2016年06月24日

撮影という行為において映画はすべてドキュメンタリーであり、編集という行為において映画はすべてフィクションである。とは、私が映画作りに関わって得た経験的知見ですが、この『FAKE』はそういう「映画の本質」を映画自身がさらけ出した作品だと思いました。

2年半前にゴーストライター騒動で世間を賑わせた佐村河内守氏を、『A』シリーズの森達也監督が取材した、本人によると「15年ぶりの新作映画」です。


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ドキュメンタリーという触れ込みですが、私はここからしてすでに怪しいと思います。森達也監督がドキュメンタリストだから、あるいは監督がインタビューして被写体がそれに答えるというスタイルがドキュメンタリーっぽいからそう見えるしそう宣伝しても別にそれが「嘘」だとは言えません。しかし、私はこの映画はフィクションだと思います。森監督と佐村河内氏がどこまで共謀したのかはわかりません。大きく3つの可能性があります。

①最初からフィクションを作ろうとした。
②最初は普通にドキュメンタリーを作るつもりで撮影を進めたけれど途中からフィクションにしたほうが面白いと判断し、移行した。
③徹頭徹尾ドキュメンタリーを作ろうとしたが、編集を終えてみるとフィクションに見える作品になっていた。

①と②は確信犯ですが、③なら偶然。まぁ確信犯だから悪いとか言うつもりは毛頭ありませんし偶然だからいいというのもどうかと。

この映画の核心は、画像にもあるように「衝撃のラスト12分間」にあると思います。
まずは順を追って考えてみましょう。

私は最初、「嘘をついているのは誰なのか」という映画だと思って見ていました。

佐村河内氏を追及した神山という週刊文春の記者に取材を申し込んでも拒絶され、新垣氏に申し込んでも拒絶され、さらに新垣氏はゴーストライター騒動がきっかけでかなり得をしている。雑誌の表紙を飾ったり、テレビに出て人気を博したり。そのときはやはり嘘をついているのは100%新垣氏のほうだ、佐村河内氏は潔白なのだ、と思いました。

しかし…

外国のメディアが来て「共作だったという証拠を見せてください」と言われて、見せるのは新垣氏への指示書だけ。文字で書かれたものだけじゃ信用できない。音源を聞かせてほしい。それはない。ほんとに演奏できるのか。なぜ作曲家の家にひとつも楽器がないのか。前の家が狭かったから捨てた。

作曲家にとって商売道具の楽器を家が狭いからって捨てますかね? どうしてもそれは信用できない。それにこの場面の佐村河内氏はかなり動揺しています。
そのシーンのあとシンセサイザーを買ってあのクライマックスに雪崩れこむんですが、もっと前に買うことは考えなかったんでしょうか。現在の家に引っ越したのがいつか知りませんが。

あのシーンでは佐村河内氏は100%嘘をついている、と私は思いました。

つまり、どちらが本当のことを言っているのか少しもわからない。

で、問題の「衝撃のラスト12分間」になるわけですが…

この12分間で佐村河内氏は「作曲」をするんですね。彼のゴーストライターだったと称する新垣隆氏が「彼は作曲はできない」「楽器の演奏すらできない」と言っていた、あの佐村河内氏がシンセサイザーを演奏し、オーラスでは見事な交響楽が完成します。

というのは、あくまでもそれまでの「文脈」を考えてそのシーンを見て観客の胸中に起こることです。

文脈とはその作品を鑑賞する者の頭の中にだけ存在するものです。小説なら文章と文章、またはエピソードとエピソードを作者が効果的に「編集」することで文脈が生まれる。映画も同じ。

かつて映像編集を少しだけやったことがありますが、特に会話する人物のカットバックをやっているときに「映画の魔術」を感じざるをえなかったんですね。
カット尻をどこにするか、次のカット頭をどこにするかで、そのセリフを受けた人物に宿る感情が違って見えるんです。ほんの数コマとかでも。編集が文脈=意味を生んでいる。逆にいえば、観客にこういう感情を抱いてほしいという作者側の思惑があってそれを実現するための編集がなされているわけです。

