聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

デイミアン・チャゼル監督『セッション』(星一徹との大きな違い)

話題の映画『セッション』をようやく見ることができました。

本国アメリカではサンダンス映画祭でグランプリ、日本でも絶賛の嵐ということで期待に胸を膨らませて見に行ったんですが、これがもうはらわたが煮えくり返るほど激怒するしかない作品でした。

主人公のドラムニスト、ニーマンは名門シェイファー音楽院への入学を許され、野心と希望を胸に最初の授業に赴くと、そこにいたのは生徒を恫喝して指導する鬼教師フレッチャーでした。

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フレッチャーはすぐれた奏者には温かみを示すものの、ほんの少しでも音程が狂ったりテンポが乱れたりするのを絶対に許しません。それはいいでしょう。そうでなければ名門音楽院のバンドを率いることはできません。

問題は彼の指導法ですね。なぜ恫喝しかできないのか。恐怖で指導して演奏の質が上がったとしても、そんなものは一時的なものでしかないのでは? と思ってしまいます。

実際、フレッチャーにはショーンという優秀な教え子がいて、いまはトランぺッターとして活躍してるみたいですが、そのショーンがうつ病で自殺するんですね。発症したのはちょうどフレッチャーから恫喝されていたときだったと。

ならばこの物語の根っこにある問題は明らかでしょう。フレッチャーの指導法が誤っているのです。ショーンの死に際して見せた涙は本物ではあったでしょう。しかしながら、だからこそたちが悪い。フレッチャーは教え子の死を悲しみながらも少しも自分の責任とは思っていない。それはクライマックス前のニーマンとの会話でも明らかでしょう。「俺は悪くない。だから謝罪はしない」と。

だからショーンの死を経ても何も変わることがなくニーマンを恫喝しまくって何とか主奏者に仕立て上げるものの、すったもんだの末にニーマンから「フレッチャー、お前が悪いんだ! 殺してやる、殺してやる! マザーファッカー!!!」と殴られそうになる。

そして、ニーマンは父親の強い勧めでフレッチャーを密告。フレッチャーは解雇され、いまは自分のバンドを率いてコンテストの直前だと言うのが「俺は悪くない。だから謝罪はしない」という場面なんですね。

恫喝指導で思い出されるのは、映画じゃなくてマンガですけど、『巨人の星』があったよな、と。


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これは有名な「卓袱台引っくり返し」の場面ですが、星一徹は息子の飛雄馬を恫喝と暴力で巨人の星になれるよう導きます。

飛雄馬もニーマンと同じように、一徹に反発しながらも結局エディプス・コンプレックスの塊である彼は一徹を乗り越えようとするあまり、最終的に利き腕である左手の自由を失います。交通事故に遭ってボロボロになりながらも主奏者としてドラムの前に座るニーマンと同じですね。

いや、違います。

飛雄馬は一徹のもとから逃げて明子姉さんと二人暮らしを始めたりするけれど、結局一徹から逃れられないのは、一徹が執念深いというのもありますが、やはり根底にあるのは「エディプス・コンプレックス」でしょう。父と子という「血」が枷となって飛雄馬を縛り続けます。「(父ちゃんは嫌いだが)何とか父ちゃんに認められたい」という思いはよくわかりますもの。

一方、ニーマンはフレッチャーを音楽における父とみなしているのでしょうか。だから飛雄馬のように逃げられないのでしょうか。

違いますね。ニーマンは実の父親との間に何ら問題がない。

例えば、『ブギーナイツ』でマーク・ウォールバーグ演じる主人公は、実の父親が言いたいことを何も言えないダメ親父で、母親が父親の代わりを演じようと怒ったりするものの逆にヒステリーを加速させるばかりで、主人公はそんな家を捨ててポルノ映画界という疑似家族の世界に入っていきます。そこでバート・レイノルズ演じる映画監督を父親と見なし、彼に気に入られたい一心で頑張り、頑張りすぎて追い出され、そして謝罪をして再び受け入れてもらう。それもこれも彼の父親が父親として機能していないからであり、ニーマンのように父親との関係がうまく行っているのであれば、何も疑似父親を求める必要はありません。

だから、飛雄馬と違ってニーマンは、フレッチャーに認められたいのではなく、あくまでも己の野心を満たしたいがために数々の恫喝を耐えぬくわけですが、ここが共感できないんですよね。

だって、交通事故でボロボロになった、でも親父に認められたいからそれでも演奏する、というのであれば「気持ちはわかる」。でも、ただ野心を満たしたいというだけのために演奏するのであれば、他の楽団員に対して失礼すぎます。そして、血だらけの彼を見てすぐに交替させなかったフレッチャーにも大いに問題ありですね。彼は教師でしょう? 演奏で一番になることより生徒の安全のほうが大事なはず。あそこはすぐに交替させないと。

