聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

私が吉野家を好む理由

昨日のニュースですが、吉野家が6年ぶりに新卒採用を復活させるとか。
中国をはじめ東南アジアなど海外への進出を強化するためにはアルバイトを社員に登用するだけでは将来の幹部を育成できない、との判断をしたようです。

その判断の是非は私にはよくわかりませんが、新卒採用を復活させるということは業績がよくなってきたということで、すき家や松屋、なか卯などより吉野家を好む私にはとてもうれしいニュースです。

なぜ吉野家が好きなのか。

それは、中国人留学生を積極的に雇用しているからなんですよね。

私は別に特別中国贔屓の人間ではありませんが、やはり日本人としてこの国の歴史と学ぶと、中国というのはアメリカなどよりよっぽど縁の深い国ですし、友人の奥さんが中国人というのもあるし、それに何よりここ最近の反中感情の盛り上がりにはとても悲しい思いがありますのでね。(地元のバイキング中華料理屋が店仕舞いしたと聞いて、これも悲しい出来事でした)

さて、吉野家が中国人留学生を積極的に雇用している理由はよく知りません。食べに行くとほとんどどの店でも中国人の店員がいるので積極的に雇用しているとしか思えません。

10年ぐらい前に中国で反日デモが起こったとき、日本では「中国はけしからん!」という論調が盛り上がり、餃子事件やらドラえもんの盗作事件とかその他さまざまな事件があるたびにメディアはこぞって「中国は信用できない」という言説を撒き散らしました。そして一般大衆はそれに完全に乗せられてみんな「中国製の商品は買わない」と言うようになりました。それならまだしも、「中国人は嫌い」と差別発言を平気でしても誰にも咎められないどころか逆に「そうそう、俺も、私も!」と同調する者しかいなくなってしまいました。

そのような時代の流れのなか、吉野家は中国人留学生を積極的に雇用し続けているんですよね。

これはすごいことだと思います。
もうずっと前から吉野家って客足が減ってるんですよ。牛肉の輸入停止とか値上げとか他の原因もあったりしますが、私自身の実感として一番客足が遠のいたと思ったのは、牛肉輸入停止の1年前、いまから10年前の中国での反日デモ発生のときです。そして、その頃は中国人の店員が多い店ほど客が少なかった。大阪のど真ん中で昼飯時にガラガラなんて普通ありえません。

確かに、海外の支店数を見てみると中国がダントツで多く、中国人積極雇用の裏には、中国支社で将来幹部になる人材をいまのうちに青田買いしておこうという思惑もあるのでしょう。

しかしながら、凡百の会社ならもう10年も前から客足が遠のいていれば少しぐらい中国人の雇用を減らすでしょう。吉野家はそれをしなかったんですよね。いつかは減らすんじゃないかと思っていたら、新卒採用復活までついにしなかった。

素晴らしい! 掛け値なしで素晴らしい企業だと思います。

それに、吉野家や中国人にかぎらず留学生の店員さんは日本人よりいいですよ。生活が懸かってるからとても真面目で誠実で愛想がいいし、マニュアルに囚われてないし。



『陸軍中野学校』(ためらいと言いよどみの禁止)

星川清司脚本、増村保造監督の名作『陸軍中野学校』を再見しました。

やはり素晴らしいですね。まったく色褪せない。

しかしながら何となく変なのはこの映画、戦争を題材にしてさらには主人公が恋人がスパイと知って殺すという哀しい運命を描いているにもかかわらず、少しも「反戦」というメッセージがないことですね。

脚本家も監督も、主人公たちスパイとして養成された者たちに一片の同情も感じていません。かわいそうだとか「もし自分だったら…」などという感傷とはまったく無縁なんですよね。そこが素晴らしい。

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中野学校創設者を演じる加東大介は、陸軍から「これは」と目をつけた男たちを一堂に集めて、これからは本名も捨ててもらう、スパイとして国に尽くしてもらう、と半ば強制的にスパイとして養成されることを受け容れさせます。

そして、養成の過程で神経衰弱になった男が自殺します。市川雷蔵はじめ他の者すべてが「俺もスパイなんて嫌だ」と言い出す。ここで加東大介がスパイとして国に尽くすことの意義を説き、全員が前言撤回して「俺はやります」と口々に言うんですが、冷静に考えると、このシーン、何か変です。加東大介の説得がうまいからといって、えらくみんな簡単に気持ちを変化させすぎじゃないかと。

この次のトピックは、女に溺れて盗みを犯した者(女体に関する授業があるというのが実に面白い!)を生徒全員で恫喝まがいの説得をして腹を切らせる場面。ここも、本気でスパイになろうとしているからといって、あまりに仲間を殺すことにためらいがなさすぎる。

そう、ためらいがないんですよ。この映画では登場人物が大きな決断をする場面が多々あるにもかかわらず、ためらったり言いよどんだりすることがまったくない。ほとんどないんじゃなくてまったくありません。心の中では様々な葛藤があるんでしょうが、映画の作り手たちはそんなものには少しも興味がないようです。


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最後、婚約者が英国のスパイだと知った主人公が彼女を毒殺するんですが、ここでの市川雷蔵もあまりにためらいがない。加東大介に「おまえが殺せ」と言われても悩むということがない。

淡々と会話をし、淡々と酒に毒を盛り、淡々と飲ませ、淡々と遺書を偽造し、何事もなかったかのように去っていく。

「スパイとして養成された男が、恋人が他国のスパイと知って殺す物語」において、そこに潜む複雑な感情を捨象しすぎじゃないか、と思うのですが、これはおそらく、そういう愁嘆場の多い日本映画が嫌いだった増村保造監督の要請だったのでしょうね。主人公が泣きながら恋人を殺すような映画にだけはしたくないという。

