古畑任三郎』だけでなく推理物全般に言えるのは、犯人がインテリだということ。探偵役もインテリ。インテリは理屈でものを考えやすい。だから理屈では割り切れない「美」とかそういうことを話の主軸に据えたものをもっと見たかったというのが正直なところ。

逆に言うと「完全犯罪」とはそういうところにしか生まれないのかもしれませんね。

関連記事
「価値」とは何か(フィギュアを箱から出さない人の心性について)


古畑任三郎 2nd season DVD-BOX
田村正和
フジテレビジョン
2004-04-21





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2019年04月29日

昨日、ツイッターでこんなアンケートを実施しました。
ちあきなおみの『喝采』がダントツで1位かと思いきや、得票率は50%。次に多いと思われた「特に何も」は1票だけ。まさかルーベン・マムーリアンの映画に票が入るとは思ってもみませんでした。(あれは傑作ですが知名度は低い)

さて、1972年のレコード大賞で発売からたった3か月で受賞した、ちあきなおみの『喝采』をお聴きください。聴いたことあるよという人もまずは聴いてください。(ユーチューブで「喝采」で検索すると最上位に出てくる二つの動画はなぜか途中がカットされてる不完全版なのでご注意あれ)





作詞:吉田旺 作曲:中村泰士

いつものように幕が開き
恋の歌うたうわたしに
届いた報らせは 黒いふちどりがありました

あれは3年前 止めるアナタ駅に残し
動き始めた汽車に ひとり飛び乗った

ひなびた町の昼下がり
教会のまえにたたずみ
喪服のわたしは 祈る言葉さえ 失くしてた

つたがからまる白い壁
細いかげ長く落として
ひとりのわたしは こぼす涙さえ忘れてた

暗い待合室 話すひともないわたしの
耳に私のうたが 通りすぎてゆく

いつものように幕が開く
降りそそぐライトのその中
それでもわたしは 今日も恋の歌 うたってる 


ちあきなおみの実体験
ちあきなおみ自身に同じような体験があったそうです。だからこれは「メタ」ですよね。歌い手自身が「わたし」と語る一人称の歌詞ですが、その「わたし」がフィクションの「わたし」でもあると同時に、歌手・ちあきなおみ自身でもあるという。ちあきなおみが自分で作詞したのならメタとは言わないかもですが、作詞家はそういう事情を知らないで作詞したらしい。歌い終わって嗚咽するちあきなおみは、レコード大賞を受賞して泣いているのか、それとも歌の中の自身の体験を思い出して泣いているのか。おそらくその両方なのでしょう。


映画化できるか!?
さて、この『喝采』に関して「この時代の歌はみんな3分間の映画だなぁ」と言ってる人がいました。確かに波瀾万丈の人生の断面が描かれているという意味ではそうでしょう。でも、この『喝采』は映画にできない。

なぜなら、この歌に含まれる「時間」と「人称」が問題です。

この歌の主人公にとっての「現在」はどこにあるかというと、最後の「それでもわたしは 今日も恋の歌 うたってる」というラストなのは誰の目にも明らか。でも、それは歌が終わるときに初めて分かることですよね?

ファーストシーン、暗い待合室でヒロインが、数日前にかつての恋人の死を知らせる電報が届いたことを思い出し、3年前の別れを回想し、葬式で言葉を失ったことを回想し、それでも恋の歌を歌い続けるという終幕でいいのでは? 『イヴの総て』や『裸足の伯爵夫人』みたいな回想形式の映画にすればいい。

確かにお話をなぞるだけならそれでもいいでしょう。しかしながら、映画も詩も「お話」だけから成っているわけではありません。


主人公の「現在」はどこにある?
虚心坦懐にもう一度聴いてみてください。この歌の主人公の「現在」はどこにあるのか。

最初の「いつのように幕が開き 恋の歌うたうわたしに」のところで、聴き手は歌い手が電報を受け取ったときがまぎれもないヒロインの「いま現在」だと感じます。いま現在のヒロインが電報を受け取って3年前を回想し、葬式に行って言葉を失う。しかし最後で明らかになるのは、聴き手がいま現在だと思っていた時間はすべて過去であり、回想だったということです。

本当のいま現在のヒロインは、恋を捨て、恋人を亡くし自責の念に駆られながらも、今日も恋の歌を歌うことに、歌うことで喝采を浴びることに悦びを感じているのです。

最後の部分の解釈はいろいろありましょう。後悔に苛まれながらも今日も恋の歌を歌う自分って何なの? 偉そうに歌う資格があるの? という意味にも受け取れます。


この歌詞をどう解釈するか
が、私の耳には、後悔に苛まれながらも歌っている自分が好き、喝采を浴びる自分が好き、だから、3年前あなたを捨てたのよ、という歌に聞こえます。そういうふうに解釈しないと、

暗い待合室 話すひともないわたしの 
耳に私のうたが 通りすぎてゆく

という部分がなぜ必要なのかわからなくなりますし、「それでも歌う」理由もわからなくなります。本当に後悔と自責の念に苛まれているのなら、もう恋の歌なんか歌わないはず。それでも歌うのは3年前恋人を捨てたのと同じように後悔に苛まれた自分をも捨てたからでしょう。

この連が「あれは3年前~」と同じメロディで歌われていることが肝要です。3年前恋人を捨てたことを後悔しながらも、いま現在どうしても自分の歌が聞こえてきてしまう。彼女は自分の罪に打ちひしがれながらも、それでも歌いたいのです。自分には歌しかないと思っているのです。

いつものように幕が開く
降りそそぐライトのその中
それでもわたしは 今日も恋の歌 うたってる 

ここで聴き手は、主人公にとっての現在が最初の「いつものように幕が開き」のところではなく、最後の「いつものように幕が開く」ところだと初めてわかるわけですが、その秘訣はこの歌が「一人称」で歌われていることにあります。一人称の語りが独特の時間構造を生んでいます。

だから、時系列では最後のこのシーンを現在として、回想形式で映画にすると、この歌の本来の面白さが損なわれてしまいます。

『喝采』は、ずっとヒロインに寄り添ってきたつもりの聴き手が、最後の最後で突如現れた現在のヒロインによってせせら笑われる歌です。聴き手を嘲笑うかのように、恋人だけでなく後悔する自分をも捨て、今日も恋の歌を歌う女のしたたかさ。

こういうのを「詩」というのです。「3分間の映画」というのも間違いではないでしょうが、私は決して映画にできない詩というものの奥深さを感じるのです。






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