2016年02月20日

ここんところ山田太一さんの『早春スケッチブック』を見ることで、とてつもなくやりきれない思いを強いられているのですが、昨日の日記『早春スケッチブック』(慚愧の念に耐えられない)で書くの忘れてたことをつらつらと。

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山崎努演じる「ありきたりが大嫌いな男」は、カメラマンで一時代を築いた人間で、初めて会う18歳の息子・鶴見辰吾に焚き火をしながらこんなことを言います。

「こうやって枯れ枝を見つけると、どの角度から撮るか、光の具合は、寄るか引くか、そんなことばかり考える。そして撮る。撮ってしまえばもう枯れ枝のことなんか忘れてる。次の獲物を探してる。いつの間にか、ひとつの物事をじっと見つめられない人間になっていることに気づく。人を、街を、花を、自分は少しも見つめていない」

これまた私のことです。

夢の実現のためにあくせくばかりしてしまって、周りの風景が目に入らない。きれいな花が咲いていても、そんなものに時間を奪われるのがいやでしょうがない。

山崎努のように「獲物」にしか興味がない。その獲物を表現してしまったらもう興味を失ってしまう。

そして、いつの間にか、自分にしか興味がない人間になってしまいました。

岩下志麻のあのセリフがまた脳裏に甦ります。

「お母さん、自分のしていることにうっとりする人、嫌いよ」

全否定されてしまいました。

吉田喜重監督の著作に、『自己否定の論理 想像力による変身』というのがありましたが、私がここから新たに飛翔するためには、これまでの自分を自分で全否定せねばならないのでしょう。

誰かにしてもらうのではなく、フィクションにしてもらうのでもなく、自分の手で。

それができれば…道は開けるでしょうか。


早春スケッチブック DVD-BOX
岩下志麻
フジテレビジョン
2005-06-01






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2016年02月19日

山田太一さんの1983年作品『早春スケッチブック』全12話を再見しました。

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物語は、母と息子、父と娘がそれぞれ血がつながっている、つまり連れ子がある者同士が再婚した家庭があって、あるとき息子の実の父親が乱入してきて、危ういバランスで成り立っている家庭にさらなる亀裂が入る、というものです。

しかし、ここで物語の内容などどうでもいいのです。

第1話からそうでしたが、最終回などは最初から最後まで涙、涙、涙で、画面がかすんでしまいました。

乱入してくる息子の実の父親というのが山崎努演じるカメラマンなんですが、

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これが、まるで自分の醜い肖像画を見せられているようで身につまされるのです。

山崎努は言います。

「いい学校に入って、いい会社に入る、そんなことはくだらないことだ。おまえらは骨の髄までありきたりだ!!!」と。

私もそういうふうに考えていました。毎朝満員電車に揺られて会社へ行き、笑顔を作ってヘイコラするような人間にだけはなりたくない、と。

もっとはっきり言えば、山崎努のように「自分は特別な人間なのだ」と思っていました。さぞかし鼻持ちならない奴だったと思います。

山崎努の昔の女である岩下志麻は言います。

「お母さん、自分のしていることにうっとりする人、嫌いよ」

まさに私のことです。だから身につまされるのです。慚愧の念に堪えんのです。涙があふれてどうしようもないのです。

ただ後悔、後悔、後悔…それだけです。

最終回、死の病に侵された山崎努は子どもたちにこう言います。

「こないだ君たちのお父さんがここへ訪ねてきてね、会社とお得意さんと二回電話をしてったよ。声を使い分けてね。部下には強い口調で、お得意さんには高い声で愛想よく…そうやって君たち二人を育ててきたんだな、と思い知らされたよ」

自分は特別な人間だ、世の中の大半の連中はありきたりでつまらない人間だ、と言っていた山崎努が、そのありきたりの典型のようなどこにでもいるつまらないサラリーマンに敗北したと認めるのです。

私も認めます。いや、自分に認めさせるために再見したのかもしれません。

私は長い間追い続けた夢を断念しました。だからよけい身につまされました。

でも、それでも、まだ私は自分のことを特別な人間と思っていたのでしょう。何者でもないくせに何者であるかのような顔をしている。

そんな自分に「おまえは何者でもないんだ」と言い聞かせるために、この、見るのがつらいとしか言いようのないドラマをわざわざ見たのだと思います。

おそらく脚本の山田太一さんは山崎努と河原崎長一郎のどちらにも肩入れしてないのでしょう。山崎努は敗北したけど、河原崎長一郎のほうだって最後は歩み寄った。どちらも勝者でどちらも敗者。

