2016年03月18日

前回の日記は『サウルの息子』の 演出上の問題について でした。

問題といっても、読んでくださった方はおわかりと思いますが、明確な問題があってそれを批判しているわけではありません。「問題らしきもの」があるんだけど、本当にそれは問題なの? という、まぁ私にもよくわからないことなのです。

で、今回の「脚本上の問題」というのも同様です。何しろ私はこの『サウルの息子』を飽きることなく楽しんで見た人間なわけで、基本的にこの映画が好きなのです。が、何か引っかかてしまうことがあるんですね。間違ってるかもしれないけど、その引っかかったことを正直に言うと…


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この「ゾンダーコマンド」という役目のユダヤ人を主役にしたのは素晴らしいと思います。少なくとも私はアウシュビッツでそういう任務に就いていたユダヤ人がいたなんて知らなかったですから。同胞をガス室に送り、そして自らも数か月後に処刑される。何という悲惨な…。

主人公をゾンダーコマンドにしただけで『サウルの息子』という映画の存在価値は高いと言って過言じゃないとさえ思うんですが、問題は主人公じゃなくて彼の敵、すなわちナチスのほうにあるような気がするんです。

これまでナチスを極悪人として設定した映画は数限りなくあります。そもそも歴史的事実として世界中の人たちが知っています。

別に『眼下の敵』みたいに、ナチス将校にもまともな神経をもっていた人がいただろうからそういう人物を描くべきだとか、ナチスだって同じ人間だなんていうつもりは毛頭ありません。

ただ、この『サウルの息子』は「ナチス=極悪組織」という世界中の人が知っている歴史的事実に依拠しすぎではないか、と思うのです。

ヒトラー総統の号令のもと、ヨーロッパ各地からユダヤ人を連行してアウシュビッツ強制収容所に監禁したうえ、数百万人もの無辜の人々を毒ガスで死に至らしめた。だから極悪組織なのですが、それに依拠しすぎというのは、ナチスを「問答無用で悪い奴ら」という「記号」として扱っている、ということなのです。

『サウルの息子』で描かれるナチスに人間味など皆無です。『将軍たちの夜』のピーター・オトゥールや『シンドラーのリスト』のレイフ・ファインズみたいな「ユニークな悪人」は一人も出てきません。

これは演出の問題ともかかわってくることなのですが、徹頭徹尾カメラが主人公に張りついているため、ユニークなナチス将校を描きたくても描けない、ということもあるにはあったんでしょう。あの地獄絵図を主人公と一緒に観客に追体験してもらうためには、ナチスは記号でかまわない、という潔い決断をしたのかもしれません。

しかし、いずれにしても、それは「魅力的な悪の創出」という脚本家の大きな役目を自ら放棄していることになります。

とはいえ、わからないのです。

放棄したから、というか、カメラはずっと主人公だけを追い続ける、だからナチスは記号でいい、と判断したからこそ、あのような迫真性の高い映画が生まれ、没入して見れたのかもしれません。ナチスを記号として処理したのは英断だったのかも。

でも、どうも腑に落ちないのです。本当にこれでいいのか、という思いを拭いきれないのです。

確かに、ゾンダーコマンドという「アウシュビッツものにおける新しい主人公」の創出はありました。でも、あの悲劇を生み出したナチスという極悪組織を記号として扱ってしまったら、「いまなぜアウシュビッツなのか」という映画製作のモチーフが薄まる結果になっているのではないか。

もっと深読みするなら、全編長回しで主人公だけを追いかける前例のない映画を撮りたい、だから周りで起こっていることとその原因については誰もが知っていることを記号として扱えばいいと考えたのだとしたら、この『サウルの息子』を作った作者たちを私は決して許しません。それはあの惨劇で亡くなった人たちへの冒瀆以外の何物でもありませんから。

しかし、作者がどう考えてこの脚本、この演出に至ったのかわからないので何とも言えません。ただひとつ確かなことは、『サウルの息子』という映画を私は確かに楽しんだけれど、『将軍たちの夜』や『シンドラーのリスト』のほうがずっと好きだ、ということです。


