聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

滋賀県を近江県に!?

さっきニュースを見ていて驚きました。

何でも、滋賀県というのは全国でもどこにあるのか、何で有名な件なのか、認知度が最も低いとかで、もっと認知度の高い「近江」や日本人なら誰でも知ってる「琵琶湖」を冠して「近江県」または「琵琶湖県」にしよう、なんてことを何と知事が率先して検討しているんだとか。

滋賀よりも近江のほうがどこかわからないんじゃないの? と思いますし、名前を変えたからといって滋賀の存在感が高まるのか甚だ疑問です。が、このニュースそのもののアホさ加減よりもニュースの作り手の悪意のほうがたちが悪いな、と思いました。

渋谷の若者なんかに聞くなよ! あんなアホばっかり歩いてる街で「滋賀県ってどこにありますか?」とか「滋賀県には何があるか」とか聞いたってそりゃ誰も知らないでしょう。新橋の酔っ払いサラリーマンに聞いてくれたほうがまだしも、というもの。

しかし、名前を変えるというのはやはり重大なことなんですよね。命名権を売るなんてそれこそアホさ2万%なことを言い出さなかったのがせめてもの救いでしょうか。

県民3千人にアンケートを取ったところ、80%以上が名前の変更に反対だと。「滋賀県」という名前に愛着があるから、などの理由が示されていましたが、まぁそりゃそうでしょうね。

だいたい、滋賀にかぎらず、地方ってどこでも都会の人には認識されてないと思いますよ。私だって東北の各県の位置関係がいまだに完璧にはわかりません。

いまだに「甲子園は大阪にある」と思ってる人は関西以外ではほぼ100%に近いし(甲子園は兵庫県にあります!)何でもかんでも東京に一極集中しているこの国で地方都市が存在感を示そうと思ったら、香川県みたいに正式に県名を変えるんじゃなくて「うどん県」と書いても郵便物が届くとか、眞鍋かをりみたいな有名人に愛媛県を宣伝してもらうとか、そういう話題作りしかないのでは?



ウォール街の狼 名優レオナルド・ディカプリオ

マーティン・スコセッシ監督
レオナルド・ディカプリオ主演
『ウルフ・オブ・ウォールストリート』

去年、封切で見たんですがあまり楽しめなくて、最近のスコセッシはやっぱり落ちてると思ったものの、その後、大絶賛の嵐だと知り、ちょいとバイアスがかかってたんじゃないかと今回見直してみました。

うん、劇場で見たときよりは楽しめました。やはりバイアスがかかってたんですかね。証券マンの実録モノなのにウォール街でどういう仕事をしてたかなんてちょっと触れる程度で、あとはセックスとドラッグのオンパレード。ヤッてヤッてキメまくる登場人物たちがとにかく可笑しい。面白い映画です。

しかし…

物語構造としては『グッドフェローズ』などの実録モノと同じじゃないですか。放蕩のかぎりをつくした主人公が捕まって仲間を売って延命を図る、という。スコセッシってこういう話型がよっぽど好きなんだなと思いました。しかも決して改心はしないという。『レイジング・ブル』なんかは改心するんですけど、違いはそこだけで愚か者の言動を愛情もって描くのはスコセッシの真骨頂かな、とは思います。

でも、多くの人が言ってるような「テンション上がりっぱなしで面白すぎる!」とか「あのテンションを最後まで維持できるって70超えた爺さんがほんとに作ったのか!?」というような言説には同意できません。

テンション上がりっぱなしなのは認めますが、上がりっぱなしということは何の緩急もないということであって、見ていてちょっと退屈なのです。しかも180分もありますから途中何度か眠くなりました。

『グッドフェローズ』もテンションがずっと高いですが、ゆったりと落ち着いて見れる場面が多々あったし、短いカットの積み重ねで見せるシーンもあれば、驚異の長回しで見せるシーンもあった。既成楽曲の使い方が素晴らしく、何から何まで「多彩」だったんですよね。でも、この『ウルフ・オブ・ウォールストリート』は多彩ではなく言ってみれば「単彩」で、ちょっと単調でした。見終わって心地いい疲れを感じるのではなく、あぁやっと終わったか、という、どっと疲れた感じでした。(この映画では音楽の使い方に工夫がなく、「スコセッシ、やはり老いたか」と思ってしまいました)


