2016年06月05日

1975年アメリカ映画『悪魔の追跡』(以下ネタバレあります)


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ある友人同士の夫妻二組が、田舎を車で小旅行してるときに邪教集団の殺人現場を目撃してしまい、彼らに執拗に追われ、警察も実はグルで、いや、そもそも町の住人全員がグルで、そして…。という物語。

このちょっと前に作られた『激突!』とか『ダーティメリー、クレイジーラリー』とかいろんなカーチェイス映画の大ヒット作にあやかったうえに、そのころ流行していたオカルト映画の味付けをしたら儲かるんじゃないかという商魂が見え見えの通俗映画なんですが、これがいま見てもやたら面白いんですね。

考えられる理由としては、

①映像の力を信じた脚本
②ピーター・フォンダもウォーレン・オーツもこの手の通俗映画では手を抜きそうな俳優なのに、それをさせなかった監督の手腕

など、いろいろあると思います。カッティングがうまいとか、本当にいろいろ。

でも、そういうことほとんどどうでもいいんです。

今回見直してみて一番引っかかったのは、主役二人ピーター・フォンダとウォーレン・オーツの妻役として配された無名女優二人なんですね。このキャスティングに「アメリカンニューシネマ以後の映画人の無意識」を見た気がするのです。


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右がピーター・フォンダの妻役で、左がウォーレン・オーツの妻。

見ておわかりのように、美女とブサイクなんですね。しかもブサイクなほうは豚のほうがまだましじゃないかというくらいのひどい顔。

かつて誰かが「映画作りは映画の原理と世界の原理の覇権闘争の場だ」と言いました。

「映画の原理」とは「泥棒は泥棒する、殺し屋は殺す、恋人は恋をする」という、登場人物がその役柄だけに忠実な行動をするもので、反対に「世界の原理」とは、泥棒だって必ずしも泥棒ばかりするわけじゃないし、殺し屋だってそう簡単に殺すわけではない、躊躇もするだろうし真逆の行動をとるかもしれない、といういわば「リアリティ」のことですね。

この『悪魔の追跡』は、アメリカンニューシネマが台頭した60年代後半から5年以上10年未満という微妙な時期に作られました。ニューシネマ以前はセット主体で、以後はロケ主体とおおざっぱに言っていいと思いますが、映画製作倫理規定=通称ヘイズ・コードが撤廃されて、現実に存在する様々な醜い事象を観客に見せてもいいという時代になったため、「絵空事はもういい。リアリティのある映画を見たい/見せたい」という気運が高まっていました。

要は「映画の原理よりも世界の原理が大事だという風潮」でした。だから映画の原理だけで作られたMGMミュージカルなどはアッという間に廃れてしまったわけですが、そのような気運のなかで作られたこの『悪魔の追跡』は、映画の原理と世界の原理がヒリヒリするほどせめぎ合う作りになっています。

それが象徴的に表れたのが女優二人のキャスティング。
ニューシネマ以前のアメリカ映画ならどちらにも美人女優を配するところでしょう。
ニューシネマ以後の考え方なら二人ともブサイクな女優を配するでしょう。

しかし、この映画では、片方を普通の美人に、もう片方をひどいブサイクにした。

ここに「映画の原理と世界の原理のせめぎ合い」を感じるのです。

アメリカの片田舎で邪教集団が密儀をやっていて人を殺している。というのは実際にあるらしいですが、その実際にはあるけど描写次第では陰惨になりかねない内容を、リアリティを失わない程度にフィクショナルな映画として提示したい。という製作者たちの無意識の欲求。

それが女優二人のキャスティングに象徴されてると思うんです。ブサイクな顔が「これは現実に起こりうるお話ですよ」と言い、美女のほうが「いや、でもこれは映画ですから」とエクスキューズする。いいバランスが成り立っていると思いました。

