聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

クラシコスペシャル!!(グティ落選、そしてレナウド…)

いよいよあと17時間後に迫った今季最初のクラシコ。

昨日の「クラシコ直前! 生放送スペシャル」を見ました。

クラシコ史上最も偉大な選手トップ50の発表がメインで、その合間にクラシコ・プチ情報などを紹介してくれるなかなか面白い番組でした。

まぁいろんな選手がいるけれどもどうせメッシが1位だろうと思っていたら、やっぱりその通りの結果に。

①メッシ
②ロナウジーニョ
③クリスティアーノ・ロナウド
④ジダン
⑤ディ・ステファノ
⑥クライフ
⑦ラウール
⑧シャビ
⑨プスカシュ
⑩フィーゴ

あとは省略しますが、うーん、どうなんですかねぇ、この結果は。

メッシは歴代最多21ゴール決めてるし生ける伝説だから別にいいんですけど、ディ・ステファノとクライフが5位と6位って低い気がする。リアルタイムで見てたわけじゃないけど、いや逆にリアルタイムで見てる選手が上位に来るって何か落ち着かない気がするのは私だけでしょうか。

映画でも、時折「史上ベストテン」とかあって、毎度『市民ケーン』が1位なのにはもう辟易するしかないんですが、それでもいくら好きな映画だからって『ゼロ・グラビティ』とか『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』とかが1位になったりしたらそれはそれでやっぱり落ち着かない。それなら『市民ケーン』が1位に座っていてくれたほうがまだしもしっくりくる。

だから1位はディ・ステファノかクライフであってほしかったな。

それに、プジョルとカシージャスが19位と20位ってあまりに低くないですか? 最近の選手が上位に来るなか、この二人の生え抜きレジェンドの順位が低すぎます。特にプジョルはマドリディスタの私も大好きでしたよ。放送中でも何度も流れてましたが、あのヘディングシュートは素晴らしい! まさに魂のゴールでしたね。

あと、私の大好きなグティが50位にすら入ってないというのはどーゆーこと???


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スルーパスだけならあのジダンよりはるかに上だったと思いますが、やはりラフなイメージが災いしたんでしょうか。それにクラシコ直前に怪我して出れないなんてこともしばしばだったし。

それでも私にとって「サッカー選手」といえばホセ・マリア・グティエレス・エルナンデス、通称グティこの人のことです。

あと気になったのは、クラシコの特集番組なのになぜ他のリーガやチャンピオンズリーグのダイジェストが流れるんですかね? ゴールがない選手でも激しいタックルで相手のチャンスをつぶしたシーンとか探せばあると思うんですけど。

とかそんなことよりも、昨日の番組にはロナウドならぬ「レナウド」が出ていたことが一番良かったです!!





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そうです、リーガールの武田玲奈ちゃん。司会のペナルティ・ヒデが「レナウド」と紹介していたのでこれからはそう呼ばせていただきます。

このレナウドが合間合間にクイズを出すんですが、思いきりカンペ読んでて普通なら怒られまくりでしょうし、視聴者からもクレーム来まくりなんでしょうが、おそらくそういうことはなかったでしょう。だって、かわいいから。
うまくカンペを読めなくてちょっとずつしか読めないんですけど、それが逆に初々しくてかわいいんですよ。だからすべて許します。

こんなこと言うと女性は「何で男ってそうなの?」と真顔で訊いてきますが、当たり前じゃないか!!! かわいい女こそ女であって、かわいくないあんたは女じゃないって現実に直面してください。

実家で飼ってるワンコは大自然がものすごく厳しいところだということを少しも知らずに呑気に暮らしてるんですが、だからこそかわいいわけです。

レナウドも箱庭娘として無垢で天真爛漫なまま天寿を全うしてほしいとすら思いますね。

何だかクラシコがどうなるとかそういうことよりレナウドの日記になってしまいましたが、あと17時間、括目して待ちましょう。



池波娼婦、若尾娼婦、三田娼婦(娼婦描写の政治学)

