2016年04月02日

さて、いよいよ今夜はクラシコですね。3:30キックオフというのがつらいところ。できれば一度寝てから見たいんですが、おそらく興奮して眠れないんだろうな。

昨日のWOWOWW特番「クラシコ混合ベストイレブン」を見ましたが、何だかほんと都並さんが言うようにバランスの悪いイレブンでしたね。

GK:カシージャス
DF:セルヒオ・ラモス、プジョル、ピケ、ロベルトカルロス
MF:イニエスタ、ジダン、シャビ
FW:メッシ、クリスティアーノ・ロナウド、ロナウジーニョ

どうやって守るの? 中盤ガタガタではないですか。それにCFがいない。都並さんと同じこと言ってますが、やはり誰か9番を置かないと。

ちなみに私の選ぶベストイレブンは、

GK:カシージャス
DF:ダニエウ・アウベス、プジョル、セルヒオ・ラモス、ロベルトカルロス
MF:ジダン、ブスケツ、グティ
FW:メッシ、エトー、クリスティアーノ・ロナウド

マドリディスタの私がマドリーから6人、バルサから5人というバランスの良い選択(←自画自賛)

やっぱりグティですよ、グティ!!! 
前回のベルナベウ・クラシコのときにも書きましたけど、彼の名前がほとんど出てこないことに腹が立ちます。

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天才としか形容しようのなかったホセ・マリア・グティエレス・エルナンデス、通称グティ。
「もし性格がラウールのような優等生だったらすでにバロンドールを何度も獲っているだろう」と恩師に言われてしまった男。
一撃必殺のスルーパスだけならジダンをもしのいだ男。
自分がゴールを決めるよりも味方FWに決めさせることが何よりの悦びだった天性のミッドフィールダー。


そして、クラシコといえば、プジョルも外せませんね。プジョルは大好きな選手でした。まさに闘将といった感じで。

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見てくださいよ、この顔。サッカーがうまくなかったら絶対モテないだろうなと思わせる野獣顔。

しかし、だからこそ、後ろからチームメイトを盛り立てることができたんでしょう。それにクラシコではコーナーからのヘディングが異常に強かった印象があります。通常バルサは高さがないのであまりゴール前にクロスとか上げられても特に脅威を感じませんでしたが、コーナーとかフリーキックとかになるとプジョルが最前線に出てくるので恐かったですね。

とはいえ、昨日の特番の目玉は何といっても…




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だから君はかわいすぎるんだよ、いつもいつも。これ以上おじさんを幻惑しないで。

しかし、前回より結構両チームに詳しくなってたのには驚きました。勉強家なんですね。ベッカムでもCR7でもなくネイマールが好きというのもまた珍しい。


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さて、話を今日のクラシコに戻すと、カゼミーロのイエロー累積出場停止という情報は間違いだったらしく、ホッと胸をなでおろしました。

彼がアンカーとしてバランスを取ってくれるなら、そしてインサイドハーフに、イスコとハメスはあくまでもサブで我慢してもらって、クロースとモドリッチを先発させてくれるなら(100%そうしてくれると信じてるけど)勝機はあると思いますね。でも、ま、やっぱりバルサ優位は揺るがないでしょう。チームとしての基礎体力や完成度が違うし、何より舞台はカンプ・ノウだし。

でも、クラシコは38節のうちの1節にあらず。

思い出されるのは06-07シーズンのカンプノウ・クラシコ。確かレアルはカンナバーロが直前に怪我したとか他にも怪我人続出でボロ負け必至かと思われたところ、メッシのハットトリックで3-3のドローにもちこまれたとはいえ、一度もリードを許さない素晴らしい戦いぶりを披露してくれました。

そしてその試合をきっかけにチーム状況が劇的によくなり、最終的に勝ち点で並ぶも直接対決の結果で優勝。

今季は今日の試合5点差以上で勝たないと直接対決の結果で上回れないのでそれは望めない。しかし勝ったら勝ち点差7。しかもバルサは次節が大の苦手ソシエダとのアウェイ戦。しかもアトレティコとのCL準々決勝に挟まれてるから落とす可能性大。

