2020年02月11日

昨日のアカデミー賞授賞式。元録音部の私には非常に興味をそそられる話題が出ました。

それは……

録音賞と音響編集賞の違い
日本側スタジオで解説をしていた映画評論家の町山智浩さんがこんなことを言っていました。

ツイッターから引きましょう。




これだから現場を知らない人間は……と思ってしまいます。

トーキーになって最初の頃、録音賞は「サウンド・レコーディング」というカテゴリーでした。それが50年代に単に「サウンド」になって2004年から「サウンド・ミキシング」になったのです。

つまり、

「サウンド・レコーディング⇒サウンド・ミキシング」なのであって、
「サウンド・レコーディング⇒サウンド・エディティング」ではありません。



サウンド・レコーディング(録音)とは何か
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町山さんは『ミッドナイトクロス』でジョン・トラボルタがやっていた、いろんな音を加工して「効果音」を作るのがサウンド・エディティングだといいます。私はハリウッドで働いたことがないから詳しくは知りませんが、アメリカに住んでいる町山さんがそういうのだから、その通りなんでしょう。いろんなサイトで調べてもそう書いてあるし。

しかし、だからといって「音響編集賞」と訳すのが間違い、「録音賞」とすべし、というのはいただけません。

だって、音を録るだけじゃなくてそれを加工するんだから「音の編集」でしょう? 私も爆破音やスタンガンの音などさまざまな効果音を作ったことがありますが、再生スピードを速くしたり遅くしたり、周波数を変えたり、そしてさらにそうやって加工した音をミックスして作るんです。それを「音響編集」と呼んで何がいけないのか。

それに、上記の通り、効果音を作る過程でも「ミキシング」があります。「エディティング」の中に「ミキシング」も含まれているんです。ミックスして作るんだから。

ただ、それじゃどちらが「サウンド・ミキシング」なのかわからないから、全体の音の調整を「サウンド・ミキシング」、個々の効果音の工程を「サウンド・エディティング」にしているだけ。


サウンド・ミキシングとは何か
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町山さんはサウンド・ミキシングを画像のようなダビングルームでの「最終的な音の調整」と認識しているようです。

それ自体は間違いではありません。が、2番目に引用したツイートに看過できない発言があります。

「ミキシングは録音された音源をミックスする作業で~~」

というところ。これもこれ自体は間違いじゃないですが、町山さんは「録音された音源」を効果音だけと考えているのが間違いというか元録音助手としては不快きわまりないのです。

映画にとって一番重要な「音」とは何でしょうか? 

これは誰にでもわかります。

そう、セリフです。


現場の同時録音もサウンド・ミキシング
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ここに録音技師は映っていませんが、だいたいカメラから離れたところに陣取っています。現場の録音技師もサウンド・ミキシングを行います。

私が付いていた録音技師もチーフもワイヤレスマイクが嫌いだったので(芯のある音が録れないから、と)ほとんど私とチーフが振る2本のマイクで録音していました。それだってサウンド・ミキシングですよね。

いまはワイヤレスが主流みたいで、20チャンネル(⇐うろ憶え)ぐらいの音を同時録音でミキシングするそうです。

映画の音において一番重要なのは現場でのセリフと状況音の録音です。それはかつて「サウンド・レコーディング」と呼ばれたものであり、いまは「サウンド・ミキシング」と呼ばれています。

そうやって録られた音源に、サウンド・エディティングで作られた効果音と音楽の3つをミキシングする。それもまた「サウンド・ミキシング」と呼ばれます。

つまり「サウンド・ミキシング」には現場でのミキシングとダビングでのミキシングと二段階あるわけです。そのうち、より大事な現場でのミキシングをまったく度外視しているのが許せないのです。現場でいい音が録れていてこそ最終的な調整が活きてくるのですから。

ただ、ダビングにおけるミキシングは3つの音を編集するのだから「音響編集」と訳すべき、という意見もあながち間違いではありません。

しかしながら、ここで大事なことは、

サウンド・ミキシングもサウンド・エディティングも「録音」と「編集」の二つから成っているということです。

生放送のとき、町山さんは「元の言葉で言えばいいと思います」と言っていました。サウンド・ミキシング賞とサウンド・エディティング賞というふうに。

私はそれには異を唱えるつもりはありません。と思ったら、ツイッターでまた「サウンド・ミキシングが音響編集賞、サウンド・エディティングが録音賞」などと頓珍漢なことを言っているのでこれは看過できないと筆を執った次第です。

