2015年12月26日

『スターウォーズ フォースの覚醒』が公開されてからというもの、ネット上では「ネタバレするな」「ネタバレしたな、この野郎!」みたいな、ネタバレ禁止、ネタバレした奴を攻撃、吊るし上げる、みたいなことが行われてるみたいですが、どうもこういうの厭でして。

もともと『スターウォーズ』の公開よりもっと前、つまりここ数年、いやもう10年か20年くらいになるんでしょうか、「ネタバレされたら見る気がなくなる」という風潮が広まったのは。



いま、四方田犬彦さんの『テロルと映画 スペクタクルとしての暴力』(中公新書)を読んでるんですけど、これはテロリズムを扱った映画を通してテロリズムの本質をあぶりだしていくというなかなか野心的な本なんですが、その内容はいまはどうでもよく、四方田さんは冒頭でこういうことをお書きになっています。

「まず本書では一本のフィルムを紹介するにあたって基本的に物語の結末もきちんと書き記しておく主義を採用している。映画はネタバレになればもう見る愉しみがなくなってしまうという昨今の愚かしい思い込みとは別の地点に立って、読者に映画の本当の面白さを体験してもらいたいからである。すぐれたフィルムは一度見ただけでは絶対に理解できない。いくたびも繰り返し見直し、筋立てなどがどうでもよくなったところにまで到達して初めて監督の意図したメッセージを受け取ることができるのである。ネタバレを云々する映画の見方は、最も幼稚な見方であることを確認しておきたい」

なるほど。全面的に賛成ですね。結末がわかっていたら楽しめないのであれば、同じ映画を二度三度見ることはまるで無意味な営みになってしまいます。本当に面白い映画は何度見ても面白いし、逆に見れば見るほど面白くなっていくものです。

しかしながら、当の私も初見の映画はできるだけネタバレに触れずに見に行きたいのも事実なんですよ。

ネタバレ云々は幼稚が正論なら、ネタバレ禁止もまた正論ではないかと。

じゃあ何が言いたいのかというとですね、ネタバレの文章を読むことの罪、未見の映画のレビューを読むことの罪、これに尽きますよ。

最近の映画レビューには必ずと言っていいほど「ネタバレあり」とか注意書きがありますよね。私もときどきやります。でもほんとはやりたくないんです。なぜなら、ある映画の感想を書くときは「その映画をすでに見た人」を読者として想定しているからです。

当たり前でしょ、と言いたいところですが、最近はどうもこれが当たり前じゃないようでして。

できるだけ損したくないからと他人のレビューを読んでから見る人がいるんですってね。信じられない話ですが、映画だけでなく、食べログとか旅行に行くときはホテルや旅館のレビューなんかを熱心に読んで決めるんですって。あんなのサクラがいるに決まってるのに。全員じゃないだろうけど。

私は別に配給会社の回し者とかではないので思ったことを虚心坦懐に書いてるだけですが、中には本当にサクラがいるのでは? 自社作品のベタぼめレビューを書いたり。他者作品のダメ出しレビューを書いたり。

まぁサクラ云々は別にして、自分がまだ鑑賞してない映画のレビューを読むその神経がわからんのです。つーか読むな。

見てから読むか、読んでから見るか。ってのは私の世代では原作を読むかどうかの話だったんですが、最近では見た人の感想を読んでから見る、というのだから時代は変わったもの。だから冒頭に「ネタバレあります。ご注意を」なんて但し書きせねばならない。アホらしい。

でも、放送禁止用語と同じで「自主規制」も必要だと思うんですよね。

ツイッターなんかだと、タイムラインにフォロワーさんのツイートがただ時間順に並んでるだけなんで見てる映画の感想も見てない映画の感想もいっしょくたに表示されます。ああいうところでネタバレ文章を書くのはやはりマナー違反でしょう。

でも、ブログとかallcinemaにアップされてるレビューは、まず映画の題名で検索するわけだから、見てない人が見るまで我慢するのが筋というものでしょう。

中には、わざわざ見てない映画の題名で検索してネタバレ犯を見つけて吊るし上げるという暇人もいるらしいです。

世も末だ…





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2015年12月17日

パトリシア・ハイスミスが1952年にクリス・モーガンという別名義で上梓した『キャロル』(当時は『ザ・プライス・オブ・ソルト』というタイトルだったとか)を読了しました。



さすがハイスミスですねぇ。やたらめったら面白い。

主人公テレーズが美しい人妻キャロルと出会い恋に落ちる物語なんですが、ハイスミスらしく全編に常に不穏な空気が漂っていて、読んでる間ずっと宙吊りにされてる感じ。ミステリ作家の歴代1位に選ばれたのも納得の、一大サスペンスですね、これは。

主筋はラブストーリーなんですけど、この先この二人の関係はどうなるのかハラハラしまくり。拳銃が出てきたときなんかはもう「ああ、どちらかが殺されるのか。どっちが殺すのか。やはりテレーズなのか。それだけはダメ!」と架空の人物に心配してしまうほど感情移入しまくり。

そして、ラストは…

これは書かないでおきましょう。

ただ、心が風邪をひいたときは、読み返さないまでも、この『キャロル』の結末を思い出すだけで復活できるんじゃないか。そんな気さえするエンディングでした。もうお腹いっぱい。

トッド・ヘインズ監督によって映画化され、テレーズを演じるのがルーニー・マーラ、キャロル役はケイト・ブランシェットということでおそらくベストキャスティング。賞レースでも堅実な結果を残しており、これは期待できそうです。