このところ娼婦づいてます。

池波正太郎の『娼婦の眼』(講談社文庫)
川島雄三監督、若尾文子主演『女は二度生まれる』
成沢昌茂脚本・監督、三田佳子主演『四畳半物語 娼婦しの』

まずは『娼婦の眼』



池波正太郎が若き頃にはまだ赤線というものがあり、この連作短編が書かれたのは赤線が廃止された直後の時代なんですが、廃止されても売買春というものがありそれが人間の悲しい性であって、違法行為に手を染めてもたくましく体を売って生きていく女たちの姿が描かれます。

そのコンセプトには一も二もなく大賛成なんですけど、やはり娼婦というと「汚れた仕事」という世間一般のイメージがあるからか「娼婦は世界最古の職業なのである」と作者自身が言っていて、これは娼婦という仕事の素晴らしさを謳っているというより開き直りとも言い訳とも取れる言葉なんですね。

そのためか、この短編集で描かれる幾人もの娼婦には縁談が持ち込まれるんですが、相手の男がいくら女のことが好きでも娼婦だとわかった途端、手の平を返したかのように「騙したな!」と激怒して去っていく。そんな男の馬鹿さ加減を作者は嗤っているしこちらも笑っちゃうんですけど、しかし、娼婦を否定する存在を描くことで逆に娼婦賛歌にもっていくやり方が私はどうしても好きになれないんですね。

それは、名監督・川島雄三がこれまた名手・井手俊郎と脚本を書いた『女は二度生まれる』でもっとひどくなります。



若尾文子演じる娼婦は、ある社会的地位の高い旦那・山村聡の二号であり、すし職人フランキー堺や最後まで何が商売かわからない山茶花究らが常客でもあり、さらに童貞君の筆下ろしをする存在でもあり、また、関係はもたないけれどあるエリート大学生を好きになる純粋な存在でもあったりします。

ここには娼婦を否定する人はほとんど出てきません。唯一、山村聡夫人の山岡久乃が山村が死んだときに喧嘩しに来ていろいろ汚い言葉を浴びせかけるくらいでしょうか。それでも山岡久乃は「娼婦」である若尾文子を難じに来たのではなく、あくまでも「愛人」だった若尾に嫉妬しているだけです。娼婦という存在を否定しているのではありません。

この映画では終始、娼婦であり金持ちの二号である主人公の喜怒哀楽を何の批評もなしにそのまま純粋に描いています。ラストシーンまでは。

ラストシーンは、いつの間にか結婚して子供までいるフランキー堺と電車の中で一瞬の再会をした若尾文子が次の駅で降りて、たった一人で垣根に座ってため息をつくというものです。このカットがとてもいじわるというか、若尾文子を大ロングショットで撮るのですね。3日前の『レインマン』に関する日記では、主人公を客観的に突き放すならロングショットかフルショットで撮るべきだったと書きました。あれは「改心したのに時すでに遅しだった主人公に対して『自業自得だったんだよ』という批評の意味をこめてほしかった」という意味でしたが、この『女は二度生まれる』のラストの大ロングショットは「娼婦は好き勝手に生きてるけれど、こんなにも孤独で淋しい存在だ」という批評には違いないですが、それまで主人公を批評する登場人物がいないのに最後の最後で作者たちが主人公に批評を下しています。

『娼婦の眼』ではあくまでも登場人物たちが娼婦を批評するのでした。そして娼婦を批評した人物に対して作者がさらに批評を加えることで娼婦賛歌になっていましたが、『女は二度生まれる』では作者が直接娼婦を批評していて不快でした。作者たちが主人公を見下していて、少しも愛していなかったことが最後の最後で明らかになるなんて、それまでの時間は何だったんだと。この映画は娼婦を馬鹿にしています。すべての観客から唾棄されるべき愚作と断じます。

