2016年06月07日

クドカンの問題作『ゆとりですがなにか』が第8話まで終えてもうあとはラストスパートという頃合いになってきました。

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そういえば、第6話までを見終えて、こんな日記を書いたんですよね。

もっと上の世代から見た「ゆとり世代」を描かなくちゃいけないんじゃないの、とか、あまり知られてないゆとり世代の現実、つまり「ゆとりトリビア」みたいなものを織り交ぜてほしい、みたいなこと。

あれはすべて撤回します。

いやぁ~、この『ゆとりですがなにか』がここまで凄まじい破壊力をもつドラマだとは思ってもみませんでした。
いえ、いまでも半信半疑なんです。それぐらい先日の第8話が凄まじかった。

上司の手塚とおるとホテル街をさまよってた安藤サクラが本当にベッドインしてしまったり、そんなことになってるとは露とも知らない岡田将生はやっと営業に戻れることになったけれど、それをいい潮時に会社を辞めて安藤サクラと結婚して実家の造り酒屋を継ごうと考えていたり。


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柳楽優弥は島崎遥香と別れたあとおっぱいパブを辞めて植木屋に転職し、しかもあろうことかせっかく11浪中だったのに受験生まで辞めてしまった。

最初のほうでは、パワハラだなんだとうるさかった後輩までもが、仕事はできずバイトに馬鹿にされながらも何だかすご~く愛されキャラみたいになってきてるし、もうすべてがシッチャカメッチャカというか何というか。

松坂桃李が担当した教育実習生の吉岡里帆は前回から岡田将生の店で働くことになったし、いろんな変化が目白押し。

やっぱりね、アレですよ。ゆとり世代に特有の事象を織り交ぜてほしいなんて私の偉そうな言葉は妄言でした。

だって、充分、ゆとりトリビアが満載ですもん、このドラマ。

岡田将生は第2話で、妹で就活生の島崎遥香にいかにも上の世代的な説教をしてましたけど、その岡田将生が、実家の造り酒屋を兄貴と一緒にやっていこう、そのために会社を辞める、結婚して辞めると言い出すんですからね。何だかかんだ偉そうなことを言っても、岡田将生はゆとり世代なのです。せっかくエリアマネージャーに昇格したのにそれを捨てて退職すると言い出す。

そのとき、取引先の社長・でんでんに言われます。「もっと上を目指そうとか思わないの?」と。

「誰より上ですか?」

逆にそう問われたでんでんは答えに窮します。岡田将生は競争を望まないというゆとり世代の申し子なのです。仕事で出世することよりも、私生活の充実のほうがよっぽど大事。それは連名で辞表を提出した安藤サクラも同じですね。

それがいいとか悪いとかでなく、「彼らはそういう世代なんだよ」というクドカンの温かい目が感じられます。私が言ったような、「上の世代がゆとり世代はけしからんと言うようなドラマ」だったらただのお説教になっていたことでしょう。
逆に、ゆとり第一世代の岡田将生が第二世代である妹・島崎遥香に説教し、同時に、もっと上の世代である母親・中田喜子から「いい潮時だから辞めるって何事か!」と説教される流れになっているため、ゆとり第一世代が中間管理職的な悲哀を帯びているようにさえ見えます。クドカンの腕が冴えまくってますね。

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童貞教師・松坂桃李も同じ。あれだけ同僚の教師たちから「童貞なんだから性教育は無理ですよね」とバカにされても(そんな小学校ないでしょうけど・笑)それでも童貞卒業することを目指すんじゃなくて、童貞であることをひとつの個性として、「自分はそういう人間だからそういう人間として性教育をやっていくんだ」とは言いませんでしたが、これまでの松坂桃李の言動を思い返せばそう考えていることは明らかです。個性重視、競争否定のゆとり特有の事象がここにも!

