聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

対米従属とクール・ジャパン(永続敗戦論)

社会学者・白井聡さんの著書『永続敗戦論』をようやく読むことができました。(もう出版されて2年以上たってるんですね)



敗戦を受け容れないことは「敗戦」を「終戦」と言い換えることに象徴されていて、そのような意識が消滅しない以上、永続的に敗戦は続いていくという主旨。

素晴らしく面白かった本ですが、私は143ページに書かれている文言に一番気を引かれました。

「自己目的化した対米従属を相も変わらず追求する先輩たちに対して批判的立場をとる彼ら(中略)も永続敗戦の構造に目を向けようとしない。『米国の言いなり』どころか『米国の言いそうなことの言いなり』になることによって、日米以外の諸国との関係において何を失うことになるのか、彼らは考えもしないのである」

そして、白井さんは、

「いったい、そのような国を世界の誰が尊敬するというのだろうか」

と憤っています。

この一節を読んだときに、「クール・ジャパン」という概念が浮かびました。というか、その概念を礎に日々作られ垂れ流されている「日本のここがすごい!」という主旨のテレビ番組の数々が。

あれは、世界の誰からも政治的に尊敬されないのなら、文化的に尊敬されるネタならこんなにあるじゃないか、という「自慰」にすぎないのではないか。

世界中から尊敬されたい。でも対米従属を続けているかぎり政治的な尊敬を得ることはできない。それなら…という無意識が働いていることは想像に難くありません。

あの手のテレビ番組を見て、日本人である私たち自身の胸の内にある卑俗な政治意識を感じ取り、少しでも変わっていかなければ。

あるイタリア人の小説家がこんなことを言っていました。

「小説を書いても世界を変えることはできない。でも、自分が変わることはできる」

同志たちよ、変わっていこうではありませんか。

 


「将来役に立つ学問」という傲慢

もう結構旧聞に属することかもしれませんが、文科省が人文科学など文系の学問は実社会に出てから役に立たないからとかいう理由で学部ごと廃止すると言いだして問題になりましたが、これはまことに愚かなことです。


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尾木ママは、「一番役に立つ学問は哲学、倫理だ。文系の学問こそ役に立つ」と言ってますが、そういうふうに反論するのは敵の土俵で戦うことになってしまって良くないと思います。

「将来役に立つ」かどうかで学問を評定することが愚かなのです。

とはいえ、「役に立たないことこそが人生を豊かにするのだ、無駄なことが大事なのだ」という言説も、結局は学問を役にたつかどうかで評定しているという意味では文科省の政治家・官僚たちと同列でしょう。

私はまず「役に立つ」より「将来」のほうに大きな問題があると思うのですよね。

例えば、中学生なんかが「数学なんて勉強したって将来役に立たない」と言う。確かに一理あるかもしれません。しかしながら、十年後、二十年後の自分が数学と縁のない仕事に就いてるかどうかなんて、なぜ「いま」の時点でわかるのでしょうか。

いま役に立っていないものは将来も同じように役に立っていないはずだ、という前提で彼らは文句を言っていますが、それは論理的に誤ってますよね。誰も将来の自分がどうなってるかなんてわからない。未来を見通せる人間はいません。

「将来役に立つ」とか「将来役に立たない」とかいう言説はすべて「未来を見通すことができる」という神を畏れぬ傲慢な精神から発しているのです。

もっと謙虚にならなければ。将来自分がどうなっているかわからない。だから、いま必要と思われるものだけでなく、こんなの不必要としか思えないものもきちんと学ぶ。

本来そういうことを教えるのが「学校」であり、「学問」の礎だと思うのですが…。



同性婚問題(「神」というフィクション)

今日の「週刊リテラシー」の半蔵門世論調査は、

「同性婚についてどう思うか。①論議するべきだ②論議しなくてよい③わからない」

というものでした。

鈴木奈々さんをはじめ、ほとんどの人が①で、上杉さんだけが「リテラシー的には反対の意見も必要でしょう」ということで敢えて②の意見を述べていましたが、まぁ本音は①でしょう。

私も①なんですよ。でもそれは鈴木奈々さんみたいに「①じゃない人の意見がわからない。絶対①!!!」というものではなく、ほんとは②なんだけど、結局①になるのかなぁ、というものなんですよね。

私はヘテロセクシャルなので、ゲイやレズビアンの人たちの同性を欲する気持ちはまったくわかりません。でも、実際にそういう人たちがたくさんいるのだから、認めて何が悪いの? とも思うんですけど、もっと根本的なところから②なんですよね。

まず、同性婚云々の前に「結婚」とは何ぞや的なところから考えるべきでしょう。

結婚とはお役所に婚姻届を出して、「私たち二人を法律上の夫婦として認めてもらう」ことですよね。

ここからしてもうおかしいと思います。

おかしいというか「まやかし」というか。「法律上の」というところがね。

結婚した二人は同性だろうと異性だろうと「法律上の夫婦」になるだけ。もちろん、生まれた子どもや養子としてもらった子どもも「法律上の親子」になるだけ。

異性の結婚なら法律上の親子じゃなくて生物学的にちゃんとした親子じゃないか、という声が聞こえてきそうですが、生物学的に親子であっても父親が認知しなかったら法律上は親子じゃないわけですよね? 番組内でも言っていました、「同性婚が法的に認められなかったら、子どもが片方の親とは親子だけど、もう一人とは何の関係でもなくなってしまう。だから法整備をしないといけない」と。

ここが同性婚問題の肝だと思います。

結局、同性婚論議というのは、生物学的な親子ではなく、あくまでも擬制としての「法律上の親子」「法律上の夫婦」として認めるべきか否か、ということなんですよね。

それなら論議なんて最初からすっ飛ばして認めればいいんですよ。普通の男女の結婚だって法的擬制にすぎないんだから。

人間が考え出した制度はほとんどが「擬制=フィクション」です。そして、血がつながっているという「現実」よりも法的に親族かどうかの「フィクション」のほうが大事になってしまっているわけです。本当の親子なのに認知してなければ遺産も相続させられないとかいろいろな問題が出てきてしまう。

よく「結婚なんて紙切れ一枚のこと」と言いますけど、まったくそのとおりだと思います。

いくら夫婦が心から愛し合い、その結果として子どもが産まれ、みんなで何十年も仲睦まじく暮らしたとしても、その紙切れを提出してないというただそれだけで何だかんだとさまざまな問題が噴出するんですよね。それは人間社会が現実よりもフィクションを大事にしているからです。

と、ここまできて、初めて宗教的な理由で同性婚に反対する人たちが多数いる理由がわかったような気がします。

宗教的に同性婚に反対する人たちは、この人間社会が擬制=フィクションで成り立っていることの露顕を本能的に恐れているんじゃないでしょうか。

だって、「神」こそは人間が生み出した最大のフィクションですから。

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