で、このあと誰が聴いても下手な演奏しかできなかったニーマンは日頃の鬱憤を晴らそうとフレッチャーを殴りつけようとしますが、これも自業自得で共感できません。もっと早く家を出ていたらバスのトラブルにも合わなかっただろうし、スティックを忘れなければ交通事故に遭うこともなかった。ニーマンの怒りがフレッチャーの恫喝指導に起因するものでないからこのシーンは極めて不可解な場面となっています。

しかも、あろうことか、最後、フレッチャーは自分のバンドにニーマンを引き入れて大会に臨むんですけど、何と演奏開始直前に「密告したのはお前だな」とニーマンに言い、急遽、楽曲の変更を宣言、その楽曲の譜面をニーマンだけがもってなくて(ってそんなことありえるの?)演奏は大失敗、ニーマンは音楽生命を絶たれそうになる。

これ、絶対にダメです。いくら何でもそんな卑劣な手を使って教え子を罠に陥れようとするなんて。悪役とはいっても手口が卑劣すぎて悪の魅力に乏しすぎます。映画の悪役は誰よりも魅力的でなければ。星一徹がそうでしょう。彼が「悪役」かどうかは議論の余地がありましょうが、少なくとも主人公・飛雄馬を抑圧する「敵対者」ではある。

一徹は飛雄馬に対して真っ向勝負しか挑みません。回りくどいやり方など眼中にない。そして何より、「俺が鬼にならなければ飛雄馬がダメな男になる」という自覚がある。『巨人の星』のラストはあまりに暗いエンディングなので一徹が鬼になったことがはたして息子・飛雄馬にとっていいことだったかどうかは甚だ疑問ですが、少なくとも一徹には「俺は飛雄馬を一人前の男にするために敢えて鬼になるのだ」という自覚があった。「俺は悪くない。謝罪などしない」と平然と言ってのけるフレッチャーとは似て非なる好漢なのです。

オーラスは、音楽生命を絶たれそうになったニーマンが起死回生の演奏でフレッチャーの心をつかみ大団円。ここにえらく感動した人が多いらしいですが、これ、ダメでしょう。だって「問題」が何一つ解決していない。

この映画の「問題」はフレッチャーの行きすぎた指導が原因で精神を病む生徒がいる、というものでした。ニーマンもおそらく病んでいます。その彼が起死回生の演奏でドラマーとして一流になれたとしても、結局あのショーンのように自殺してしまう可能性が極めて高い。これではこの物語はいったい何を語ろうとしているのかまったくわからなくなってしまっています。

ここで思ったのは、いま巷に跋扈しているブラック企業やブラックバイトです。

こういう映画に感動する人がブラック企業を肥え太らせているのだと思います。逃げればいいだけなのに自ら進んでイヤな奴の言いなりになり、ほめられたら充実感で恍惚となり……

これ以上、もう何も言うことはありません。



今クールの本命ドラマ登場! 

今クールのテレビドラマは、『エイジハラスメント』『探偵の探偵』『ど根性ガエル』という見たかった3本をことごとく初回見逃してしまったために、とりあえず『恋仲』とWOWOWの『煙霞』を続けて見てみようかと先日書きましたが、まだ新しく始まるのがあったんですね。新聞のテレビ欄で紹介されていて面白そうだったので見てみました。テレ朝の『民王(たみおう)』。


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これがやはりというべきか、めっぽう面白かった!

体が入れ替わるというのは古今東西いろんな映画や小説の題材になっていますが、総理大臣とそのバカ息子の体が入れ替わるという発想は新しい。

しかも総理を演じるのが私の大好きな遠藤賢一さんなので画面を見てるだけでまったく飽きません。(他の出演者に好きな人はいませんが。あ、でも高橋一生は結構好きかも。金田明夫とかも)

ただ、第1話で総理を悩ます問題が、「バカヤロー!」と叫んだ大臣の処遇、というのが何か古臭かったです。実際に「バカヤロー!」と叫んだ総理がいましたからね。もっと他に何かいいセリフはなかったものか。

それと、総理になったバカ息子が国会の答弁で秘書が作った答弁書を読むときにバカなので漢字の読み間違いをするんですが、そのしょっぱなが「未曾有」を「みぞゆう」と読んでしまうというもので、これも最近実際にあったことなので何とも古いというか二番煎じというか、もっとバカバカしい読み間違えがあってもよかったんじゃないですかね。