だから、レアルが勝てばひょっとするとひょっとするかもしれんのですよ。

ま、その可能性は少ないにしても、前回みたいな無様な負けっぷりだけは見せてほしくないですな。せめて引き分けてほしい。リーガでの大逆転はもうとっくにあきらめてるから(じゃあ↑この悪あがき↑は何じゃ?)バルサの勝利を誰もが予想してるなかでいい試合をして引き分けてくれたら、唯一残されたCLタイトル奪還に向けていい準備ができるのではないでしょうか。

あと6時間半。やはりいまは楽しみよりも不安が募るマドリディスタなのでした。





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2016年03月30日

最近、ヒッチコックの泣く子も黙る名作『めまい』を見直す機会があったんですが、前々から思っていたことをいままで以上に強烈に感じることができました。

それは、「なぜヒッチコックは不穏なシーンの前触れとして人物の顔を真横から撮るのか」というものです。


『めまい』の真横ショット
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主人公スコティ(ジェームズ・スチュアート)の見た目によるマデリン(キム・ノヴァク)を捉えたショット。スコティがマデリンを初めて間近に見る場面で、彼女の美しさの虜になるきっかけなんですね。(このショットの切り返しでスコティ自身も真横から捉えられます)

このマデリンの真横ショットはその後もしばしばスコティを幻惑することになります。マデリンの横顔は主人公スコティにとってのオブセッションとなります。それがきっかけで一大悲劇の幕が開くわけですから、このマデリンを真横から捉えたショットはとても不吉です。何やらただならぬ雰囲気が漂っています。


『サイコ』の真横ショット
マリオン(ジャネット・リー)がノーマン・ベイツ(アンソニー・パーキンス)が経営するモーテルに部屋を取り、ノーマンに案内されて1号室に入って荷物を下ろしたあと、ノーマンが自己紹介します。そのとき二人が真横から捉えられます。

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 (これはちょっとだけ斜めですけど)

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 (これは真横と言っていいですね)

このあとあの有名なシャワーシーンがあるんですが、その間に結構長い会話シーンがあるんで、この真横ショットの切り返しという何とも奇妙な映像演出は、シャワーシーンの不穏さの前触れとしてではなく、『サイコ』という物語全体の前触れですかね。この二人の出会いが一大ショッキング事件の幕開けなわけですから。

映画とはいつだって誰かと誰かが出会うことで始まるんですが、『めまい』でも『サイコ』でもその出会いの場面において人物を真横から撮るという奇妙な現象が起こっています。これはいったいなぜ?

しかもですよ、『サイコ』における最凶シーンであるシャワーシーンの直前においても人物が真横から捉えられるのです。

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服を脱ぐマリオンを隣の部屋の覗き穴から見つめるノーマンを真横から捉えたショットです。ただ、このショットはどうあがいても真横からしか撮れない。

ならば、これはどうでしょうか。シャワーシーンが始まった直後に置かれたこの奇妙なショット。


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シャワーという器物を真横から撮っている。私はこの映像にただならぬ雰囲気を感じてしまうのです。

立ち話する二人を真横から撮り、シャワーという器物を真横から撮る。

なぜヒッチコックはかくも「真横から撮る」ことに執着するのでしょうか。しかも、『サイコ』においてこのシークエンスは、単なる殺人場面というだけでなく、主役と思われていた人物が殺されて、新たな人物が主役になる、主役の入れ替わりが行われるという映画史上前代未聞のシーンなのです。その重要なシーンに真横ショットを挿入する意図はいったい何なのか。

『サイコ』での真横事情はここまでです。不気味とはいえ、不穏な場面の前触れとして真横ショットが挿入されるというただそれだけの話なんですが、『めまい』では単なる真横事情では終わらず、かくも麗しい「横顔のドラマ」が演じられるのです。


