2020年09月05日

『深夜のダメ恋図鑑』最新の第7巻まで読みました。



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前回の記事
感想①女たちの痛快なブチキレ劇


セクハラ・性犯罪の本質
ダメンズとダメンズ・メーカーの女たちの物語ですが、今回第4巻から第7巻で一番印象的だったのは、第6巻の「斬新きわまりないセクハラ」ですね。

セクハラに「斬新」なんて言葉を使ったらいけないのかもしれませんが、へぇ~、こんなセクハラがあるの⁉ と驚愕しました。

そのセクハラとは……

主人公の一人である古賀円が駅のホームで電車を待っているとき、後ろに立っている男がケータイで話をしているふりをして、ずっと卑猥な言葉をつぶやいている。円に聞かせるように。

卑猥な言葉を口にすることが純粋に快感なのか、それを若い女に聞かせて反応を見るのが楽しみなのかは円にもわからなかったようですが、いずれにしても「他人を不快にすることで自分だけがエクスタシーを感じる、「そんなタイプの変態がいるんだ」と円はキモすぎて吐きそうだったと述懐するのですが、いやはや、私も想像しただけで何だかいやな気持ちになる。

私は男だし、実際にそういう現場に遭遇したわけじゃないから円ほどの嫌悪感はもてないけれど、こういうことをされて、でも誰にも言えず、精神に傷を負う人がいると思うと本当に反吐が出ます。

痴漢やレイプは性犯罪にカテゴライズされる犯罪だけれど、私はそれよりも何よりも「弱い者いじめ」だと思っています。力の弱い女を腕力でねじ伏せてほしいままにする、声を上げられない弱さにつけこんで好き放題する、それはとても卑怯なこと。性的な快感を得たいのではなく、弱い者を組み伏せることに快感を見出すのが性犯罪の本質だと思うわけです。

円の後ろで卑猥な言葉をつぶやいていた男も、結局同じですよね。

だって電車を待っているときなわけだから、そのあと同じ電車に乗るわけでしょ? もしかしたら家まで尾けてくるかも、という恐怖とも闘わないといけない。何とか撒かなければいけない。でも足の速さは男のほうが断然上。

実際に行っている行為は口を動かすだけだけれど、身体能力の高さを後ろ盾にしているわけです。女より筋肉の量が多いことが根っこにある。

そう、痴漢やレイプは「筋肉の量の男女差」というどうしようもない現実が根っこにあると思うんですよね。体の仕組みが違うのだからこれはどうしても解決できない。ならば男の意識を変えるしかない。男の意識を変えるには女が上手にキレなければいけない。


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前回の記事で、脳科学者の中野信子さんが「上手なキレ方を教えてくれるのが『深夜のダメ恋図鑑』」と紹介していたと書きましたが、円や千鳥佐和子のように思わず喝采を贈ってしまうキレ方をする女性が増えるといいなと思います。もちろん、われわれ男性も卑劣な同性に上手にキレることが大前提ですが。


いとおしいダメンズたち
痴漢男のような卑劣漢と違い、佐和子の元カレで典型的なダメンズの諒くん(ちょいとデフォルメされすぎの感はありますが)や、円の会社の取引先の市来という男などは、確かに「家事は女の仕事」「男に文句を言う女はかわいげがないからダメ」みたいな前時代的なことを平気で言うダメンズではありますが、少なくとも卑劣ではない。

だから、円は市来と映画を一緒に見るし、佐和子は佐和子で、諒くんが別れてもまだ自分をあてにすることに辟易しながらも、諒くんの今カノのところに一緒についていってあげたりする。

上記の痴漢男や、円の上司でとんでもないセクハラ部長などに比べたら、諒くんや市来がめちゃくちゃかわいいというか、最初は「何だこいつは」という腹立たしい気持ちで読んでいたのに、いまじゃだんだんいとおしくなってきたから不思議。作者である尾崎衣良さんの筆力は相当なものです。


kogamadoka

こういう設定の円ですが、市来がもしかしたら最初の男になるのか。
佐和子さんと諒くんの行く末は?