では、名脚本家・成沢昌茂が監督も務めた『四畳半物語 娼婦しの』ではどういう娼婦の描き方がなされていたのでしょうか。

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画像にあらすじが書かれていますが、『女は二度生まれる』と同様、ここでの三田佳子(と野川由美子)を批評する登場人物はいません。しかし『女は~』とは違って作者が三田佳子と野川由美子を批評することもありません。

最後は、情夫を殺され、殺したのが好きだった糺という男で、すべてを失った娼婦しのが新しい客に抱かれる顔のクロースアップで終わります。『レインマン』で、主人公の心情に寄り添うならクロースアップで撮るべきだと言いましたが、この映画ではまさにそれが実践されているのですね。

別に三田佳子も野川由美子も「娼婦だから」不幸になったのではありません。ただちょっとした運命のいたずらで不幸になっただけです。娼婦だから汚れているとか、娼婦だからこそ尊いとか、そのような善悪二元論とも無縁です。

ただ、悲しい目に遭いながらもそれでも客がついたらその男に身をゆだねなければならない娼婦という存在の哀しみに作者がそっと寄り添うのみです。

これは、いくら悲しくつらい目に遭っても、それでも生きていかなければならない人間全般に対する愛情に通じます。

だから『四畳半物語 娼婦しの』は傑作だと思うのです。決して溝口ばりの長回しで撮られているから傑作なのではなく(確かにあの長回しの連打は素晴らしかったですが)娼婦を「娼婦」と見ず「たまたま体を売る仕事をしているだけのただの人間」という捉え方に非凡なものがあったと思います。

池波正太郎でも川島雄三でもなく、監督の経験があるなど知りもしなかった脚本家・成沢昌茂によるこの名もなき一編の映画こそ娼婦物語の傑作と叫びたい。

体を売ることは悪か悪でないかという善悪二元論から脱する、つまり「政治的な正しさ」からどこまでも自由なのですから。



『レインマン』(ラストショットに監督の迷いを見た)

1988年製作、バリー・レビンソン監督、トム・クルーズ主演による『レインマン』を久しぶりに再見しました。

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え? トム・クルーズ主演!? ダスティン・ホフマン主演じゃないの???

そりゃまあホフマンはアカデミー主演男優賞を受賞してますが、本当の主演ではありません。マーロン・ブランドが主演男優賞を獲り、アル・パチーノが助演男優賞候補となった『ゴッドファーザー』と事情は一緒ですね。ネームバリューの大きいほうが主演扱い。でも本当の主演は『レインマン』ではトム・クルーズであり、『ゴッドファーザー』ではアル・パチーノです。(『ゴッドファーザー』の主演は誰かという解説はこちらをご覧ください)

この『レインマン』では、まずトム・クルーズ演じるチャーリーが中古車会社の社長を務めていますが業績が悪いらしく、近日中に借金を返済できないと倒産の憂き目に遭うという設定から始まります。

次が、チャーリーの親父が死んだという連絡。親父さんは大金持ちだったのでチャーリーは遺産が入る、これで倒産は免れると期待します。しかし、遺産の300万ドルはすべてある人間に譲るという遺言が残されていました。そんな馬鹿な! そのある人物とは誰だ!? とチャーリーは管財人のところへ突っ走ります。そこである人物の正体を知ります。チャーリーの唯一の肉親、兄のレイモンド(ダスティン・ホフマン)でした。レイモンドは自閉症を患っており金の価値がわからない人間でした。

冗談じゃない、金の価値のわからない人間に300万ドル? いくら何でも半分の150万ドルは俺に権利があるはずだと誘拐同然にレイモンドを連れ去るチャーリー。

そのチャーリーがレイモンドをロサンゼルスの自分の家に連れ戻るまでの6日間に兄への愛情が湧き、「もう金なんかどうでもいい、お兄さんと一緒に暮らせるなら」と思うものの、一緒に暮らす許可は下りず、レイモンドはもとの病院へ連れ戻されます。