でも、これまでずっと河原崎長一郎のような人を蔑んでいた私のような者には、このドラマは敗北でしかありません。いや、ほとんど死刑宣告のようなものです。

続きの記事
『早春スケッチブック』で耳が痛くなった件(二つ目)


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2016年02月18日

いまちょいとした話題になっている池谷裕二先生の旧著『単純な脳、複雑な私』(講談社ブルーバックス)を読みました。



高校生に向けた講義録なのでものすごく読みやすいうえにめちゃくちゃ面白かったです。目から鱗の最新(?)情報が満載でしたが、なかでも私が惹かれた話題は「生物とは何か」というテーマでした。

生物の定義とは何か。

いつか死ぬもの。という答えもありえますが、それは、じゃあ死って何? という問いを生み出し、死を説明しようと「生きてないもの」と答えると、「いつか死ぬもの」という最初の答えが「いつか生きてないものになるもの」となってしまって、答えの中に問いが含まれるトートロジーに陥ってしまう。

他にも聞き手である生徒さんの答えがトートロジーに陥っているケースが多く、著者の池谷先生は「生命とは何かを定義しようとするとえてしてトートロジーに陥るのだ」と諭します。

で、例えば、ここに人間そっくりのアンドロイド(アトム君)がいたとして、人間の太郎君はアトム君を人間だと思い込んだまま急な交通事故で死んでしまうとする。太郎君が死んだあとでアトム君が人間ではなくアンドロイドだったことが判明したと仮定すると、太郎君にとってアトム君は人間だったのか、それともアンドロイドだったのか、という恐ろしく深淵な問いが発せられます。

著者の見解は、やはり太郎君にとっては人間だったんだろう、と。というか、結局、その人の主観でしかないのだというのが「生物の定義」らしいのです。その人が「自動ドアは生きている」と思えばその人にとっては自動ドアは生物だし、アイボが生物だと思えば生物、ただのロボットと思えばロボットにすぎない。

1982年製作の大傑作SF映画『ブレードランナー』のクライマックスで、レプリカント(アンドロイド)役のルトガー・ハウアーの死に様を見つめながら主役のハリソン・フォードの次のようなナレーションがかぶさります。(このナレーションのない最終盤やファイナルカット版を私は認めません!)

「彼は自分のことを知りたがった。どこから来て、どこへ行くのか。何年生きられるのか。人間も同じなのだ」

自分は人間だと思っているあなたも、この私も、もしかしたらアンドロイドなのかもしれません。神が造ったアンドロイド。業田良家さんの『機械仕掛けの愛』の感想にも書きましたけど、人間の「心」と、機械の「機能」は同じなのです。ただ人間が自分の機能を「心」と思っているだけです。人間がというか、池谷先生の論旨に従えば「人間の脳が」。

違う! 私は人間だ。と思っても証明する手立てがありません。ロボットはプログラムされてるだけだ、俺はそんなことされてない! と言ってみても、やはりあなたも私も神にプログラムされてその通りに生きてるだけかもしれないのです。私たちにできるのは「自分は人間だと信じる」ことだけです。自分は自分の自由意思で生きていると思い込むことだけです。

実家で飼っているワンコはどうも自分のことを人間だと思っている節がありますが、あのワンコにとって自分は人間なのでしょう。私たちがいくら「おまえは犬だ」と言ってみても、本人(?)が自分を人間だと信じていることを止めることはできません。

それと同じで、私たちが世間の人たちから「おまえはアンドロイドだ」と言われても、自分は人間だと信じられるならその人は永遠に人間でしょうし、アンドロイドなのかな、と思ってしまえばその瞬間にアンドロイドになってしまう。

幸せ、というのもそれと同じなのではないでしょうか。

他人から見て幸せそうかどうかは関係ないのです、おそらく。
自分で自分を幸せな奴と思えるかどうか。自己満足でいいんじゃないですかね。

何だか脳科学とか生命論とはぜんぜん別の感想に行き着いてしまいました。(汗)





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