先が気になってしょうがないですが、7巻が出たのが6月なので、8巻は来年1月くらいでしょうか。

嗚呼、待ち遠しい。

円と佐和子の他に、八代という男と結婚しようとしている千代という女性がちょいと邪魔になってきました。もう円と佐和子だけで行ってほしい。勝手なお願いですが。






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2020年09月02日

昨日亡くなった脚本家の桂千穂さんにまつわる思い出……と言ってしまうのは、一度お会いしただけなのでちょいと不遜かもしれませんが、やはり心に去来するものがあるのだから思い出ということにしてしまいましょう。

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私が受賞したのは桂さんが審査員長をやってらっしゃったコンクールでした。

何しろあの『暴行切り裂きジャック』の桂千穂が審査員長で、他の審査員には『トラック野郎』シリーズや『聖獣学園』の鈴木則文もいる。

私が書いたのはとんでもなくナンセンスなコメディだったんですが、桂さんと鈴木監督が審査員だからかなり狙って応募したのでした。

が、授賞式で他の審査員の方々から「桂さんとソクブンさんが一番低い点をつけたんだよ」と知らされ、ショックでした。受賞したのは御の字だけれど、一番目当ての方たちには届かなかった。

もちろん、桂さんご本人ともお話させていただきましたが、

「君のは面白いんだけどね、深さがないね。もっと深さがあったら文句なしに入選だったよ」

と言われました。佳作だったのです。

会話はほとんどそれだけ。

え、それだけの思い出なの⁉ とか言われそうですが、さにあらず! このとき言いたかったけど言えなかったことがあるのです。


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私が撮影所を辞めて脚本家への道をまっしぐらに進んでいた頃、まことにぶしつけながら桂さんに自作シナリオを送ったのです。返事なんか来ないで元々と、尊敬する脚本家に何人も送っていました。感想を聞かせてください、と必死で。

無視ばかりされるなか、桂さんだけが読んで返事を下さったのです。

「あなたのシナリオは確かに技術的にはよくできています。でも、あなたの体臭が感じられません。もっと自分の個性を出すようにしてください」

とありました。

受賞作は個性が出たものだといまでも信じています。まぁ私を知る人間なら「おまえらしい」と言ってくれるはずですがね。

でも、あのとき、一度だけお会いしたとき、「あなたから一度お返事をいただいたのです。あのお言葉で目が覚めました」とお礼を言いたかったのですが、こちらも舞い上がっていたし、他の審査員でえらく私のことを気に入ってくださった方がいて、その方の話し相手をせねばならず、桂さんとはほとんど「一瞬」と言って差し支えない邂逅に終わりました。

体臭が感じられない。

これは友人にも言われましたね。

技術だけで書いている。

これは長谷川和彦監督にも言われました。

いまは脚本家の夢は完全に諦め、小説なんぞを書いていますが、技術に走らず体臭がプンプン匂い立つような作品に仕上げようと思っています。

桂千穂さん、どうもありがとうございました。安らかにお眠りください。
今日は『暴行切り裂きジャック』を見て追悼いたします。




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2020年08月30日

永田希という書評家(女性かと思ってたら男性だった)による『積読こそが完全な読書術である』(イースト・プレス)を読みました。


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印象的なフレーズ
まずは、本書を読んでとても印象に残ったフレーズを抜き書きしてみましょう。

「本はそれが閉じられている状態と、開かれている状態との『あいだ』にある。その性質は、それを読んでいる時間とそれを読んでいない時間との『あいだ』にある」

なるほど! これは気づかなかった。開かれて読まれている状態だけが本の性質だと思ってましたが、著者はそこを激しく撃ってきます。


「積読である以上は『いつか誰かに読まれたい』という書物の期待に十全に応えることはできない。書物の期待は積読をしている間は保留され続ける。繙かれていない書物の中の情報は、無意味でもなければ意味を特定された状態でもない。特定されていない意味のカオスこそ積読の正体です」