おそらく、作者たちはそんなこと何も考えてなかったはずです。たぶん、

「一人をブサイクにするならもう一人は美女にしようよ」
「そうだね」
「やっぱり映画なんだから一人くらい美女見たいだろ」
「そうに決まってるさ」

という程度の軽い会話が交わされただけだったのでしょう。

しかしながら、「映画の主要人物だから美女とはかぎらない」という世界の原理に従いながらも、「そうはいってもやっぱり映画なんだから美女を見たい/見せたい」という映画の原理が顔を出す。

あの、戦慄しながら笑ってもしまう二律背反的な独特のラストシーン。あれは、70年代のB級ホラーやサスペンスに特有のものです。ネガティブな反応とポジティブな反応が同時に起こる。「面白いけどツッコミどころ満載」なんて惹句は70年代アメリカ映画に顕著な特徴だと思います。

あれって、世界の原理を求める観客と、それでも映画の原理をもちこみたい映画人の無意識とのせめぎ合いが原因じゃないだろうか。

というのが、いまのところの私の仮説です。


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2016年05月29日

2年前と同じ「マドリード・ダービー」となった欧州チャンピオンズリーグ決勝は、我がレアル・マドリードがアトレティコ・マドリードと延長戦の末に1-1の引き分けに終わりました。


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PK戦の末に優勝は勝ち取りましたが、前々から私は決勝だけは再試合とかちゃんとサッカーで決着をつけてほしいと願っている人間なので、別にうれしくないです。確かに11回目の優勝です。ビッグイヤーに「REAL MADRID」と彫られてましたし、ウンデシマ達成。ジダンは選手・監督両方で優勝した7人目の監督となりました。

が、今回は2年前と違い、もともとアトレティコ優勢で負ける確率が高いと思ってたんですよね。だってアトレティコは異様なまでに失点が少ない。今季はリーグ戦38試合で18失点だったかな。2試合で1点以下。しかも直接対決では1分け1敗。ここ3シーズンぐらいで見ても、勝ったのは2年前のCL決勝ぐらいですからね。国王杯でもスーペルコパでも負けるか引き分けだし。

というわけで、今日は負けて不貞寝するはめになるのかなぁ、と思ってたんですよ。あわよくば勝って1日ハイな最高な日になればいいなぁとも思ってましたが。



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しかし、優勝して不貞寝するはめになるとは思ってもみませんでした。

前半、開始早々から相手ゴールに迫る動きが多く面白かったですが、セットプレーからセルヒオ・ラモスのゴールが決まると(あれはオフサイドでしたね)アトレティコにボールをもたせてばかりで、せっかく奪っても速攻に行かず、わざわざ自分たちで遅攻にするという見てるファンのストレスを溜める戦術。

思うに、アトレティコがああいう引いてしっかり守って奪って速攻というサッカーをしたかったんですよね。バルサもバイエルンもその戦術にやられたわけで、ジダンはそれを警戒して、「カウンターを食らわない戦術」として、相手にボールをもたせてやりたいサッカーをやらせない手を選んだのでしょう。

でも本来、ジダンがこんなサッカーをしたかったとは思えません。なのになぜあんな自堕落なサッカーを展開したかといえば、フロレンティーノ・ペレスというアホ会長のせいです。


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昨季、選手からもサポーターからも信頼の厚かったアンチェロッティがいい仕事をしながらも無冠だったというただそれだけで解任されてしまい、それを弟子として間近で見ていたジダンは「タイトルを取らなければクビになる」という危機感から、もともとリーグ戦でやっていた(特に就任当初)スペクタクルなサッカーより「勝てるサッカー」にシフトチェンジしたんでしょう。ジダンが大好きな選手たちも彼がクビになるのは嫌だからその戦術に乗った。監督も選手もそうしなければアホ会長にチームがめちゃくちゃにされると思って、やりたくもない奪っても遅攻するつまらないサッカーを積極的にやっていました。