サウルの息子(字幕版)
ルーリグ・ゲーザ
2016-08-01





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先日のアカデミー賞で見事最優秀外国語映画賞に輝いた『サウルの息子』を見てきました。

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「早くも今年のベストワン」という人もいれば、激しい嫌悪感を示す人もいたり、賛否両論みたいで、楽しめるのか途中退出したくなるのかどっちだろうとドキドキした状態で見始めましたが、すんなりと映画の世界に入り込め、最後まで没入して見ることができました。

ただ、この映画には大いなる問題があると思うんですよね。見ているときに感じたのはひとつだけでしたが、見終えてから二つに増えました。

というのも、この映画はずっと主人公サウルに密着して撮影されてるんですね。全編主人公だけを追い続けている。私はそこに何かちょっと奇をてらった感じを受けて「もうちょっと普通に撮っても良かったんじゃないか」みたいなことを友人に言ったところ、その友人は絶賛派で、

「普通、映画は主人公の言動を俯瞰的に見るけど、『サウルの息子』では主人公だけを追うことでその俯瞰的観賞をしにくい状況を生み出し、同時に主人公の体験を観客が追体験できる仕掛けになっている。しかも周りで起こることがアウシュビッツでの地獄絵図なのでまさに強烈な映画体験ができた」

みたいなことを言ってきたんですね。

うん、確かにそれはその通りでしょう。私も最初見ていて、ダルデンヌ兄弟の『息子のまなざし』みたいだな、ぐらいに思っていたのが、次々に迫真性の高い出来事が起こるのでサウルの体験を疑似体験することができました。サウルだけを追うことでそれが可能になったことを否定はしません。

しかし、私はその友人にこう反論しました。

「例えば、ヒッチコックが多用した、主人公の主観ショットとその主人公を捉えた客観ショットをカットバックしたほうが観客が主人公に同化しやすくなったんじゃないか」

つまり、「主人公を」撮るんじゃなくて、「主人公が」見たものを撮ったほうがいいんじゃないか、ということです。もちろん、「主人公を」撮ったショットとカットバックさせるわけですけど、主人公の目と観客の目を同一化させたほうがもっとその効果が出たんじゃないか。

ただ、ラストに出てきた少年(あれが一体誰なのかいまだによくわかりません。サウルが息子の幻影を見ているのかと思ったらどうも違うみたいだし)とのカットバックを印象づけるためにそれまでの100分近くをカットバックなしでやってきたのかな、という気もします。

結局、「よくわからん」のです。

私が古典的ハリウッド映画作法の信奉者だからそう思うだけかもしれないし、そうなると「好みの問題」ということになってしまう。でも芸術って結局好みの問題じゃないの、という気もします。

いったいどっちがいいんでしょうか。映画作りとは本当に難しい。

もうひとつの問題は脚本上のものですが、これについてはまた後ほど。

続きの記事
②脚本上の問題について

サウルの息子(字幕版)
ルーリグ・ゲーザ
2016-08-01





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2016年03月16日

『王様のレストラン』大解剖シリーズもいよいよ最終回です。

印象深い最終回、第11話にまたしても涙を流してしまいましたが、今回の再見で明らかになったのは、この『王様のレストラン』で「ヒーロー」と呼ぶにふさわしい人は、千石さん以外の全員だということですね。

禄郎だけがヒーローだと思ってましたが、違ってました。

この『王様のレストラン』は、「千石さんが他のみんなを導いていく」ように見せながら、その実、「他のみんなが千石さんを暗黒面から救い出す」物語なのでした。

プチ・ヒーローしずかにとっての助言者が千石さんだったように、禄郎もまた物語全体のヒーローではなく千石さんにとっての助言者という役割だったのではないでしょうか。

ヒーローが誰かを考えることは主人公を明らかにすることだと確か一番最初に書きましたが、昨日最終回を見てやっとわかりました。主人公は千石さんです。

主人公はアンチヒーローである千石さん。暗黒面に堕ちた千石さんを救い出すヒーローが他のみんな。


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ずっと私は、千石さんがやる気も知識もないベル・エキップの面々の問題をひとつひとつ解決していく物語だと思っていました。第10話で千石さん自身が暗黒面に堕ちるというのはあるにしても、それは最後のほうだけの問題であって、前11話通しての問題ではないと。