やはり、クドカンがゆとり世代のことを「わからない」と潔く認めているからこのような芸当ができるんじゃないでしょうか。「理解がある」んじゃなくて、そもそも理解なんてしようとしていない。そんな上から目線は邪魔になるだけ。ただ「わからないものをわからないものとして正直に描く」という方法論。それが先述の「温かい目」を生んでいると思います。

単に展開が面白いだけのドラマじゃなかった。いまのいままで気づかなかった私はいったいどこを見ていたんでしょうか。

とはいえ、ついこの間までこのドラマが「どこに向かっている物語なのかよくわからない」ものだったのは事実。

それでも見続けてきたのは、ひとえに、この人のおかげです。


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主役の岡田将生が実にいいんですよ。他の役者もいいんですが、特に彼がたまらなく素晴らしい。

ドラマの屋台骨は俺が一人で支えてみせる! と言わんばかりの大熱演。背も高いし、もうちょっと精悍な顔つきになってサスペンス・アクション大作映画なんかに主演してほしいもんです。

さて、『ゆとりですがなにか』は、柳楽優弥が警察に捕まり、岡田将生の実家の酒屋を継ぐという野望が絶たれ、でももう仕事は辞めてしまった、という予断を許さない展開ですが、いったいどこへ着地するのか。

次の第9話は、初めて岡田将生目当てではなく、純粋に内容が目当てで見る回になりますが、楽しみでしょうがありません。

上の世代の「これだからゆとりってやつは…」という言葉に愛情が混じり始めているだけに、期待はいやでも高まるばかりです!


続きの記事
第9話 島崎遙香の役名を「ゆとり」にしたクドカンの熱き想い
総括「2010年代を代表する大傑作!」







2016年06月05日

1975年アメリカ映画『悪魔の追跡』(以下ネタバレあります)


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ある友人同士の夫妻二組が、田舎を車で小旅行してるときに邪教集団の殺人現場を目撃してしまい、彼らに執拗に追われ、警察も実はグルで、いや、そもそも町の住人全員がグルで、そして…。という物語。

このちょっと前に作られた『激突!』とか『ダーティメリー、クレイジーラリー』とかいろんなカーチェイス映画の大ヒット作にあやかったうえに、そのころ流行していたオカルト映画の味付けをしたら儲かるんじゃないかという商魂が見え見えの通俗映画なんですが、これがいま見てもやたら面白いんですね。

考えられる理由としては、

①映像の力を信じた脚本
②ピーター・フォンダもウォーレン・オーツもこの手の通俗映画では手を抜きそうな俳優なのに、それをさせなかった監督の手腕

など、いろいろあると思います。カッティングがうまいとか、本当にいろいろ。

でも、そういうことほとんどどうでもいいんです。

今回見直してみて一番引っかかったのは、主役二人ピーター・フォンダとウォーレン・オーツの妻役として配された無名女優二人なんですね。このキャスティングに「アメリカンニューシネマ以後の映画人の無意識」を見た気がするのです。


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右がピーター・フォンダの妻役で、左がウォーレン・オーツの妻。

見ておわかりのように、美女とブサイクなんですね。しかもブサイクなほうは豚のほうがまだましじゃないかというくらいのひどい顔。

かつて誰かが「映画作りは映画の原理と世界の原理の覇権闘争の場だ」と言いました。

「映画の原理」とは「泥棒は泥棒する、殺し屋は殺す、恋人は恋をする」という、登場人物がその役柄だけに忠実な行動をするもので、反対に「世界の原理」とは、泥棒だって必ずしも泥棒ばかりするわけじゃないし、殺し屋だってそう簡単に殺すわけではない、躊躇もするだろうし真逆の行動をとるかもしれない、といういわば「リアリティ」のことですね。

この『悪魔の追跡』は、アメリカンニューシネマが台頭した60年代後半から5年以上10年未満という微妙な時期に作られました。ニューシネマ以前はセット主体で、以後はロケ主体とおおざっぱに言っていいと思いますが、映画製作倫理規定=通称ヘイズ・コードが撤廃されて、現実に存在する様々な醜い事象を観客に見せてもいいという時代になったため、「絵空事はもういい。リアリティのある映画を見たい/見せたい」という気運が高まっていました。

要は「映画の原理よりも世界の原理が大事だという風潮」でした。だから映画の原理だけで作られたMGMミュージカルなどはアッという間に廃れてしまったわけですが、そのような気運のなかで作られたこの『悪魔の追跡』は、映画の原理と世界の原理がヒリヒリするほどせめぎ合う作りになっています。