このまま1-0で勝っても少しも胸張れないではないか。

と思いましたよ。マジで。

後半開始早々、PK献上したときは、これで1-1になってくれればまた変わってくるのではないか、と期待しましたが、幸か不幸かグリーズマンのシュートはバー直撃。

で、ここからジダンの采配がおかしくなるんですよね。「勝利至上主義」はまだ理解できますが、采配がまったく理解できない。

カルバハルは怪我だからダニーロでしょうがないけど、2人目のイスコは72分にクロースと交代ってマジで??? クロースをそんなに早く下げていいの? しかもまだ1点差だよ。と思ったら、その5分後にはベンゼマに替えてルカス・バスケス投入っていくら何でも延長の可能性があるのに3枚の交代カードを使い切ってしまうなんてどうかしてる!!!

こういう打つべき手を打たず奇手を打ってしまうときって決まって相手に流れが行ってしまうんですよね。
直後の79分にフアンフランの素晴らしいクロスから途中交代のカラスコに決められ同点。カラスコについていってたのはルカス・バスケス。ダニーロはいったい何してたんだ! すぐそばでウロウロしてるだけ。カルバハルなら防げてたかも。

後半開始早々の同点劇なら面白くなってたでしょうが、あと10分ちょっとの同点劇は「悲劇の前兆」としか思えませんでした。(そういえば、あの同点シーンの直前ってレアルのビッグチャンスでしたよね。ベンゼマ、なぜロナウドにパスしなかった!?!?)

というわけで、アトレティコが交代カードを2枚残した状態で延長に突入。もう負けたと思いましたよ。

しかしながら、延長は面白かったんですよ。やはり両チームともPK戦での決着は嫌だったんでしょう。ビッグチャンスの多いオープンな30分でした。特にレアルのほうがチャンスは多かったですよね。フリーでパスを受けたルカス・バスケスがシュートを打たなかったなど不満はありますが、それでもなかなかスペクタクルなサッカーで面白かった。ああいう「がむしゃらサッカー」を最初の90分でもっと見たかった。そうしてくれていれば、少なくともPK戦で優勝が決まるなどという「不幸」はなかったと思います。

すべてはフロレンティーノ・ペレス、ミスターあほ会長のせいです。
ジダンのおかげでめちゃくちゃだったチーム状態が完全にもち直して決勝まで来れたんだから、その時点で契約延長しておけば、監督、選手ともにあんな「現実主義的サッカー」に邁進しなくてすんだのに。それを何ですか、今日の試合の結果如何ではウナイ・エメリにオファーするつもりだっとか。アホか。(そりゃエメリは優秀な監督だけど、ジダンを解任する理由がないではないか)

CLタイトルを取ったのだからジダンは安泰なんでしょうけど、過去に2度もリーグ優勝しながら「守備的でつまらない」という理由で2度とも解任されたカペッロの例もありますし。どうなるのか。

すべてはアホ会長が悪い。ジダンが後半の選手交代で迷走したのも「もし負けたら…」という恐怖でおかしくなったからでは? 

とにかく、PK戦での優勝は少しもうれしくありません。この試合はあくまでも引き分け。私の中では両チームとも優勝です。





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2016年05月24日

今クール最大の期待作だったクドカン最新作『ゆとりですがなにか』。

すでに半分以上の第6話まで見たというのに面白いのか面白くないのかいまだにわからないんですよね。

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主人公の岡田将生やその友だち(?)の松坂桃李や柳楽優弥はすべて29歳のいわゆる「ゆとり第一世代」で、見る前は彼らともっと上の世代との軋轢を描いているのかな、と思ってたんです。

ところが、実際は、岡田将生たちゆとり第一世代ともっと下のゆとり第二世代、第三世代との葛藤を描いてるんですね。

これが驚きでしたが、はたしてこれでいいんだろうか、という思いがずっと拭えませんで…。

確かに私の予想通りにゆとり世代ともっと上の世代との対立葛藤を描くとしたらものすごくありきたりなドラマになってたような気もしますが、「会社休む連絡をLINEですませるゆとり世代ってわからない」と嘆く大人たちにとってはそういうドラマこそ見たかったんじゃないか、とかって思うんですけど、でもそれじゃあただのお説教になっちゃうのかな、とも思うし。