サウンド・ミキシング賞やサウンド・エディティング賞では「よけい違いがわからない」という人もいるだろうから、ちょっと前の言い方、つまりサウンド・ミキシングを「音響賞」にして、サウンド・エディティングは「効果音賞」にでもすればいいんじゃないでしょうか。









2020年02月08日

いよいよ日本時間のあさって朝に迫ってきたアカデミー賞授賞式。今回は近年の予想がめちゃ難しい傾向が薄れ、もう流れが完全に決まってしまっている感が否めませんが、でも楽しみです。きっとサプライズがあるでしょう。きっと。(何もなかったりして)

私としては2002年のサプライズが一番好きです。演技賞は4つのうち3つが組合賞と違い、監督組合賞の受賞者が受賞できず、アメリカに戻ったら即逮捕されるロマン・ポランスキーが受賞。しかもエイドリアン・ブロディがハル・ベリーにブチューっと下品なフレンチ・キスをして、されたハル・ベリーは口を必死で拭うというビッグサプライズのおまけつき。

というようなことは今回は起きないでしょうね。

以下、大穴狙いの私の予想です。


作品賞:ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド
監督賞:サム・メンデス(1917 命をかけた伝令)
主演男優賞:アダム・ドライバー(マリッジ・ストーリー)
主演女優賞:スカーレット・ヨハンソン(マリッジ・ストーリー)
助演男優賞:ブラッド・ピット(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド)
助演女優賞:ローラ・ダーン(マリッジ・ストーリー)
脚本賞:ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド
脚色賞:ジョジョ・ラビット
撮影賞:1917 命をかけた伝令
美術賞:パラサイト 半地下の家族 
作曲賞:ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語
編集賞:フォードvsフェラーリ
衣装デザイン賞:ジョジョ・ラビット
録音賞:1917 命をかけた伝令
音響編集賞:1917 命をかけた伝令
視覚効果賞:1917 命をかけた伝令
主題歌賞:「(I'm Gonna)Love Me Again」(ロケットマン)
メイキャップ&ヘアスタイリング賞:スキャンダル
国際長編映画賞:パラサイト 半地下の家族
長編アニメ賞:トイ・ストーリー4
長編ドキュメンタリー賞:娘は戦場で生まれた


大穴狙いの『ワンハリ』!
というわけで、大方の予想は『1917』が作品賞なんでしょうが、私はあえて『ワンハリ』に。特に面白いと思わなかったですけどね。シャロン・テイトが殺されなかった、こうあってほしいもうひとつの世界を描きたかった気持ちはわかるけれど、それならそれでシャロン・テイトが独りで自分の映画を見てるとかだけなのはもったいない。もうちょっと彼女の喜怒哀楽をもっと丁寧に描いてほしかった。ポランスキーなんかほんの申し訳程度にしか出てこないし。それに何よりシャロン・テイトが殺されなかったのが結末というのはいただけません。あの後をこそ見たかった。

しかし、大穴狙いの私はあえて『ワンハリ』に一票を投じます。そりゃ大好きな『フォードvsフェラーリ』や『マリッジ・ストーリー』に頑張ってほしい気持ちはあるけれど、どちらも監督賞にノミネートされていないから無理でしょう。監督賞のノミネートもはたしている作品から選ぶとすると『ワンハリ』が一番ましかな、と。ブラピやディカプリオの魅力をたっぷり引き出したタランティーノ演出は素晴らしかった。私は内容が気に入らないだけ。『アイリッシュマン』『パラサイト』『ジョーカー』とはまったく肌が合わず。『パラサイト』に関して「映画芸術」で荒井晴彦さんが痛烈な批判をしていたけれど、完全に同意。あれはつまらない。前半は面白かったので後半が犯罪的なまでにひどかったということですな。

え、でも、じゃあ何で『パラサイト』が美術賞と予想を⁉ と言いたい向きもあることでしょう。

そうです。今年の予想(願望)の肝は『パラサイト』の美術賞にあります。


美術賞
かつては『大統領の陰謀』や『天国から来たチャンピオン』のような現代劇も美術賞を普通に獲っていました。が、最近は時代物やファンタジー系ばかり。

その傾向に対する異議申し立てとして、大いなる願望をこめて唯一現代劇からのノミネーションを受けた『パラサイト』に美術賞を受賞してほしいのです。どうせ『ワンハリ』か『ジョジョ・ラビット』なんでしょうけど。(2013年の美術賞も現代劇の『her/世界でひとつの彼女』に獲ってほしかったんですけどね)