それでもやっぱり最後まで楽しめてしまったのは、ひとえに主人公を演じたレオナルド・ディカプリオの快演でしょうね。


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巷では、冒頭に出てくるマシュー・マコノヒーの演技を絶賛する声が多いようですが、私はまったく同意できません。あのような変化球の演技は誰にでもできるものだと思います。

でもディカプリオが見せた大熱演は誰にでもできるものではありません。「俺が一人でこの映画全体を支えてみせる!」という強い意志がなければあのような熱演はできるものではありません。『グラディエーター』のラッセル・クロウや『ベン・ハー』のチャールトン・ヘストンみたいな感じでしょうか。

マコノヒーは「技術」で演じているだけです。ディカプリオは「気持ち」で演じている。マコノヒーは私に言わせれば小賢しいのです。ディカプリオみたいな爽快さが彼にはありません。

奇しくも、この年のアカデミー賞では、別の映画でほとんど同じ演技を見せたマコノヒーが受賞し、ディカプリオはまたしてもノミネートに終わりました。

ここにハリウッドの、というか、世界全体の演技に対する誤解があるように思われます。

小賢しい演技よりも思わず画面に目が釘付けになってしまう熱演をこそ、と思います。



デイミアン・チャゼル監督『セッション』(星一徹との大きな違い)

話題の映画『セッション』をようやく見ることができました。

本国アメリカではサンダンス映画祭でグランプリ、日本でも絶賛の嵐ということで期待に胸を膨らませて見に行ったんですが、これがもうはらわたが煮えくり返るほど激怒するしかない作品でした。

主人公のドラムニスト、ニーマンは名門シェイファー音楽院への入学を許され、野心と希望を胸に最初の授業に赴くと、そこにいたのは生徒を恫喝して指導する鬼教師フレッチャーでした。

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フレッチャーはすぐれた奏者には温かみを示すものの、ほんの少しでも音程が狂ったりテンポが乱れたりするのを絶対に許しません。それはいいでしょう。そうでなければ名門音楽院のバンドを率いることはできません。

問題は彼の指導法ですね。なぜ恫喝しかできないのか。恐怖で指導して演奏の質が上がったとしても、そんなものは一時的なものでしかないのでは? と思ってしまいます。

実際、フレッチャーにはショーンという優秀な教え子がいて、いまはトランぺッターとして活躍してるみたいですが、そのショーンがうつ病で自殺するんですね。発症したのはちょうどフレッチャーから恫喝されていたときだったと。

ならばこの物語の根っこにある問題は明らかでしょう。フレッチャーの指導法が誤っているのです。ショーンの死に際して見せた涙は本物ではあったでしょう。しかしながら、だからこそたちが悪い。フレッチャーは教え子の死を悲しみながらも少しも自分の責任とは思っていない。それはクライマックス前のニーマンとの会話でも明らかでしょう。「俺は悪くない。だから謝罪はしない」と。

だからショーンの死を経ても何も変わることがなくニーマンを恫喝しまくって何とか主奏者に仕立て上げるものの、すったもんだの末にニーマンから「フレッチャー、お前が悪いんだ! 殺してやる、殺してやる! マザーファッカー!!!」と殴られそうになる。

そして、ニーマンは父親の強い勧めでフレッチャーを密告。フレッチャーは解雇され、いまは自分のバンドを率いてコンテストの直前だと言うのが「俺は悪くない。だから謝罪はしない」という場面なんですね。

恫喝指導で思い出されるのは、映画じゃなくてマンガですけど、『巨人の星』があったよな、と。


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これは有名な「卓袱台引っくり返し」の場面ですが、星一徹は息子の飛雄馬を恫喝と暴力で巨人の星になれるよう導きます。

飛雄馬もニーマンと同じように、一徹に反発しながらも結局エディプス・コンプレックスの塊である彼は一徹を乗り越えようとするあまり、最終的に利き腕である左手の自由を失います。交通事故に遭ってボロボロになりながらも主奏者としてドラムの前に座るニーマンと同じですね。

いや、違います。

飛雄馬は一徹のもとから逃げて明子姉さんと二人暮らしを始めたりするけれど、結局一徹から逃れられないのは、一徹が執念深いというのもありますが、やはり根底にあるのは「エディプス・コンプレックス」でしょう。父と子という「血」が枷となって飛雄馬を縛り続けます。「(父ちゃんは嫌いだが)何とか父ちゃんに認められたい」という思いはよくわかりますもの。