それが象徴的に表れたのが女優二人のキャスティング。
ニューシネマ以前のアメリカ映画ならどちらにも美人女優を配するところでしょう。
ニューシネマ以後の考え方なら二人ともブサイクな女優を配するでしょう。

しかし、この映画では、片方を普通の美人に、もう片方をひどいブサイクにした。

ここに「映画の原理と世界の原理のせめぎ合い」を感じるのです。

アメリカの片田舎で邪教集団が密儀をやっていて人を殺している。というのは実際にあるらしいですが、その実際にはあるけど描写次第では陰惨になりかねない内容を、リアリティを失わない程度にフィクショナルな映画として提示したい。という製作者たちの無意識の欲求。

それが女優二人のキャスティングに象徴されてると思うんです。ブサイクな顔が「これは現実に起こりうるお話ですよ」と言い、美女のほうが「いや、でもこれは映画ですから」とエクスキューズする。いいバランスが成り立っていると思いました。

おそらく、作者たちはそんなこと何も考えてなかったはずです。たぶん、

「一人をブサイクにするならもう一人は美女にしようよ」
「そうだね」
「やっぱり映画なんだから一人くらい美女見たいだろ」
「そうに決まってるさ」

という程度の軽い会話が交わされただけだったのでしょう。

しかしながら、「映画の主要人物だから美女とはかぎらない」という世界の原理に従いながらも、「そうはいってもやっぱり映画なんだから美女を見たい/見せたい」という映画の原理が顔を出す。

あの、戦慄しながら笑ってもしまう二律背反的な独特のラストシーン。あれは、70年代のB級ホラーやサスペンスに特有のものです。ネガティブな反応とポジティブな反応が同時に起こる。「面白いけどツッコミどころ満載」なんて惹句は70年代アメリカ映画に顕著な特徴だと思います。

あれって、世界の原理を求める観客と、それでも映画の原理をもちこみたい映画人の無意識とのせめぎ合いが原因じゃないだろうか。

というのが、いまのところの私の仮説です。


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2016年05月29日

2年前と同じ「マドリード・ダービー」となった欧州チャンピオンズリーグ決勝は、我がレアル・マドリードがアトレティコ・マドリードと延長戦の末に1-1の引き分けに終わりました。


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PK戦の末に優勝は勝ち取りましたが、前々から私は決勝だけは再試合とかちゃんとサッカーで決着をつけてほしいと願っている人間なので、別にうれしくないです。確かに11回目の優勝です。ビッグイヤーに「REAL MADRID」と彫られてましたし、ウンデシマ達成。ジダンは選手・監督両方で優勝した7人目の監督となりました。

が、今回は2年前と違い、もともとアトレティコ優勢で負ける確率が高いと思ってたんですよね。だってアトレティコは異様なまでに失点が少ない。今季はリーグ戦38試合で18失点だったかな。2試合で1点以下。しかも直接対決では1分け1敗。ここ3シーズンぐらいで見ても、勝ったのは2年前のCL決勝ぐらいですからね。国王杯でもスーペルコパでも負けるか引き分けだし。

というわけで、今日は負けて不貞寝するはめになるのかなぁ、と思ってたんですよ。あわよくば勝って1日ハイな最高な日になればいいなぁとも思ってましたが。



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しかし、優勝して不貞寝するはめになるとは思ってもみませんでした。

前半、開始早々から相手ゴールに迫る動きが多く面白かったですが、セットプレーからセルヒオ・ラモスのゴールが決まると(あれはオフサイドでしたね)アトレティコにボールをもたせてばかりで、せっかく奪っても速攻に行かず、わざわざ自分たちで遅攻にするという見てるファンのストレスを溜める戦術。

思うに、アトレティコがああいう引いてしっかり守って奪って速攻というサッカーをしたかったんですよね。バルサもバイエルンもその戦術にやられたわけで、ジダンはそれを警戒して、「カウンターを食らわない戦術」として、相手にボールをもたせてやりたいサッカーをやらせない手を選んだのでしょう。

