聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

夏の新ドラマ

本当なら、今クールは内館牧子さんの『エイジハラスメント』と北川景子の『探偵の探偵』、そして満島ひかりがピョン吉の声を演じる『ど根性ガエル』を見る予定だったんですけど、どれも手元不如意のため逃してしまいました。

それなら、と少し遅めに始まった次の4本をとりあえず見始めてみました。

『表参道高校合唱部!』(TBS、金曜10時)

うーん、いまどきスポ根ものははやらないのでは? スポーツじゃなくて合唱ですけど、根底の精神はスポ根でしょう? 「さまざまな困難にめげずに健気に頑張るヒロイン」というのはもう見飽きました。
生徒役の役者さんは全員オーディションで選んだということですが、どうにも主役の女優さんに華がないというか。歌はすごくうまいんですけどね。

『煙霞 Gold Rush』(WOWOW、土曜10時)

これはなかなか面白かったです。
大阪が舞台ということで俳優陣をすべて関西出身者で固めるというこだわりに好感をもちます。関西弁がすごく滑らかで自然だし。とはいえ、桂文珍はすごくいい人というイメージがあるので悪徳理事長の役をやられてもそんなに悪い人には見えないんですよね。人選ミスかな、と。
世の人が抱いているブラック企業とは違って、理事長が私物化している私立高校をブラック企業として登場させるというのはすごく意義深いと思います。
理事長を脅迫して待遇改善を図るつもりがその理事長が誘拐されて事件に巻き込まれてしまう、という物語展開も楽しく、あと3回しかないというのがすごくもったいない気がします。

『ナポレオンの村』(TBS、日曜9時)

これはもう何も言う気が起きません。つまらない! の一言。あんな市長がいるかなぁ。

『恋仲』(フジテレビ、月曜9時)

客観的に見るとなかなかよろしいのではないでしょうか。でも、私はこういう「すれ違い」や「勘違い」で葛藤が生まれるドラマが好きじゃないんですよね。でもこれはただ単に好みの問題。『ナポレオンの村』みたいに「悪意」が物語を駆動するのではなく、「善意と善意」のぶつかりがドラマを生むという作劇術は王道ですね。
大人になった現在から高校時代を振り返るフラッシュバック形式にもちゃんと意味があって違和感がないですし、随所随所に小さな意外性があって、ラストには大きな意外性をもってきて次回につなげる、という脚本にはとても好感をもちました。
本田翼の体操服姿を見て、「結構太ってるんだな」と思ったのは私だけではないはず。

とりあえず、『煙霞』と『恋仲』は次も見てみようと思います。



私がデモに参加しない理由

戦争法案の強行採決のため、国会前では数日前からかなり大規模なデモが行われているようです。

私自身、戦争法案には大反対なので行きたい気持ちはあるし、ちょっと地下鉄に乗れば行けるところでやってるんですけど、行っていません。時間がないからとかそういう理由ではなく、何となくイヤなのです。

私は何が嫌いと言って「祭」ほど嫌いなものはないんですよね。みんなでワッショイワッショイとやるあれが大嫌いでして。
私をよく知る人なら「確かにおまえはそういう奴だよな」と思うはずです。それほど自他ともに認める「祭嫌い」なのです。

ちょっと前に読んだ、蛭子能収さんの『ひとりぼっちを笑うな!』に書いてありましたが、蛭子さんは「デモに参加するのも何かイヤなんですよ。やりたい人はやったらいいけど、僕はやらない。群れるの嫌いだから」とおっしゃっています。

私の気持ちもこれとほとんど同じですね。

何だかデモって「数の力」を感じてイヤなんですよ。強行採決した政治家たちを数の力で勝手なことやってると言ってますが、言ってる当人たちが数に頼ってるようなところがどうにもイヤなんです。そうじゃない! という声がすぐ聞こえてきそうですが、僕にはどうしてもそう感じられてしょうがないのです。

だって、ツイッターなんかを見ていると、「今日、国会前でデモがあるらしい。行こう!」とツイートしてる人たちがたくさんいますが、誰かが始めた運動の尻馬に乗ってるだけに感じられてしまうのです。根がひねくれ者だからでしょうか。

おそらく、デモに参加する人たちは「自分からは何もしない人たち」なのです。「誰かがやってるから自分も」という人たちなのです。乗り遅れまいと必死に流行を追いかける人たちに似ています。

デモを仕掛ける人は非常に勇敢だと思います。その尻馬に乗る人たちのことを批判するつもりもありません。

ただ、私自身がそういう人間であるのはイヤだ、というそれだけのことを言いたいのです。

それじゃあ世の中は変わらないよ、という声が聞こえてきそうですが、それはまた別の話では? デモだけが世の中を変える武器じゃないんですしね。



宮部みゆき『火車』(新潮文庫)

ずーっと前から読みたい、読まねばと思い続けていた、宮部みゆきさんの『火車』(新潮文庫)をやっと読むことができました。

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この本、兄が「ぜひ読め」と貸してくれたんですが、10年以上積読状態だったんですよね。

やはり700ページという分厚さが結構なハードルで。はい。

とはいえ文章がとても読みやすく、5日がかりとはいえ特に苦痛を感じることもなく読み終えることができました。

しかし…

面白くなかったwww

いや、笑っては失礼ですか。
解説の佐高信さんが「自己の過去を消し、他人になろうとしてなりきれなかった女たちを描いて、この小説は哀切である」とお書きになってます。

うん、それに異論はありません。

ただ何というか、どうしても23年も前の作品なのでいろんな細部に古さがあるのはしょうがないとはいえ、作品がもつ主題や個々の登場人物がもつ個性なども古臭くなってる気がするんですよね。

借金で首が回らなくなって他人になりすます、という手口自体があまり今日性をもっていないし。そりゃ23年前は切実な問題だっただろうし、いまでも切実な問題なんでしょうけど、どうしても「フィクションとしての古さ」を感じてしまうのですよね。

読んだ時期が悪かっただけじゃないか。もっと早く読めばよかっただけじゃないか。と言われたらもう返す言葉がありません。そのとおりです。

だけど、小津安二郎の言葉「新しいとは古くならないこと」を真とすると、その対偶「古くなるということはもともと新しくなかった」も真となります。

最近、手塚治虫の『ブラックジャック』を読み返してるのですけど、少しも古臭いなんて感じませんよ。どの話をとっても普遍的な真実が描かれています。パトリシア・ハイスミスの『贋作』も読み返してみたんですが、これも古くない。トム・リプリーという稀代の悪人を描いてなお清風のような爽やかさにあふれています。(アラン・ドロンが演じてもデニス・ホッパーが演じても少しも違和感がなかったのはハイスミスの造形したキャラクターの基礎がしっかりしていたからでしょう)

だから、この『火車』はもともと新しくなかったのだ。というのが私の結論です。

物語の構造ではなく、この場合はやはりキャラクターでしょうね。
主人公の本間刑事だけでなく、失踪した新城喬子や彼女が殺したと思われる関根彰子、他にもいろいろ出てくる彼女たちの関係者や本間の息子や同僚などなど、どれも「古い」のです。読みながら誰に乗ればいいのかわからない。いろいろ言葉を駆使した比喩も全部滑ってるのがその主な理由のような気がします。他にも理由はあるんでしょうけど、いまの私にはよくわかりません。

この7年後、宮部みゆきは渾身の大作『理由』を上梓、直木賞を獲るんですが、いま読みなおしたら古臭いと感じるのでしょうか。いや、あの大傑作にかぎってそれはないだろう、とは思うものの…?



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