視覚効果賞も普通に考えれば『ライオン・キング』が獲るべきだし獲ってほしいと思うけれど、ここは願望ではなく予想で行きます。


作品への評価ではなく……
最近の視覚効果賞は『エクス・マキナ』や『ファースト・マン』のようにそれほどたいした技術でなくても作品の評価が高いと受賞していますから、技術的に圧倒的な『ライオン・キング』ではなく作品賞大本命の『1917』と見ます。最近は撮影賞と視覚効果賞のダブル受賞も多いですからね。『ライフ・オブ・パイ』とか『ブレードランナー2049』とか『アバター』とか。

サウンド2部門も『フォードvsフェラーリ』に獲ってほしいし獲るべきだと思いますが、この部門も作品の評価が高いと受賞しやすいのでね。戦争映画がこの部門で強いことも考えると、分が悪いかな、と。

ただ、作品そのものが好きだからと投票するのはやめてほしい。人間だからしょうがないけど、ちゃんと自分の専門以外の部門であってもちゃんとCGなり音なりの良さを見極めて投票してほしいと切に願います。

『トイ・ストーリー4』はつまらなかったので受賞してほしくないけど、他のを見逃しているのでね。『失くした体』を見逃したのは痛恨。Netfixで見るか。『クロース』も。


『マリッジ・ストーリー』
私の予想では『マリッジ・ストーリー』の俳優3人がいずれも受賞することになっていますが、もし本当にこんなサプライズが起こればこれ以上の幸せはありません。が、それはそれとして、主要な役者が最優秀賞を受賞したのに彼らに演技指導をした監督が監督賞にノミネートすらされていないとなると、これはこれで大問題。とはいえ、今年は演技指導よりテクニカルな問題をクリアした監督に監督賞が与えられそうなんですよね。それはどうか。だいたい私は「全編ワンカット」という触れ込みに虫唾が走る。見たら好きになるかもしれないけれど、いま一番嫌いなキャッチコピーです。

レニー・ゼルウィガーは大波乱ばかりの2002年に主演女優賞最右翼と目されながらニコール・キッドマンにさらわれましたが、今回はどうか。やはり老会員が直接知っているジュディ・ガーランドを演じているというのは大きいでしょう。2007年にはエディット・ピアフを演じたマリオン・コティヤールが受賞してるし、レニーはやはり鉄板かなぁ。でも私はスカヨハの大逆転を信じます!

というわけで、あさってが楽しみでしょうがない。


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アカデミー賞2018大予想!







いま国内外で注目を集める村田沙耶香さんの最新中編小説集『変半身(かわりみ)』を読みました。


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「ニンゲンを脱ぎ捨てろ」というキャッチコピーにあるように、この小説では、私たちは「ニンゲン」という奇祭をやっている、実はぜんぜん別の「ポーポー」という生き物なのだ、という内容です。

地球(ほんとの地球は丸い星ではなくところどころに島があるどこまでも続く水たまりという設定)の外からやってきたポーポーが、新しい島で繁殖し始める前に、そこで生きていく安全を祈るため祭りを行っていた。それが「ニンゲン」という架空の生き物を演じるという奇祭。それがこの世の正体なのだと。

しかし本当にそうでしょうか?


一人称の罠
二年前に刊行された傑作『地球星人』について、私はこんな感想↓を書きました。

『地球星人』感想(あのラストをどう解釈するか)

『地球星人』のミソは一人称で書かれていることにある、という主張でした。

この『変半身(かわりみ)も一人称で書かれています。しかしながら如何様にも解釈が可能な『地球星人』とは違い、この作品では主人公・陸が実際に幼馴染の高木君が卵を産むところを目撃し、その卵から、上半身がイルカで下半身が人間のような本物のポーポーが孵化する瞬間を目の当たりにします。

そしてラジオもスマホもまったく動かない。これまで自分たちが信じていた地球の歴史、人類の歴史はすべて奇祭「ニンゲン」をまことしやかにするためだった真っ赤なウソだった!

そして陸自身も「自分が孵化している」のを感じます。ポーポーに変身しかけるところで物語は幕を閉じます。

しかし本当にそうなんでしょうか?