上の文章を難しく言い直したような感じですかね。積読こそが本の性質を保持し続ける、というような意味かな。この本は「常識」とされていることをうっちゃることが目的なので、意味を把握するのがとても難しかった。


「何かを語るために十分な知識の量と体系、要するに『語るための資格』を備えていると自負するのは、結局のところは権威主義的で鼻持ちならない高慢さの表れでもある」

これはツイッター界隈でもよく目にする言葉ですね。映画を語るには古典をちゃんと見てからにしろ、だの、おまえはこの程度の名作も見てないのか、だのといったマウンティング合戦が日常茶飯事的に行われています。
著者はこの権威主義的な考え方も激しく撃ってくる。そりゃま、そうですよね。語るために資格が必要ならいつまでたっても語れませんから。


「ある書物について語ろうとするときに人が躊躇するのは、その書物を自分が完全には読めていないという『うしろめたさ』と、それにもかかわらず自分がその書物の『位置づけ』に関与してしまうという無責任さが『やましい』からです」

書物を完全に読むことはできないと主張する著者ならではの言葉ですね。

以上、小難しいフレーズばかりを選んで愚にもつかない感想を述べましたが、私がこの本を読んで一番画が浮かんだのは、本書の主旨からは外れるかもしれませんが、以下のような場面です。

「この本棚にある本、全部読んだんですか?」
「いや、全部は読んでないんだけど」

というような会話が交わされるときの、すべてを読んでいないことを恥じる後者と、それを聞いて「それはもったいない!」と鬼の首を取ったかのような前者の表情ですね。


蔵書家の言い分
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これは他人様の家の書棚です。私はこんなに本をもってないし、そもそもこんなに部屋が広くない。

冊数もおよそ1000冊くらいでしょうか。本好きなら普通の量か少ないほうでしょう。増える一方だからどんどん売るんですが、売っても売ってもそれ以上のスピードで買うから増えていく。ちょいと前に新しい本棚を買いました。まだぎりぎりもう一個置けそうではありますが、いまの状態を限界と考えるべきかな。

それはさておき、1000冊も本をもっているというと「全部読んでるんですか?」って必ず訊かれるんですよね。

私は恥ずかし気に「いや、全部は」と答える。すると相手は「何割ぐらい読んでないんですか?」と間髪を入れずに訊いてくる。「3割、いや4割くらいかな」「ほとんど半分じゃないですか!」

と鬼の首を取ったかのような顔で突っ込んでくる。うっとうしいったらありゃしない。

以前、ツイッターで「あなたの本棚のあいうえお」「かきくけこ」という自分の本棚の本をさらすハッシュタグがあって、私も結構ツイートしましたが、あのときに思ったのは、

「本棚を一瞥しただけで、自分がこれまでどんな本を読んできたか、これからどんな本を読もうとしているかを一望できる」

ということでした。デジタル書籍には絶対にできない芸当だと。

そして大事なのは、「これまで読んできた本」と「これから読む本」が同居しているということです。

過去の自分と未来の自分の邂逅。

ここにこそ蔵書家が図らずもみな積読してしまう理由があると思う。

私の統計によると、積読状態の本棚を見て鬼の首を取ったかのような顔になる輩ほど決まって「どんな本を読んでいいのかわからない」っていうんですよ。

巷で話題になってるとか、タイトルに惹かれたとか、装丁がきれいとか、何でもいいから気になった者から読んでみたらいい、とアドバイスするんですが、ごにょごにょ言うばかりで結局何も読まない。何も読まないくせに「僕も今年こそは読書に勤しもうと思ってるんですよ」とかいう。

何だそれは。って感じですが、おそらく彼のような人は、「これから読む本」にしか興味がないのだと思います。現在から未来にかけての自分にしか興味がない。現在の自分の土台である過去の自分には興味を示さない。

読書、いや積読というのは、「過去の自分と未来の自分の邂逅」にこそ精髄があります。

それはつまり「歴史」ということです。


積読こそが完全な読書術である
永田 希
イースト・プレス
2020-04-17





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