「善処」を「ぜんどころ」と読むなんてそのほうが難しいし。まぁ長老役の西田敏行がそのまんま突っ込んでましたけど。それが狙い? いやいや、バカ息子に「処」を「ところ」と読むことはできないはず。ありえない大ウソを基盤にした物語だからこそ細かいところはリアルにやってほしいところです。なおかつ笑える読み間違いとなるとかなり難しいとは思うんですけど。

とはいえ、今回の白眉は何といっても就活中の息子の代わりに銀行へ面接に行った総理が、

「99年のあの莫大な公的資金は何のためだったのか。貧苦に喘ぐ中小企業への貸し渋り・貸し剥がしをやめて手厚い融資をしてもらいたかったからだ。それを銀行はまるで自分たちの金のように『企業努力をしない企業には貸せません』とまた貸し渋りをやっている。そんなんでいいのか、おまえら!!!」

と大演説をぶつシーンですね。いやぁ、この場面には本当に胸がすく思いでしたよ。大多数の国民が思ってることですからね。あの演説(というかほとんど恫喝)だけでもこのドラマを作った意義がある、と言っては言いすぎでしょうか。

ヒロインに本仮屋ユイカというのはどうかな、というのが正直なところですが、菅田将暉の同級生の知英という人はいいですね。誰だろうと思ったら元KARAの人なんですね。何故にあんなに日本語がうまいのか。日本人かと思ってた。

ともかく、この『民王』は最後まで見れそうです。これからの展開が楽しみ楽しみ!



私が吉野家を好む理由

昨日のニュースですが、吉野家が6年ぶりに新卒採用を復活させるとか。
中国をはじめ東南アジアなど海外への進出を強化するためにはアルバイトを社員に登用するだけでは将来の幹部を育成できない、との判断をしたようです。

その判断の是非は私にはよくわかりませんが、新卒採用を復活させるということは業績がよくなってきたということで、すき家や松屋、なか卯などより吉野家を好む私にはとてもうれしいニュースです。


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なぜ吉野家が好きなのか。

それは、中国人留学生を積極的に雇用しているからなんですよね。

私は別に特別中国贔屓の人間ではありませんが、やはり日本人としてこの国の歴史と学ぶと、中国というのはアメリカなどよりよっぽど縁の深い国ですし、友人の奥さんが中国人というのもあるし、それに何よりここ最近の反中感情の盛り上がりにはとても悲しい思いがありますのでね。(地元のバイキング中華料理屋が店仕舞いしたと聞いて、これも悲しい出来事でした)

さて、吉野家が中国人留学生を積極的に雇用している理由はよく知りません。食べに行くとほとんどどの店でも中国人の店員がいるので積極的に雇用しているとしか思えません。

10年ぐらい前に中国で反日デモが起こったとき、日本では「中国はけしからん!」という論調が盛り上がり、餃子事件やらドラえもんの盗作事件とかその他さまざまな事件があるたびにメディアはこぞって「中国は信用できない」という言説を撒き散らしました。そして一般大衆はそれに完全に乗せられてみんな「中国製の商品は買わない」と言うようになりました。それならまだしも、「中国人は嫌い」と差別発言を平気でしても誰にも咎められないどころか逆に「そうそう、俺も、私も!」と同調する者しかいなくなってしまいました。

そのような時代の流れのなか、吉野家は中国人留学生を積極的に雇用し続けているんですよね。

これはすごいことだと思います。
もうずっと前から吉野家って客足が減ってるんですよ。牛肉の輸入停止とか値上げとか他の原因もあったりしますが、私自身の実感として一番客足が遠のいたと思ったのは、牛肉輸入停止の1年前、いまから10年前の中国での反日デモ発生のときです。そして、その頃は中国人の店員が多い店ほど客が少なかった。大阪のど真ん中で昼飯時にガラガラなんて普通ありえません。

確かに、海外の支店数を見てみると中国がダントツで多く、中国人積極雇用の裏には、中国支社で将来幹部になる人材をいまのうちに青田買いしておこうという思惑もあるのでしょう。

しかしながら、凡百の会社ならもう10年も前から客足が遠のいていれば少しぐらい中国人の雇用を減らすでしょう。吉野家はそれをしなかった。いつかは減らすんじゃないかと思っていたら、新卒採用復活までついにしなかった。

素晴らしい! 掛け値なしで素晴らしい企業だと思います。

それに、吉野家や中国人にかぎらず留学生の店員さんは日本人よりいいですよ。生活が懸かってるからとても真面目で誠実で愛想がいいし、マニュアルに囚われてないし。



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