2015年08月10日

久しぶりに山下耕作監督、藤純子主演の『緋牡丹博徒』を見ました。

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2年ほど前に『花札勝負』を見たとき、すごく古く感じられたんですよね。
5年くらい前に違うシリーズの『昭和残侠伝 死んで貰います』を見たときも、面白いんだけど何だか古臭い感が拭えなかったんです。

任侠映画の次に登場した『仁義なき戦い』を嚆矢とする「実録やくざ路線」をたくさん見てきたからか、どうにも義理・人情に訴える任侠ものが古く見えるようになったのかな、と。

思い出すのは、92年の『継承盃』ですね。

あの映画のキャッチコピーは、「いままでのやくざ映画はすべて間違いでした」というもので、これに深作欣二監督が激怒したと伝えられました。

私は、怒るなんて筋違いだと思いましたね。

だって、深作さん自身が任侠映画を否定して世に出てきたわけでしょ? 自分で旧路線を否定しながら、自分が否定されたら怒るなんて都合よすぎると。

映画にかぎらず、どんな世界でも、新しい世代が古い世代を否定して世の中は変革されていくのだから、大家となった自分が否定されるのもまた喜ばしいことなんじゃないかと思ったもんです。(『継承盃』の出来が悪いとかいうのはもちろん別の話)

で、このシリーズの記念すべき第1も古臭いのかな、と思って見てみたらば…

これが実に面白いんですね。

純粋でまっすぐな想いがあり、その一方で裏切りや策謀など邪な思いがあり、それらが交錯して最後の殴り込みに至る、というほとんどの任侠映画に共通する筋立てですけど、これが本当に面白い。もう何度も見てるのに、それでもやっぱり面白い。

だから、任侠映画が古いのか否か、よくわからないんです。
『花札勝負』や『死んで貰います』が古く感じられたのは、映画そのものの古さであって、任侠の古さではなかったのかな、とも思うんですが、この問題については、『日本侠客伝』とか他のシリーズもきちんと見返さないといけない気がします。





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2015年08月09日

先日、当ブログでご紹介した驚異の予言者ババ・ヴァンガさんのことを調べたら、にわかに予言なるものに興味をもちまして。
まぁ、1999年7月が終わるまでは人並み以上に予言には興味をもっていたんですが、ババ・ヴァンガの予言内容を見てみるに相当すごいことを予言してるので、自分の中の「予言熱」が再燃してきたという次第。

で、『予言の日本史』という本を読んでみたんです。あまり面白みのない本だったんですが、この著者は数年前に『葬式は、要らない』という本を出して結構売れたんですよね。私は未読なのであの本の内容に言及することはできませんが、題名については大反対なんです。

昔は「葬式なんていらない」と私も思っていました。自分の葬式もしてほしくないと思っていました。でも、歳をとるにつれて、それは間違いなんじゃないかと思うようになったんですよね。

葬式は死んだ人のためにあるものじゃなくて、生き残った人のためにあるんじゃないかと。遺された人たちが、死んだ人の死を受け容れるようにするための儀式だと思うんですよ。

結婚式もそうでしょう。儀式を経ることで当人たちが内側から変わることが期待されている。

これは「時間の結界」だと思うんですよね。

ある人の死を境に、それ以前とそれ以後を葬式という儀式で結界を張る。結婚式でもって独身時代と夫婦になった時間の間に結界を張る。入学式、卒業式、成人式、入社式、何でも式と名の付くものはそうだと思います。

むかし、ある落語家のトークショーを聞きに行ったら、落語家が高座に出て扇子を前に置くのは、噺を語る自分と聴くお客さんとの間に結界を張っているんだ、ということを言っていて、なるほどそうなのか、と驚愕したんです。

これは「空間の結界」でしょう。

食事のときもそうです。食べ物と自分の間に箸を横に置く。食べる自分と食べられる死んだ生命との間に結界を張っている。そして、その結界を解く呪文が「いただきます」。

「いただきます」って料理を作った人やお金を出した人に対して言うものだと思ってる人が多いみたいですが、間違いじゃないけど、上記のような「結界」という意識をもたずに言っても食べ物のありがたさは一生わからないと思います。

いろいろ生活を振り返ると…

暗くなったらカーテンを閉める、とか、朝起きたらカーテンを開ける、のも空間の結界なのかな、と思ってみたり。

「おはようございます」とか「こんにちは」という挨拶は時間の結界を解消する一言なのかな、と思ってみたり。挨拶する前の「お互いを知らない時間」と挨拶したあとの「顔見知りの時間」の境界に結界を張ってるのではないかと。逆に「さようなら」は結界を張る一言なのかな。よくわかりませんが。

「結界」ということを意識して生活するといろいろ新しいことが見えてくる気がします。





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2015年08月08日

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今日の「週刊リテラシー」の半蔵門世論調査は、自民党のある議員が、SEALDsの人たちを指して「戦争に行きたくないなどと利己的なことを言っている」とツイッターでつぶやいた件について、「あなたは『戦争に行きたくない』は利己的と思いますか?」というものだった。

うーん、何かおかしいんですよね。

番組内で「利己的じゃない」「いや、利己的だ」と議論が交わされてましたが、利己的=悪という図式でこの問題をとらえていることがそもそもおかしいのではないかと。

前提となっている「利己的=悪」という図式が果たして本当にいかなる場合でも正しいのか、という検証がなされていないと思いました。

私は、戦争に行きたくないというのは、死にたくない、殺したくない、ということだから利己的なことだと思います。しかし、それは「良い利己主義」なんじゃないんですかね?

「100%悪い人間もいなければ100%良い人間もいない」という方程式に則れば、利己主義というものも100%悪じゃないんじゃないの?と。

だって、戦争に行きたくないが悪い利己主義なら、その対極にあるのは、お国のために戦争に行く利他主義ということになりますが、それって良くないことなんじゃないかな。お国のために死ぬことを唯一の美徳として勝ち目のない戦争に突っ走ったことを忘れてはなりますまい。

だから、今日の半蔵門世論調査では、

「戦争に行きたくないは悪いことだと思いますか?」

と質問するべきだったと思います。
私は少しも悪いことだとは思いません。良いと思う人だけが戦場に行けばいいんだと。





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