しかし、前回にも書いたように、千石さんは第1話から傲慢なアンチヒーローです。確かに、言うことはいちいち的を射ている。何も間違ったことは言っていない。でも、いや、だからこそ彼が問題の根源なのだというのがこのドラマの肝であり、三谷幸喜の思想でもあるのかもしれません。

ありあまるほどの知識をもっていても、それを利用して「教えてやろう」という態度は傲慢極まりないと。何もわかってない人間でも「自分は何もわかってない」「自分は何者でもない」と思っている人物こそが世界を救うのだと。(しずかがまさにそういう人物ですね。禄郎も、他のみんなも)

先代オーナシェフの暴走を戒めていた頃の千石さんはヒーローだったでしょうが、クビにされ、舞い戻ってきたとき、自分ならこの薄汚い店を盛り返せると思ったのでしょう。だから千石さんは第1話ですでに暗黒面に堕ちたアンチヒーローなのです。

そして、第10話までそれを前面に出さないのが三谷幸喜のうまいところです。あくまでも千石さんが他のみんなにとってのヒーローであるかのように見せながら、実は他のみんなが千石さんを暗黒面から救い出し、彼を再びヒーローズ・ジャーニー=英雄の旅へと旅立たせる役目を担っている。実にうまい構成です。

だから、この『王様のレストラン』はどこまでも千石さんに焦点を当てた「千石さんの個人史」だったのですね。群像劇ではありません。千石さんのメインプロットに絡むサブプロットがかなり多岐にわたるため群像劇に見えているにすぎません。主となる構造は「アンチヒーローに堕ちていた主人公のヒーローへの甦り」というめちゃくちゃシンプルなものです。

アンチヒーローといっても、それはヒーローの暗黒面ですから、その暗黒面を脱却すればまたヒーローに返り咲ける。

ヒーローとして現れた千石さんがアンチヒーローになり、また……という物語ではない。

アンチヒーローとして現れた千石さんを他のみんながもう一度ヒーローとして蘇らせる。これが『王様のレストラン』の要諦ではないでしょうか。

最大の問題児・範朝だって、彼が店を売り飛ばそうとしたことで逆に千石さんが自分はアンチヒーローだと自覚する役目を担っているのですから、ヒーローでしょう。何より、店に戻ることを渋る千石さんに最後の一押しをしたのは、ギャルソンの制服を突きつけた範朝その人です。

最終回で千石さんは高らかに言いました。

「この店は最低です。しかし最低ではあるが素晴らしい!」

第10話では畠山が稲毛に「俺はお前のこと嫌いだけど、好きだ!」と言います。

この『王様のレストラン』では、「○○だけど××」というのが底流している気がします。「あったかいシャーベット」というのもその一環ですかね。

アンチヒーローたる千石さんは明日のヒーロー。
他のみんなも千石さんのようにアンチヒーローになるかもしれない。(特に禄郎)

「ヒーロー(に見える)だけどアンチヒーロー」
「アンチヒーロー(に見える)だけど実はヒーロー」

というのがこの『王様のレストラン』の肝ではないでしょうか。

再び英雄の旅に出た千石さんの目標は、決して「一流のギャラにふさわしい一流のギャルソンになること」ではなく「最低(なギャルソン)だが素晴らしい人間」になることです。それは、親友だった先代オーナーシェフに対して彼が言ったとされる「たとえ一流と呼ばれる店であってもあなたに人を思う心の優しさがないかぎりこの店は三流以下だ」の実践となるでしょう。

エンディングを迎えたときの千石さんにとって難題と思われるその旅が吉と出るか凶と出るかは…

それはまた、別の話。


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