一方、ニーマンはフレッチャーを音楽における父とみなしているのでしょうか。だから飛雄馬のように逃げられないのでしょうか。

違いますね。ニーマンは実の父親との間に何ら問題がない。

例えば、『ブギーナイツ』でマーク・ウォールバーグ演じる主人公は、実の父親が言いたいことを何も言えないダメ親父で、母親が父親の代わりを演じようと怒ったりするものの逆にヒステリーを加速させるばかりで、主人公はそんな家を捨ててポルノ映画界という疑似家族の世界に入っていきます。そこでバート・レイノルズ演じる映画監督を父親と見なし、彼に気に入られたい一心で頑張り、頑張りすぎて追い出され、そして謝罪をして再び受け入れてもらう。それもこれも彼の父親が父親として機能していないからであり、ニーマンのように父親との関係がうまく行っているのであれば、何も疑似父親を求める必要はありません。

だから、飛雄馬と違ってニーマンは、フレッチャーに認められたいのではなく、あくまでも己の野心を満たしたいがために数々の恫喝を耐えぬくわけですが、ここが共感できないんですよね。

だって、交通事故でボロボロになった、でも親父に認められたいからそれでも演奏する、というのであれば「気持ちはわかる」。でも、ただ野心を満たしたいというだけのために演奏するのであれば、他の楽団員に対して失礼すぎます。そして、血だらけの彼を見てすぐに交替させなかったフレッチャーにも大いに問題ありですね。彼は教師でしょう? 演奏で一番になることより生徒の安全のほうが大事なはず。あそこはすぐに交替させないと。

で、このあと誰が聴いても下手な演奏しかできなかったニーマンは日頃の鬱憤を晴らそうとフレッチャーを殴りつけようとしますが、これも自業自得で共感できません。もっと早く家を出ていたらバスのトラブルにも合わなかっただろうし、スティックを忘れなければ交通事故に遭うこともなかった。ニーマンの怒りがフレッチャーの恫喝指導に起因するものでないからこのシーンは極めて不可解な場面となっています。

しかも、あろうことか、最後、フレッチャーは自分のバンドにニーマンを引き入れて大会に臨むんですけど、何と演奏開始直前に「密告したのはお前だな」とニーマンに言い、急遽、楽曲の変更を宣言、その楽曲の譜面をニーマンだけがもってなくて(ってそんなことありえるの?)演奏は大失敗、ニーマンは音楽生命を絶たれそうになる。

これ、絶対にダメです。いくら何でもそんな卑劣な手を使って教え子を罠に陥れようとするなんて。悪役とはいっても手口が卑劣すぎて悪の魅力に乏しすぎます。映画の悪役は誰よりも魅力的でなければ。星一徹がそうでしょう。彼が「悪役」かどうかは議論の余地がありましょうが、少なくとも主人公・飛雄馬を抑圧する「敵対者」ではある。

一徹は飛雄馬に対して真っ向勝負しか挑みません。回りくどいやり方など眼中にない。そして何より、「俺が鬼にならなければ飛雄馬がダメな男になる」という自覚がある。『巨人の星』のラストはあまりに暗いエンディングなので一徹が鬼になったことがはたして息子・飛雄馬にとっていいことだったかどうかは甚だ疑問ですが、少なくとも一徹には「俺は飛雄馬を一人前の男にするために敢えて鬼になるのだ」という自覚があった。「俺は悪くない。謝罪などしない」と平然と言ってのけるフレッチャーとは似て非なる好漢なのです。

オーラスは、音楽生命を絶たれそうになったニーマンが起死回生の演奏でフレッチャーの心をつかみ大団円。ここにえらく感動した人が多いらしいですが、これ、ダメでしょう。だって「問題」が何一つ解決していない。

この映画の「問題」はフレッチャーの行きすぎた指導が原因で精神を病む生徒がいる、というものでした。ニーマンもおそらく病んでいます。その彼が起死回生の演奏でドラマーとして一流になれたとしても、結局あのショーンのように自殺してしまう可能性が極めて高い。これではこの物語はいったい何を語ろうとしているのかまったくわからなくなってしまっています。

ここで思ったのは、いま巷に跋扈しているブラック企業やブラックバイトです。

こういう映画に感動する人がブラック企業を肥え太らせているのだと思います。逃げればいいだけなのに自ら進んでイヤな奴の言いなりになり、ほめられたら充実感で恍惚となり……

これ以上、もう何も言うことはありません。



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