だから映像作品は嘘をつきます。情報操作をやることなど造作もないことなのです。

『FAKE』の衝撃のラスト12分間を、それまでの文脈を踏まえて見れば「佐村河内氏が作曲をしている」という「意味」を感じ取ることはできます。

が、画面のなかで実際に「佐村河内守が作曲をしている」ということが起こっていたでしょうか。

確かにシンセサイザーを弾くかのような指づかいがありました。が、音はいくらでもあとで入れられるし、あの程度の指づかいなら少し練習すればできそうです。(私はひとつも楽器を弾けないので推測ですが)

本当にあの曲は佐村河内氏が演奏していたものなんでしょうか? 作曲していたんでしょうか?

最後に森監督が佐村河内氏に尋ねます。「いまでもこの騒動が新垣氏の嘘から生まれたものだと言えますか?」でしたっけ? 何だか映画そのものの力が圧倒的なので大事なところを忘れてしまいました。まぁでもそんなような意味の言葉だったはずです。イエスかノーしかありえない質問に対し、佐村河内氏が答える前にエンドマーク。彼がどう答えたかは観客一人一人がそれまでの「文脈」から考えてください、というメッセージ。これはもう確信犯ですね。

ならば先述の①から③のうち、③の可能性は消えました。森監督は確信犯でフィクションをやろうとした、というのが私の解釈です。

いやいや、佐村河内氏がほんとに作曲やってた可能性もあるんじゃないの、つまりこの映画はやっぱり佐村河内氏の潔白を証明するドキュメンタリーなのでは? という声が聞こえてきそうですが、この映画を考えるうえでそれはもう私にはどうでもいいことです。

なぜなら、この『FAKE』という映画自身が「映画は嘘をつく」と言っているからです。佐村河内が黒か白か、じゃなくて、映画というもの、映像を使ったメディアは簡単に情報操作できるんですよ、ということを映画自身がさらけ出してしまっている。映像だけでなく、先に小説の例を出しましたが、文字だけの記事でも情報操作はできるし、その意図がなくても結果的にできてしまう。

映画をはじめ何らかの意味を伝えるメディアは、編集という行為においてすべて原理的にフィクションなのだ、全部ウソなのだ。だから佐村河内氏を悪人に仕立て上げた報道も実はすべてが仕組まれていたのだ。

それこそがこの映画のテーマ、森監督の言いたいことだと感じたんですが、それも私個人が感じた「文脈=意味」にすぎません。

他の人がこの映画を見てどう感じたのか興味があります。いまからいろいろ検索して読んでみようと思います。

FAKE
佐村河内守
2017-07-01





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2016年06月22日

敬愛してやまないウディ・アレン先生の新作『教授のおかしな妄想殺人』見てきました。

前日に予告編を見たんですが、何だか本編の内容とビミョ~~~に違うんですよね。内容というか構成が。

本編では、ホアキン・フェニックス演じる哲学科の教授が自殺願望に囚われているんですが、彼がふとしたきっかけである悪徳判事を知り、そいつを殺すことを思いつく。動機がないから捕まらないし世直しにもなる。ということで実行するんですが、そこから話は二転三転し…という内容。(だから「妄想殺人」でも何でもないんですがね)

予告編でも前半、つまりホアキンが自殺願望に憑りつかれていて…というのはいいんですけど、そこからの展開がちょっとおかしくないですか?