でも本来、ジダンがこんなサッカーをしたかったとは思えません。なのになぜあんな自堕落なサッカーを展開したかといえば、フロレンティーノ・ペレスというアホ会長のせいです。


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昨季、選手からもサポーターからも信頼の厚かったアンチェロッティがいい仕事をしながらも無冠だったというただそれだけで解任されてしまい、それを弟子として間近で見ていたジダンは「タイトルを取らなければクビになる」という危機感から、もともとリーグ戦でやっていた(特に就任当初)スペクタクルなサッカーより「勝てるサッカー」にシフトチェンジしたんでしょう。ジダンが大好きな選手たちも彼がクビになるのは嫌だからその戦術に乗った。監督も選手もそうしなければアホ会長にチームがめちゃくちゃにされると思って、やりたくもない奪っても遅攻するつまらないサッカーを積極的にやっていました。

このまま1-0で勝っても少しも胸張れないではないか。

と思いましたよ。マジで。

後半開始早々、PK献上したときは、これで1-1になってくれればまた変わってくるのではないか、と期待しましたが、幸か不幸かグリーズマンのシュートはバー直撃。

で、ここからジダンの采配がおかしくなるんですよね。「勝利至上主義」はまだ理解できますが、采配がまったく理解できない。

カルバハルは怪我だからダニーロでしょうがないけど、2人目のイスコは72分にクロースと交代ってマジで??? クロースをそんなに早く下げていいの? しかもまだ1点差だよ。と思ったら、その5分後にはベンゼマに替えてルカス・バスケス投入っていくら何でも延長の可能性があるのに3枚の交代カードを使い切ってしまうなんてどうかしてる!!!

こういう打つべき手を打たず奇手を打ってしまうときって決まって相手に流れが行ってしまうんですよね。
直後の79分にフアンフランの素晴らしいクロスから途中交代のカラスコに決められ同点。カラスコについていってたのはルカス・バスケス。ダニーロはいったい何してたんだ! すぐそばでウロウロしてるだけ。カルバハルなら防げてたかも。

後半開始早々の同点劇なら面白くなってたでしょうが、あと10分ちょっとの同点劇は「悲劇の前兆」としか思えませんでした。(そういえば、あの同点シーンの直前ってレアルのビッグチャンスでしたよね。ベンゼマ、なぜロナウドにパスしなかった!?!?)

というわけで、アトレティコが交代カードを2枚残した状態で延長に突入。もう負けたと思いましたよ。

しかしながら、延長は面白かったんですよ。やはり両チームともPK戦での決着は嫌だったんでしょう。ビッグチャンスの多いオープンな30分でした。特にレアルのほうがチャンスは多かったですよね。フリーでパスを受けたルカス・バスケスがシュートを打たなかったなど不満はありますが、それでもなかなかスペクタクルなサッカーで面白かった。ああいう「がむしゃらサッカー」を最初の90分でもっと見たかった。そうしてくれていれば、少なくともPK戦で優勝が決まるなどという「不幸」はなかったと思います。

すべてはフロレンティーノ・ペレス、ミスターあほ会長のせいです。
ジダンのおかげでめちゃくちゃだったチーム状態が完全にもち直して決勝まで来れたんだから、その時点で契約延長しておけば、監督、選手ともにあんな「現実主義的サッカー」に邁進しなくてすんだのに。それを何ですか、今日の試合の結果如何ではウナイ・エメリにオファーするつもりだっとか。アホか。(そりゃエメリは優秀な監督だけど、ジダンを解任する理由がないではないか)

CLタイトルを取ったのだからジダンは安泰なんでしょうけど、過去に2度もリーグ優勝しながら「守備的でつまらない」という理由で2度とも解任されたカペッロの例もありますし。どうなるのか。

すべてはアホ会長が悪い。ジダンが後半の選手交代で迷走したのも「もし負けたら…」という恐怖でおかしくなったからでは? 

とにかく、PK戦での優勝は少しもうれしくありません。この試合はあくまでも引き分け。私の中では両チームとも優勝です。