再び『めまい』
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主人公スコティと、彼を騙していながら愛してしまうマデリン。二人が森へ行くとき、車を運転するスコティの見た目でマデリンの顔が真横から撮られています。

そして、マデリンが死んだ(と思われた)あとには…


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再びスコティの前に現れたマデリン(ほんとはジュディ)が、これまた真横から撮られています。ここまで真横に固執するには何かわけがあるんでしょう。しかもこれまではすべて右向き。しかし、次に初めてマデリンが左真横から捉えられます。


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ジュディの告白とともに観客はことの真相をすべて知っていますが、スコティだけが知りません。はたしてジュディはマリオンなのか、マリオンじゃないのか、いったい何がどうなっているのか。という煩悶のなかで彼女を見つめるとき、初めて左真横から撮られるのですね。

これまでの右向き真横ショットははっきりマデリンその人でしたが、ここではいったいこの女がどこの誰なのかわからない。だからシルエットのみでしかも左向き真横という撮り方になったのでしょう。

さて、これまで『めまい』における真横ショットはすべてマデリン=ジュディを撮ったものでしたが、クライマックス直前、ついに主人公スコティが真横から撮られます。

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これは、すべての事情を知ったスコティがマデリン=ジュディを連れてくだんの鐘楼に連れて行く場面。

ここでは、二人のこれまでの立場が完全に逆転しています。いままでマデリン=ジュディに騙されっぱなしだったスコティが真相を暴くためにあの鐘楼へ連れて行こうとしている、とジュディはわかっています。それだけはしてほしくない。と思ってスコティを見つめる。

そのときのスコティが真横から撮られているんですね。

マデリンの横顔に幻惑されてきたスコティが、いまや冷徹非情な横顔を彼女に見せて復讐しようとしている。まさに「横顔のドラマ」!!!

・・・・・・・・・・

しかし、変です。

なぜ人物の顔や器物を真横から撮ると不気味な雰囲気が醸し出されてしまうのでしょう?

これについてはまったくわかりません。ヒッチコックの他の映画でもそうなっているかどうかは定かではありません。最近『鳥』も見たんですが、このような真横からのショットはありませんでした。鳥の襲撃の直前に置かれてもよさそうなのに…

ただ、ヒントはあるような気がします。


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これは『ヒッチコック劇場』での有名なシルエットですね。ヒッチコックが自分自身を真横から撮っています。ヒッチコック劇場って結構コミカルなもの、『ハリーの災難』みたいな感じの作品が多いですが、しかし、コミカルといっても題材は殺人とか誘拐とか不穏な犯罪ですから、これからお送りする物語は不穏で恐いお話ですよ、ということを暗示しているのでしょうか。


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ヒッチコックといえば横顔なんですよね。トリュフォーがインタビューした『映画術』の表紙もこの横顔をデザインしたものでした。

しかし、そうであるなら、もっといろんな映画で人物や器物を真横から撮った不穏な映画を見せてほしかったなぁ、と。

なぜ『サイコ』や『めまい』だけにこういう変てこなショットがあるのか。そもそも、なぜ真横から撮ると不穏なのか。

答えはヒッチのみぞ知る! といったところでしょうか。


ヒッチコック映画自身 (リュミエール叢書)
アルフレッド ヒッチコック
筑摩書房
1999-10-01





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2016年03月29日

見ようかどうしようか、クリストファー・ノーランが関わってからの『バットマン』は好かんし、『スーパーマン』は元からあまり興味ないし。

とか何とか言いながら、やはりそこはハリウッド娯楽大作好きなので、全米で『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』を超える歴代トップの超大ヒットスタートを切ったらしい『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』を見てきました。


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画像からわかるようにこの映画、大変暗いです。内容が、じゃなくて、いえ、内容もですけど、画面がものすごく暗い。いったい何が起こってるのかわからないシーンも少なくなかった。3Dで見て「ところどころ3D眼鏡を外して何が起こっているか確認した」なんて言ってる人もいました。せめて何が起こってるかぐらいわからせて!