松坂桃李が教育実習生と恋に落ちたり、その松坂が岡田将生の彼女・安藤サクラと友達以上恋人未満の関係になって岡田将生が悶絶したり、岡田将生の妹・島崎遥香(しかしなぜ役名が「ゆとり」なの?)が就活に嫌気が差して柳楽優弥が経営するガールズバーで働き始め、しかも子持ちとは知らずに柳楽とナニする関係になってまた岡田将生が悶絶したり、面白いエピソードには事欠かない。

いや、そもそも、このドラマの発端は岡田将生がゆとり第二世代か第三世代の後輩を叱っただけでパワハラだと訴えられるというところにあって、主人公・岡田将生を困らせる手練手管には驚嘆するんですが、あのパワハラの一件はどうなったの? というのが正直なところでして。

いや、そういう見方をする私が古いのかな。
ある問題があって、その問題をどう対処していくか、そこに主人公と環境との軋轢を見たいという見方。それが古いのか。それとも単に描写不足なだけなのか。



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先日、たまたま『したくなるテレビ』という番組を見ました。(↑この画像は何の関係もありません。しかし、ラップデビューするってほんとか、小西真奈美!?!?)

さて、『したくなるテレビ』というのは、「ぶりっ子」とか神田うのやダレノガレ明美という「嫌われ芸能人」に「ゆとり世代」「埼玉」などほとんどイメージのみで嫌われてる人たちを好きになってもらおう、という趣旨の番組で、面白いというか暇つぶしにはもってこいでしたが、それはともかく、この中でゆとり世代を扱ったコーナーが最も面白く、何でも尾木ママの説によれば「ゆとり世代は既成概念に囚われない発想の名人」らしいんですね。

実際、学校を卒業すると同時に起業して大成功している女性二人組がいるかと思えば、数学オリンピックで銀メダル(日本史上最高成績)とか、27歳にして人事のエキスパートをやってる女性がいたり、私と同じぐらいの世代の上司が、「彼らの発想力でうちの会社はもってる」と言い切ったり、見てるだけでゆとり世代ってすごいんだなぁ、と視聴者に思わせる内容になってるんですが、このVTRを見た劇団ひとりのコメントが秀逸でした。

「ゆとり世代ってものすごい『格差世代』なんじゃない? 頑張れる人はものすごく上のほうに行っちゃうけど、それができない人はどんどん落ちていく一方で、中間がなくてものすごい上のほうとものすごい下のほうに分かれちゃってる気がする」

さすが劇団ひとり。鋭い意見。

『ゆとりですがなにか』に欠けているのは、結局ゆとり世代って何なのよ? その実態ってどういうもんよ? という、ゆとり世代の内実に迫る視点ではないでしょうか。あれでは、ただ「ゆとり世代の人たちの右往左往」が描かれているだけで、それはそれで面白いんだけど、テーマの掘り下げに失敗してる感が否めないんです。

第6話では、松坂桃李がクラスの子どもたちに「ゆとり世代とは何か」と教え諭す場面が印象的でしたが、あれはゆとり世代本人が語るゆとり世代論であって、私が見たいのはもっと客観視されたゆとり世代論というかドラマなんですがね。

という私の見方が古いんですかね? んー、もうわからなくなってきた。

とりあえず、次の第7話はパワハラの一件がようやくヒートアップしそうで楽しみです。でも、ゆとり世代に関係があるエピソードなのかが心配ですが。


続きの記事
怒涛の第8話を振り返って
第9話 島崎遥香の役名を「ゆとり」にしたクドカンの熱き想い
総括「2010年代を代表する大傑作!」






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