村田沙耶香の「宗教」
何の情報ももたない陸は、奇祭「ニンゲン」が終わったという宣言を聞く直前、幼馴染の花蓮にこんなことを言います。

「みんな、自分に都合のいい嘘を信じるんだ。人間ってそういう仕組みなのかな」

花蓮は答えます。

「そうかもね。新しい真実を信じるとき、人間の頭はクラッシュする。その瞬間だけが本当に『無』になれるときなのよ。次の瞬間には新しい信仰が始まってしまうんだから」

人間は信仰=宗教から逃れられない生き物だというのは村田沙耶香さんの作品に一貫するテーマですよね。みんな「普通教」に囚われているだけだ、と。

『コンビニ人間』では結婚するのが普通、36歳でコンビニでバイトなんておかしいという「普通教」への異議申し立てが主題でしたが、その主人公ですらコンビニという神を信仰しているわけで、どこまで行っても人間は宗教から逃れられないというのは、作者の主張というより、まったく例外のない、この世の数少ない真理のひとつでしょう。

だから、我々は「ニンゲン」という奇祭を演じるポーポーという生き物だというのも、また「信仰」のひとつでしかないというのが私の見方です。

だって、人間は宗教から逃れられないのが真理ということは、この世のもうひとつ奥にある唯一絶対不変の真理には到達できないということです。その前に立ちふさがって別のことを信じ込ませてる「神」という存在がいるのですから。その神を信じているのですから。


世界五分前仮説
哲学者バートランド・ラッセルが提唱した壮大な思考実験に「世界五分前仮説」というのがあります。

この世はたった五分前に生成された、何百年も何億年も前から存在しているように感じるのは、そういう歴史があると信じているからだ、というもの。

この仮説は否定することがかなり困難なようです。

『変半身(かわりみ)』はそれを哲学ではなく文学として提示しました。「自分たちは地球人で、地球には50億年の歴史があり、丸い球体の星で地動説が正しい」というのが千年前に作られた神話。その千年を五分と考えれば五分前仮説となる。

千年が五分だなんておかしい? それもまた数学や度量衡という宗教を信仰しているから出てくる疑問であって、この世の奥にある唯一絶対の真理からすれば少しもおかしくないのかもしれません。

そして、その五分前仮説は否定することが難しい。だから自分たちは実はポーポーであるという「真理」をみんなで信仰しようということになった、というのがこの小説の本当の結末でしょう。

陸はポーポーになったのではなく、ポーポー教を信じるようになっただけにすぎません。ポーポー教もいずれ新たな五分前仮説となるのです。


第2章の巧妙さ
そう解釈できるよううまく描写されているのが第2章の陸の実生活です。

どうも夫は詐欺集団の一人らしく、愛人を作って一週間に五回はセックスをするノルマが課されているとか、他人を騙すために何かを演じる人なんですね。妻の陸もその片棒を担がされている。

現実にはこんな人たちは存在しないでしょうが、でもこれは現代ニッポンの巧妙なカリカチュアでしょう。

みんな何かを演じている。演じることによって詐取し、また詐取されている。

陸はおそらくそのような日常がいやになったのでしょう。それで幼いときに村で「モドリ」という秘祭が行われ、そこから逃げ出した記憶を利用して「自分たちはニンゲンという奇祭を演じるポーポーだったのだ」という新しい現実を信じることにした。

榊というプロデューサーが村に方言がないと観光客が来ないから語尾に「がちゃ」をつけて喋るように、というところから世界がおかしくなってきています。

いや、一人称で書かれているのだから、世界そのものがおかしくなったのではなく、陸の主観で捉えた世界がおかしくなっている、ということ。つまり、世界を見る陸自身がおかしくなっている。


「無」になる瞬間
これが三人称で書かれていたらすべて「客観的事実」として信じるほかありませんが、一人称だから陸の妄想であることを否定できません。現実の世界でおかしくなった自分に整合性をもたせようとしたのでしょう。

でも、主人公の妄想にすぎなかった、つまり「夢オチ」だからつまらないというのは当たらないと思います。

「宗教」である以上、神への信仰告白である以上、一人称で書かれねばならず、一人称で書かれる以上はすべては主人公の妄想だという疑いから逃れられない。

花蓮のセリフ「新しい真実を信じるとき、人間の頭はクラッシュする。その瞬間だけが本当に『無』になれるときなのよ」にあるように、自分が孵化するのを感じるクライマックスで陸は「無」になった。

そして次の瞬間には「自分はポーポーである」という別の宗教を信仰し始めるのです。

私たちにもいずれそういう瞬間が訪れるのかもしれません。まったく新しい自分と出逢う瞬間。まったく新しい世界に溶けこんで行く瞬間。

それこそ「オーガズム」と呼ぶべきものなのかもしれませんね。


関連記事
『コンビニ人間』(マニュアルという宗教)
『となりの脳世界』感想(いつか、どこかで)

変半身(かわりみ) (単行本)
村田沙耶香
筑摩書房
2019-11-28