とはいえ、本題はそんな些末なところにないのです。

この映画を見ていてずっと頭をよぎっていたのは、子どもの頃に読んだマンガでした。タイトルも作者も内容も何もかも憶えてないので調べようがないんですが、設定だけ鮮明に憶えています。「太陽が二つある惑星が舞台」というものです。

その頃は「太陽が二つあったらどうなるんだろう」とボケーッと考える程度でしたが、長じるにつれて「そんな惑星に人類が生まれたら人々はどういう哲学、思想、そして宗教をもつのだろうか」と考えるようになりました。

そう、宗教です、一番大きな問題は。

太陽崇拝は地球上のどこにでも見られる風習です。その太陽がひとつしかないからこそ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という三つの一神教(もとは全部同じですが)が生まれたのだと思います。

だから、「太陽が二つある惑星に人類が生まれたら、彼らはどういう宗教を生み出すのか」と考えると、おのずと、

二神教

という言葉が浮かびます。それが具体的にどういう教義をもつのか、二人の神の関係性などはまったく想像もつきませんが、生まれたときから太陽が二つあったら、少なくとも一神教を生み出すことはないと思います。


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そういえば、『スターウォーズ』ってまさにそういう惑星が舞台でしたよね。なのに彼らは地球の欧米人と同じ行動原理で生きている。まったく別種の「こいつらこんなこと考えてんのか!?」と驚愕するような哲学、思想をもっているようには少しも描かれていません。

だから私は『スターウォーズ』はSFじゃないと思うのです。サイエンス・フィクション、空想科学小説というのは「科学」という言葉が入っている以上、「太陽が二つある星に棲む人間が生み出す宗教はどんなものか」という科学的想像力を働かせないといけないのに、そうなってないから。あれは「宇宙が舞台の戦争映画」です。

それはともかく、今回の『バットマンvsスーパーマン』では、スーパーヒーローが二人出てきますが、これがバットマンだけ、スーパーマンだけが活躍する架空の世界ならいいんですよ。実際の地球には太陽がひとつしかないから神のごとき全知全能のスーパーヒーローがたった一人なら科学的想像力を働かせずとも物語は作れるし、当然のようにその物語を享受することができます。

また、『アベンジャーズ』みたいなスーパーヒーローが多数出てくるのもありなんですよね。なぜなら実際に多神教というものがあるから。ヨーロッパだってナザレのイエス登場以前はギリシア神話に出てくる数多くの神々を崇拝していたわけでしょ。だから「一」または「多」なら科学的想像力を働かせる必要はありません。

しかし、「二」となると話は別です。三角形が多角形と呼ばれるように、「三」なら「多」として扱ってもいいかもしれませんが、「二」は「一」と「多」の間です。我々地球人には想像がつかないのです。だから科学的想像力が必要になってきます。

なのに、この映画の製作者たちは少しもそこのところを考えていません。無敵のスーパーヒーローが二人いる。どちらも正義の味方。だとすれば、なぜどちらかだけでなく、どちらも存在するのか。とか。

もし太陽が二つあったら、なぜ太陽が二つあるのか、古代人たちはもっともらしい天地創世神話を紡ぎ出したはずです。

それと同じで、スーパーヒーローが二人いたら、人々はもっと考え込まないといけないのでは? 

この映画には「大衆」がいません。二人の主人公に近しい人物は出てきても「一般大衆」が出てきません。彼らがバットマンとスーパーマン、二人のスーパーヒーローが存在する世界をどう見ているのか、それがないから「有名なヒーローを二人出して儲けるための映画」に見えてしまうんです。

動機は金儲けでいいと思います。動機に純も不純もないから。でも、いくら動機でが不純でも、やるとなったら本気で科学的想像力を働かせてほしい。

「一」でも「多」でもなく、「二」を選んだからには。







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