これでは、ホアキンが突然変わって、さてそれにはいったいどんな理由が…? という内容に見えますよね。

確かにエマ・ストーンの視点から見ればそうなんですけど、本編を見ている観客はエマ・ストーンより知っている情報が多いわけですよ。逆にホアキンと観客の情報量が同じ。つまり、なぜホアキンが変わったかを観客は知っている。

だから、この予告編の作り方はおかしいと思うわけです。

が、しかし…

少なくとも本編の内容を捻じ曲げて伝えようという悪意は感じられませんでした。だから別にその是非はどうでもいいのです。

問題は、この間違った予告編の構成で描いたほうが面白くなった気がする、ということです。できあがった映画はウディ先生にしてはあまりにヒネリがありません。エマ・ストーンが知っている情報量と観客が知っている情報量を常に同じにしておく戦術のほうがよかったんじゃないかと。

そうすれば、エマが考える「ホアキン先生、まさか殺人なんて馬鹿なまねは…!?」というのが妄想なのか、それとも現実なのか、つまりホアキンは殺人犯なのか否かで引っ張れるし、そうしたほうが数段面白かった気がします。

何だか予告編を作った人の「こうしたほうが面白かったのに」という悔しさが出ている気がするんですよね。そして私はそれに激しく同意します。ウディ先生、それでよかったの、と。

それにしてもウディ先生は予告編を見て変だと思わなかったんでしょうか。まさか! じゃあもしかして予告編の構成のほうがよかったと後悔しているとか…??? つーか映画ができた以上、そういうことはプロデューサーに任せて自分はどこかでクラリネット演奏してたとか?

予告編からいろんな妄想が飛び出す楽しい映画体験でした。







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2016年06月20日

クドカンの最高傑作『ゆとりですがなにか』がついに昨日で終わってしまいました。

①問題作『ゆとりですがなにか』の問題とは何か
②怒涛の第8話を振り返って
③島崎遥香の役名を「ゆとり」にしたクドカンの熱き想い

これまでこのドラマについていろんなことをつらつら書いてきましたが、今回の最終回は8話、9話に比べるととても落ち着いたものでした。

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9話までで「ゆとり世代」に関するテーゼをしっかり打ち出したからでしょう。最終話はそのためにとっ散らかった人間関係を整理するための回でした。

といっても、そこはクドカン。いろいろ面白い趣向を見せてくれました。

わからなかったのは、冒頭で酒瓶を倒し、そこで吉野家で酒瓶を倒す岡田将生の姿がフラッシュフォワードで見せたこと。何度かあのカットはフラッシュフォワードされてましたが、いったい何のためだったんでしょう?

松坂桃李の性教育の翌日が結婚式で、二つのシーンを交互に見せていたのは、あれはフラッシュバックでもフラッシュフォワードでもなく、時間を超えたカットバックですよね。

思春期とは何か、から始まって、心は死ぬまで思春期です、と子どもたちに教える松坂桃李が、上司と一夜かぎりの関係になったことで破談になりそうな岡田将生と安藤サクラを温かく見守るいいカットバックでした。なるほど、童貞教師の性教育って単なる下ネタじゃなくてこういうふうに使うつもりだったのかと、クドカンの深謀遠慮にはまたしても唸らざるをえませんでした。

あそこは脚本の段階からああいう構成だったのは明白ですが、岡田将生が酒瓶を倒すフラッシュフォワードはもしかして撮影のあとの編集でああなったんでしょうか。気になります。いずれにしてもあまり効果がなかった気がするのでちょっと残念でした。

しかし、岡田将生と安藤サクラはめでたく結婚できたし、松坂桃李は童貞卒業&吉岡里帆と恋仲になったし、柳楽優弥の中国人妻は吉野家で見つかったうえに(吉野家はすべての中国人の味方です!)強制送還されずにすんだし、柳楽も植木屋として何とかやっていけそうだし、島崎遥香は旅行会社で何とか頑張ってるし、最初はどうしようもないゆとり野郎だった太賀は自分で自分のことを笑いのネタにできるようになったし、最後までダメなのは吉田鋼太郎演じるレンタルおじさんだけですかね。(笑)

とにかく、このドラマの主題は前回までで描き尽くされてるのでほぼすべて丸く収まったのならもう何も言うことはありません。






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