本棚には、積読状態のハイスミス本が数冊あります。貪り読みたい気分です。





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2015年12月15日

久しぶりに再見しました。ラリー・コーエン&クリス・モーガン脚本、デビッド・R・エリス監督による『セルラー』。

主人公ジェシカ・マーティンは平和な生活を営む教師で、良き妻であり一児の良き母。
そんな彼女の家に暴漢が侵入し、誘拐され、どこかわからない一室に閉じ込められます。備え付けの電話も壊されますが、必死に回路をつないで…


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ある若い男、ライアンにつながるのですね。彼は巨乳女とやることしか考えてないチャラ男なんですが、このライアンがジェシカが本当に誘拐されて監禁されていることを知り、彼女を助けるために奔走します。

そして、ある警官ボブの助けもあって、首領である汚職警官イーサンを殺して一件落着というのが物語のあらまし。何の変哲もないサスペンス・アクションのストーリーですが、これを「神話」として読み解いていくといろいろ面白い発見がありました。
『スターウォーズ』新シリーズの始まりに伴い、ジョージ・ルーカスに強い影響を与えた比較神話学者ジョーゼフ・キャンベルの『千の顔を持つ英雄』が復刊されるらしいですし「映画は現代の神話」だとキャンベルも期待してましたもんね。


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この映画では、「二人のヒーロー」がいます。もちろん、若造ライアンと警官ボブです。二人は「ヒーロー」などとは縁もゆかりもない生活を送っています。ライアンは女のことしか頭になく、ボブは職務そっちのけで副業で奥さんとスパを経営することしか頭にありません。どちらも「汚職警官ライアンをやっつける」ことなど映画が始まるまで少しも考えていません。

ここがまずミソですね。ヒーローとしての心の準備ができていない。それどころかそんなのどうでもいいと思っている。そんな二人が会ったこともない人間のために命を懸けてヒーローになっていく物語です。

この二人の英雄が悪を懲らしめるためにもっている「武器」は何でしょうか。

まず、ライアンにとってのそれはジェシカと通じる携帯電話です。これが最後に活躍することは見ずともわかるわけですが、問題はボブの武器である「拳銃」です。拳銃は、悪役イーサンももっています。


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しかも二人とも同じ警察官。もとは二人とも正義を下すために拳銃をもったのでした。それがいまやイーサンは悪事のために使っており、ボブはいまやただ腰にぶら下げているだけ。しかし、このボブの拳銃が最終的にすべてを解決します。

主人公ジェシカを恐怖のどん底に陥れたのも拳銃なら、彼女の危機を救うのも拳銃です。しかし、その拳銃が別々の人間のものであるところが少し弱いところでしょうか。

『ロード・オブ・ザ・リング』では、暗黒面に堕ちた者の武器も指輪なら、正義を下す者の武器も同じ指輪でした。ひとつの指輪がどちらの手に入るかでこの世界の命運がかかっていました。『ロード・オブ・ザ・リング』の神話的世界はまことに強固なものだったと言えるでしょう。

しかしながら、この『セルラー』でも似たようなことが言えます。ジェシカを襲うのも警官なら救うのも警官だからです。最初は正義に燃えて警察官を志したはずなのに、暗黒面に堕ちてしまったイーサンと、ぎりぎり正義感を忘れていなかったボブとの対照。『セルラー』もまた『ロード・オブ・ザ・リング』と同じ神話的世界を形作っています。

この頃はまだそれほどメジャーな俳優ではなかったとはいえ、この2年前に『トランスポーター』シリーズでヒーロー役をやっているジェイソン・ステイサムを悪役に配したのは、ヒーローであるボブとは対照的に暗黒面に堕ちてしまったアンチヒーロー(元ヒーロー)として、すでにヒーロー役をやっていたステイサムが必要だったのでしょう。

だから、この映画の最も神話的なところは、過ぎし日には同じ正義感に燃える若者だったボブとイーサンの警察官の関係です。そしてその二人が「脇役でしかない」ところがこの映画のユニークなところです。

この映画の主人公はジェシカです。そしてジェシカが最初に助けを求めるライアンが準主役です。しかしながら、この映画の神話的世界に的を絞ると、彼らはただの脇役にすぎません。ライアンは「英雄ボブと悪の化身イーサンの神話」における援助役にすぎません。ジェシカにいたってはただの被害者です。

この映画では、被害者の「視点」から物語を紡いでいるわけですね。被害者ジェシカから援助役ライアンの登場、そして英雄ボブの登場と神話世界の外から中へ話を進めているのがうまい構成だと思います。

この文章の最初のほうで「ボブがライアンを助ける」みたいなことを書きましたが、神話的世界から見ればまったく逆なのですね。ボブがヒーローとして屹立するための援助をライアンがするわけです(だから「二人のヒーローがいる」と書いたのも実は間違いです。ヒーローはボブただ一人)。映画のプロットとそこに隠された神話の構成は完全に「さかさま」なのです。ヒーローとはまったく違う視点から物語を紡いでいるわけだから当たり前といえば当たり前ですが、とても面白いと思います。

ボブを主人公にしても物語は成り立ちます。しかし、それではあまりに教条的な映画になったことでしょう。

いきなり暴漢に襲われる、被害者が会ったこともない男に電話で助けを求める、その男がさらに助けを求めたやる気のない警官が登場し、暴漢たちが実は彼と同じ警官であることが判明し…

という感じで、小気味いいサスペンス・アクションの物語進行とともに神話的世界観が少しずつあらわになっていき、「真の英雄」が誰かは最後にわかる。

ジョーゼフ・キャンベルが見たら大喜びするだろうと思われる「さかさま神話」の傑作だと思います。


セルラー(字幕版)
キム・ベイシンガー
2015-03-15





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