2016年11月11日

おととしの秋に公開されながら見逃していた『小野寺の弟・小野寺の姉』をWOWOWで見て、その素晴らしさにというか、そのあまりのグロテスクさに胸が熱くなりました。


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原作小説は未読ですが、映画化の前に舞台化されてまして、ある劇作家さんが激賞してらっしゃったのでとても気になっていたんです。でも、2年前のいまごろは映画断ちをしていたもんでね。行きたくても行けないというか書きまくってましたから。

今回やっと見ることができまして(ビデオですけど)いやぁ~、やはり西田征史さんはいい映画をお作りになるなぁと感激しました。

何!? 西田征史を知らない?? 

あの号泣必至の『ガチ☆ボーイ』を書いた人ですよ。傑作というほかない『半分の月がのぼる空』を書いた人ですよ。えー、ほんとに知らないの?

まぁ、私もさして知らんのですが、それはともかく、33歳の弟と40歳の姉の同居生活を描くこの映画がまた実に素晴らしいのです。

何だか「たいしていい映画とは思えない」とか「ごくフツーの出来栄え」とか「たわいもない話」とかって言ってる人がいるようですが、


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ファック!!!!
まったくわかっちゃいない!!!

何が素晴らしいといって、まずヒロインの絵本作家・山本美月が素晴らしい。


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 調香師の弟に質問するために待ち伏せしてる。昌ちゃん帽がかわいい。

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 できあがった絵本を読んでもらって見せる笑顔がかわいい。

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 弟とデートする楽しげな笑顔がかわいい。

って、おまえは山本美月が好きなだけなのか!! ってお叱りを受けそうですが、さにあらず! ここからが本題なのです。

何故に両親がいないのかわかりませんが、一軒家で二人暮らしの小野寺姉弟のウロウロを描くこの映画を駆動させているのは、姉が弟を思いやり、弟が姉を思いやる、互いが互いを思いやっているという、普通に考えたら何も葛藤が生まれなそうな状況なのですね。

しかし、それこそが大いなる葛藤を生じさせてしまうというところがこの映画の非凡なところというか、これはもうギリシア悲劇の世界ですよね。

「良かれと思って取った行動が最悪の事態を生む」のを悲劇の最良の形とアリストテレスは看破しましたが、44年前にそれを見事に映画でやってのけたのが『ゴッドファーザー』でした。

いやいや、いくら何でもこの『小野寺の弟・小野寺の姉』が『ゴッドファーザー』ほどの格調を具えているとは言えないでしょう、という声が聞こえてきそうですが、はたしてそうでしょうか。

最近、WOWOW製作の『コールドケース』というドラマを見ました。うんざりしました。カルト教団とか虐待とかそういうので話を組むのって安易な手法だと思うんです。悪の設定が簡単だから。と、これはある高名な脚本家が言っていたことですがね。というか叱られたのです。「おまえはそういうのなしで話を組めないのか」と。

だからこの『小野寺の弟・小野寺の姉』には、してやられたというか、あぁ自分はこういうのが書けなかったからダメだったんだなと打ちのめされるというか、とにかく…感動したわけです。

弟は、美人の恋人(麻生久美子)がいたんですが、「姉をおいて自分だけ幸せになっていいのか」と躊躇してるうちに別れる羽目になった。姉はそんな弟を見かねてたまたま出会った山本美月とくっつけようと奮闘する。でも弟はまた同じことの繰り返しになるんじゃないかと及び腰。でも、これではいけないと思いきって告白したら「もう遅い」と泣きながら断られるんですね。

これだけならまぁ「よくある話」で片づけてもいいんですけど、やはりこの『小野寺の弟・小野寺の姉』が何ともグロテスクなのは片桐はいりのキャスティングというか、いやそうではなくて、片桐はいりという女優が必要なほど「姉の顔があまりに醜い」という設定にあるんですよね。弟のせいで前歯が一本黒くなってしまって、それでよけいに「姉をおいて自分だけ幸せになっていいのか」という気持ちに拍車がかかるとはいえ、根底には姉が女として何の魅力もない、というところにある。

これはもう神様のいたずらとしか言えないというか、どうしようもありません。努力してどうなるもんでもなし。弟の恋路はもうちょっと早く告白していたらよかったと言えるし、基本的にイケメンだからこれからまた素敵な出逢いもあるでしょう。そして次は今回の教訓を生かしてうまくいきそうです。しかし姉のほうは…

ほのぼのとしたテイストですが、かなりグロテスクだと思います。


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だって、山本美月と片桐はいりが同じ種の同じ性の生き物とは思えませんもの。

いや冗談ではなく、本当に。

人は親を選ぶことはできません。同様に顔を選ぶこともできません。

あ、そうか。この映画は根底に「顔」という枷を設定しているからホームドラマなのに親が出てこないんですね。なるほど。

しかし、その顔がねぇ。。。

さっき、弟のほうは幸せになるチャンスが充分あるみたいなこと書きましたが、姉の顔があれでは、しかも、歯を怪我させた責任が弟にあるとなっては、この姉弟はもしかしたら二人とも一生幸せになれないかもしれません。

その理由が「顔」。
本人には何の責任もありません。誰が悪いわけでもありません。誰も責められない。誰かを責めても自分がみじめになるだけです。

そういうほとんど暴力としか言いようのない理不尽に耐える姉とその弟を描いたこの映画を、その理不尽さゆえにこそ傑作と言いたい。

虐待や殺人なしでも「暴力」を描くことができる。
ことさらな設定を用いなくとも「運命」を描くことができる。

脱帽です。


小野寺の弟・小野寺の姉 通常版 [Blu-ray]
向井理
ポニーキャニオン
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2016年11月08日