この映画は異様なまでにハードボイルドです。ヘミングウェイやハメットがペンで映画を書いたらこういう湿り気のない乾いた映画になるんじゃないかと思われるぐらい、どこまでも感傷を排した、それゆえに異様なまでに物事が淡々と進む映画になっています。

だから、主人公がひどいとも、そういう運命を与えた戦争に対して怒りを感じる、ということもありません。中野学校に批判的だった参謀本部の待田京介が女に機密を漏らしていたことを理由に最前線で死んでこいと命令されても、見てるこちらは快哉を叫ぶことがない。ただ粛々と命令を受け容れる待田京介の姿を呆然と見ているしかありません。

ただ素朴に「行動」だけを描く。これがこの映画の哲学です。

これは真似しようと思っても簡単にできるものではありません。
人間と時代を見つめる冷静すぎる目(いや、冷酷な目と言っていいかもしれない)が作り手に備わっていなければ絶対に作れない傑作だと思います。



ピーター・ハイアムズ監督『カプリコン・1』(『サイコ』との意外な類似性)

1978年製作のアメリカ・イギリス合作映画『カプリコン・1』を久しぶりに見ました。
脚本も書き、撮影もこなすことのある(今回はやってませんが)職人監督ピーター・ハイアムズの個性が出たアメリカ映画らしいアメリカ映画です。

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allcinemaでは「初の有人火星探査船カプリコン1に打ち上げ直前トラブルが発生、3人の飛行士は国家的プロジェクトを失敗に終らせないため、無人のまま打ち上げられたロケットをよそに地上のスタジオで宇宙飛行の芝居を打つ事になる……」とあらすじが紹介されていますが、「3人の飛行士が芝居を打つ」んじゃなくて、国家の命令によって「芝居を打たされる」んですよね。小さいけれど大きな違い。

当然、国家の命令ですから逆らうことなど到底不可能。最初はしぶしぶ芝居を打ちますが、だんだんと反抗心が芽生えてきて脱走します。
ここまでは、陰謀を暴きかけたNASAの職員が消されたり、どうもおかしいと探り出した新聞記者が消されそうになったり、いかにもな陰謀サスペンスの展開なんですね。「陰謀顔」のハル・ホルブルックが黒幕でなければここまで盛り上がらなかったんじゃないかと思えるほど、ハルさんの顔が活きてますね。ここまでは本当に面白いんですよ。
                                                                                                     が、後半は国家が差し向けた軍のヘリコプターとのアクションシークエンス満載のB級アクション映画へと変貌します。

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私は、この展開が何度見ても好きになれなかったんですよね。国家の陰謀が根底に流れている映画なのに、陰謀顔ハル・ホルブルックがほとんど出てこないというのは、やはりどう見てもつまらない。というか淋しい。もっとハルさんを出して!と思ったのは私だけではないはずです。

オーラスがどうなるかは未見の方のために伏せておきますが、何とも陰謀映画には似つかわしくないほど爽やかな幕切れといいますか、すごく笑えるんですよね。あそこで笑えるかどうかでその人の笑いの価値観が測れると思います。笑わない人はたぶんまったく笑えないでしょう。笑えるからいいと言っているのではなく、あくまでも価値観の違いです。

だから、後半のヘリコプターと農薬散布機(テリー・サバラス特別出演!)とのチェイス・シーンは前半の陰謀サスペンスとラストの喜劇的結末を架橋するための「幕間」のような役目を果たしているのかな、と今回初めて思いました。

譬えるなら、ヒッチコックの『サイコ』で、主人公かと思われていたジャネット・リーが有名なシャワーシーンで殺されてアンソニー・パーキンスへと主人公の座が移りますが、その移行において、アンソニー・パーキンスがジャネット・リーの死体を始末する場面が異様に長く描かれます。あの場面を簡単に処理してしまったら「主人公の入れ替わり」という一大発明がスムーズになされなかったと思われます。あそこであれだけの時間をかけてアンソニー・パーキンスだけを映し続けたからこそ観客は主人公ジャネット・リーの死を受け容れ、新主人公アンソニー・パーキンスの到来に何ら不自然を感じなかったのだと。

とするなら、この『カプリコン・1』においての、あの不必要なまでに長いと思われるヘリコプターのシーンも、陰謀サスペンスの結末としては少し似つかわしくない、あっけなく、しかもとても爽やかで笑えるラストシーンを観客に受け容れさせるために、陰謀顔のハルさんもほとんど登場させず、時間をかけてじっくり描いたのではないか、とも思えるのです。

この手の映画で、123分という上映時間はすごく長い。かつてのハリウッドなら95分がせいぜいでしょう。しかし、それを言うなら『サイコ』だって90分ぐらいで語れる内容です。それが110分になってしまったのは、ひとえに主人公の入れ替わりを納得させるために必要な場面を入念に描いたからでは?(ジャネット・リーが殺される直前のアンソニー・パーキンスとの会話も異様に長い)

この『カプリコン・1』も、あのラストシーンを成立させるためにこの長さが必要だったのだと思われます。ヒッチコックはおそらくすべて計算ずくでしょうが、傑作と駄作の落差が激しいピーター・ハイアムズがどこまで自覚的だったかはわかりません。おそらくは偶然の産物、と言ったら怒られますかね。



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