会社は倒産、たった一人の肉親であり愛してやまないレイモンドとは引き離されたチャーリーは、レイモンドを乗せた列車が遠ざかっていくのをただただ呆然と見送るのみ…。

というのが物語のあらましです。

やはりこの映画は鼻持ちならない傲慢男チャーリーの変化、そして変化したときには時すでに遅しという運命の皮肉を描いているのだからチャーリーが主人公、つまりトム・クルーズが主役です。レイモンドはチャーリーを困らせるトラブルメーカーにすぎません。弟を振り回す兄を描いているのではなく、兄に振り回されながらそんな兄に愛情を抱く弟を描いているのです。

と、ここまで説明しても「やっぱり『レインマン』の主役はダスティン・ホフマンだ」という人が結構います。それほどまでに「主演」男優賞を獲ったという威光は強いのでしょうか。

さて、本題はここからです。

チャーリーの心の変化がきちんと描き尽くされているかというと、どうも煮え切らないものを感じます。変化した一番のきっかけラスベガスでの大儲けなんでしょうが、大金を稼げたから変化した、兄への愛情が湧いた、というのでは、金の亡者が「金なんかどうでもいい」という心境へと変化したことにはならないんじゃないでしょうか。

ヴァレリア・ゴリノ演じるチャーリーの恋人も明らかにレイモンドを愛しているようです。キスまでしちゃうし。チャーリーは鼻持ちならない傲慢な男で、いくら亡父に対する恨みがあったとはいえ相続人のレイモンドをあまりに無茶に扱いすぎです。

そのチャーリーの変化を描くのが眼目で、ラストシーンはかなり印象的ですが、やはり変化のきっかけがラスベガスでの大儲けというのが痛いですね。あれではやはり変化したように見えないんです。

チャーリーは本当に変化したのか。もう鼻持ちならない傲慢男ではなくなったのか。監督バリー・レビンソンの迷いが見て取れるのがラストショットです。

あの画像がいくら探してもないので、興味のある方は映画本編を見てください。古典的ハリウッド映画の作法ではありえないショットなのですよ。

もう金なんかどうでもいい、お兄さんと一緒に暮らせるなら。そこへの心境の変化が描き切れているかは疑問としても、脚本家の狙いがそこにあるのは確かです。それならば、ラストですべてを失った主人公チャーリーがレイモンドを乗せた列車を呆然と見送るショットは、主人公の心情に寄り添うならクロースアップかせめてバストショットであるべきだし、主人公を客観的に突き放すならフルショット、またはロングショットで撮るべきでしょう。

しかし実際には、バストショットより大きめのウエストショットなんですね。バストショットでもフルショットでもなくウエストショットを撮ったバリー・レビンソンの迷い。

上述の「チャーリーは本当に改心したのか?」という疑問が最後まで頭から離れなかったんじゃないでしょうか。だから寄り添っていいのか突き放して撮るべきなのかすらわからず、ウエストショットという中途半端なショットになったのではないか、というのが私の仮説です。

この映画はスピルバーグとかさまざまな人が監督として名前が挙がりながら撮影直前まで決まらず、バリー・レビンソンに落ち着いたという話ですが、脚本に疑問があるとスピルバーグや他の監督たちは降りたんじゃないですかね? しかしプロデューサーのマーク・ジョンソンはバリー・モローとロナルド・バスの脚本に固執し、『ダイナー』でデビューさせた子飼いのバリー・レビンソンを引っ張り出すことになった。しかしそのレビンソンも脚本を読んで同じ疑問を感じ、中途半端なラストシーンになったのだと推察します。

あのラストシーンはサイズだけでなく、普通なら列車とトム・クルーズをもっと何度も執拗にカットバックしてもよさそうなのにえらくあっさりと終わってしまいます。

そういうところにも監督バリー・レビンソンの脚本に対する迷いを感じました。



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