よく、「政治的に正しい正論よりも、政治的に正しくない極論のほうが好ましい」とかいう言い方があるじゃないですか。

私もまったく同感で、できるだけ正論よりも極論を心掛けてこのブログを書いてるんですが、先月からBSジャパンで始まった『スパイ大作戦』の再放送を見ていて、そうはいっても政治的に正しい=ポリティカル・コレクトネスが大事なこともあるんだな、と思ったんです。



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『スパイ大作戦』に出てくるメインキャラクターで唯一黒人のバーニー。
彼はコンピュータやメカに以上に強い「知力」の人なんですね。

では、体力というか「腕力」は誰かというと、


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白人のウィリー。

この二人の人種がもし逆だったら、つまり、知性あふれる白人と腕力の黒人だったら……『スパイ大作戦』という娯楽活劇の面白さは少しも揺るぎませんが、果たして製作から50年たったいまでも再放送されていただろうか、と考えてしまったんですね。

最近CSで見た『不知火検校』を見て、 さらにその思いを強くしました。


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『不知火検校』は、勝新太郎が最大の当たり役・座頭市を演じる前に出演した映画で、同じ盲目の男が主人公です。

この男はかなり悪辣なんですね。めくらゆえに蔑まれ虐げられる。そこを逆手にとってかなり悪辣なことをしてのし上がっていくわけです。そこらへんはなかなかのピカレスク・ロマンというか、私はこういうの大好きなんですが、あまり当時の(そしていまでも)一般大衆の支持は得られなかったようです。

いや、結構ヒットしたそうですよ。評価も上々だったようです。

でも、同じ永田雅一製作、犬塚稔脚本で、ほんの2年後に『座頭市物語』が作られたのはなぜなのか。

同じ盲目だし座頭市も結構悪辣な奴ではありますが、不知火検校ほどじゃないし、義理人情に篤い男として描かれています。

やはり、ポリティカリー・コレクトネスに欠けるとの判断だったんじゃないでしょうか。『不知火検校』は確かにヒットもしたし評価も上々だったが、ああいうのは長く続かない。ここはやはりもっと大衆受けする役柄に替えたほうがいいんじゃないか、という判断が働いたであろうことは想像に難くありません。実際、『座頭市』シリーズは大映のドル箱になりました。

だから、『スパイ大作戦』ももし白人と黒人が逆だったら「差別的だ」ということになって歴史から葬り去られていた可能性があります。 

政治的に正しいことが功を奏することもあるのか、と。(というか、世の中ってそういうもんなんですかね、やっぱり。世間はきれいごとが大好きですから)

極論ばかりが能じゃない。
たまには青臭い正論も語ろうじゃないか。と思った次第です。 


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勝新太郎
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2009-09-25


 

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2016年11月06日

何か、「若き映画人志望者に向けて」なんて題すると私がまるでプロみたいですが、プロになれなかった人間ですよ~~~。

プロにはなれなかったのはいろいろ間違いがあったわけで、今日はそんな間違いを一席。

ちょいと前に我がレアル・マドリードの監督ジネディーヌ・ジダンに向けてこんな質問が投げかけられました。

「あなたの監督としてのスタイルは何なのか」

ちょうど連勝街道まっしぐらから4戦連続ドローというちょっとチームが停滞していた頃で、こういうときって情け容赦のない質問が飛ぶんですね。その記者はおそらく「あなたのスタイルがちゃんと築かれていないから勝てないんじゃないか」という意味で質問したのでしょう。

ジダンがどう答えたかは忘れましたが、ジダンのスタイルはジダン自身じゃなくて周りが決めることだと思うんですよ。 

そもそも「スタイル」って何ぞ?

私はこういうスタイルの人間である。ってモニカ・ベルッチなら自慢げに言えるでしょうし、肉体のスタイルなら一目瞭然ですけど、監督としてのスタイルとか、映画人としてのスタイル、脚本家としてのスタイル、はたまた人間としてのスタイルなんて口では言えません。

ところが、私は「スタイル」というものを意識して書いてしまってたんですね。

それもまだ「サスペンスの名手になりたい」とか「笑わせるスペシャリストになりたい」とかなら、まだよかったかもしれませんが、私の場合、「何もスタイルがないのがスタイルのような脚本家」というものでした。別にそれを意識してたわけじゃないですが、いまとなって考えてみると、どうもそういう色気をもっていたらしいと最近思い当たりました。

いずれにしろ、自分で自分のスタイルを決めるのっておかしいと思うんです。

いまでも毎日のように何がしかの物語やキャラクターを思いつきますが、そのアイデアの片鱗にどこに自分は魅力を感じているのか、ということを掘り下げていって、その果てにいい脚本ができあがればそれでよし。そうやって積み上げた作品を読んだり見たりした人が「あ、この人のスタイルは○○なんだ」と思う。

だから、スタイルというのは自分では決めるものじゃありません。。

自分の長所や短所なんてわかりません。他人の目のほうがちゃんと言い当てられます。
体のスタイルだって、自分ではいいと思っていても他人に言わせたら「ちょっと…」ということも充分ありえますしね。

どうか、自分のスタイルはこれこれこうである、なんて妄想を抱かず、仮に誰かから「おまえのスタイルは何だ」と聞かれても決して惑わされることなく、あなたの心に浮かんだアイデアの魅力を探りぬいていい映画を作ってほしいと思います。

(私が最近繰り返し言ってる「ジャンル分けは不毛」ということにも通じることかもしれませんね。私のスタイルは○○である、というのは、自分自身をジャンル分けすることとイコールだろうと)


 

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